タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

梅雨の我が家と、7月の演奏会『時をこえる音楽の旅』のお知らせ

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※先だって京北・大野で行われたジャズ・ライブKAYABUKI Noteで使った、作りたてのQuena2種。ボリビア在住の杉山氏に譲ってもらった、キルキと呼ばれる鮫肌の材で製作したもの。なかなか良い。


夏至が近づき、夕暮れまでの時間が長くなった。雨が続いているから、その中の晴れ間には草を刈ったり、苗を植えたりして、外に出ることも多い。あちらこちらにハーブが植わっているので、名も知らない草たちの香りを含め、敷地内は匂いの万華鏡のようになる。

 

そんな匂いにつられてか…このところネットのくぐり方を覚えてしまった小鹿が、明るいうちから頻繁に我が家にやってくる。気配を感じて見に行くと、草むらの向こうから首を出して傾げていたりする。もちろん、畑のものをかじられても困るので、いつもの通り追い出そうとするのだが、軽やかに四本足でハーブの上を飛び回るので、出口まで誘導するのが一苦労である。ネットを締め直してると、池の近くから鳴き声をあげて僕を呼ぶ。…どういうつもりなんだろ。

 

あの子たちが来てるということは、間違いなくヤマビルが庭に潜んでいる。ヤマビルの認知世界は哺乳類の発する二酸化炭素や体温、微細な振動によって構成されているので、あれこれ防御をしていても彼らはこちらを認知し、ニョキニョキやって来る。雨上りにはトノサマガエルたちが歩くごとに飛び回り、何とも可愛いのだが、この子たちが沢山いるということは、ニョロニョロたちも沢山やって来る。

 

しかし最近の困り者は、何と言ってもハクビシンたちだ。かつて、タヌキやアナグマたちが我が家の軒下に住み始めた際は、絶え間ない床振動作戦と、縄張り主張威嚇作戦によって引っ越し頂いた訳だが、僕は元々イヌ科であるタヌキLoveなので、実は周囲をうろつかれてもそれ程いやではなかった。イタチ科のアナグマも、留守中の我が家の庭に穴を掘りまくった訳だが、まぁ憎めないヤツらではある。しかし、ジャコウネコ科のハクビシンたちは、このところ決まって我が家の玄関に狙いを定め、糞をする。つまり、巣を作っている訳だ。追いかけても素早く木だの柱だのに登って行ってしまうので、なかなかに厄介なのである。

 

ところで…長い間、僕が違和感を覚えてきたことがある。大半の時間を、実際には自然から離れた人工物の中で暮らしている人間が、「自然を謳った音楽作品」を演奏したりする時に漂わせてしまう、一種のウソっぽさというか、空々しさのようなもの。どうしてそういうものが漂ってしまうのかというと、それは「そこで描かれているもの(求められているもの)が、人間に都合よく描かれた、幻想(ファンタジー)としての自然だから」じゃないかな、と思う。

 

人間に癒しやエネルギーを与えてくれる、都合の良い対象として描かれた自然、ある意味「向こう側にあるもの」としての、架空の自然(具体的なイメージだと、ジブリ・アニメなんかで描かれる自然や、大きめの森林公園みたいなイメージなのかも)。そのような「夢見がちな都市人間の作り出す自然像」の中では、面倒くさいものや気持ち悪いもの、近寄り難いものや理解し難いもの、そして人間などお構いなしに変化する、人智を超えた、ワイルドでパワフルなものの姿が描かれることは、あまりない。

 

人間にとって時には厄介な自然の姿や、時折牙をむく凶暴な自然の姿が、音楽作品の中で描かれていることは、まずない。そういうのは作品にもなりにくいのだろうし、この社会では商品にもなりにくい。享受主義でバーチャルな現代社会だから、それも当然かも知れない。

 

同じような場所で、同じような暮らしをしている者同士の間では、世界観や価値観は共有されやすい。同じような視野の者同士の間では、思想も幻想も共有されやすい。だからファンタジーを共有する者同士の間で、需要と供給が成り立つ例は多い。成り立っているうちは、疑問も湧きにくい。それがいいとか悪いとかいう話じゃない。人間には、そういうところがある…ということだし、もちろん僕だって現代を生きる人間だから、こういった現象が世の中を覆っていることは、よくよく理解している。

何故、僕はそういうのに馴染めず、違和感を覚えてしまうのか。そういうのに真実味を感じられなくて、いちいち気持ちが萎えてしまったりするのか。おそらく、僕は、厄介でワイルドで人間の都合を意に介さない自然の諸々に、どこかで愛着があるからだ。

 

人間の作った都市・街・居住区というものは、地球上にポンと置かれたコロニーのようなもので、そこからは人間や人間の作ったもの以外(現在、自然・天然と呼んでいるもの)が、一旦可能な限り外に追い出されている。まぁまぁ徹底して締め出したくせに、それじゃ寂しいからと言って、自分たちが制御しやすそうなものだけを選んで、ちょこっと戻している。そういう都合の良い発想が、力の行使が、この人間の居住世界を形作っている。農村・山村だって、そういう感覚が根底にはあると思う。

 

でも農村・山村では、人工世界とそうでない世界がすぐ近くで接しているし、混じって未分化な部分も多い。人間以外の世界が常に近くにあり、人間世界を眺めている視線がそこかしこにある。その間で行き交っている生命が常にあって、その間で絶え間のないせめぎ合いがある。そういった、間(はざま)に身を置いて、双方を眺めようとしていたら、僕たちは常に「人間というもの」に向き合わされ、気付かされることになる。

 

僕のような感覚の人間は、もしかしたら、こういう所だからこそ、自分が音楽だと感じられるような音楽が「できている」のかも知れない。自分が愛着を感じているのは、自分たち人間が作り出す幻想の方ではないと、確かめることが出来るから。

 

ところで、「出来る」「出来た」という言葉は、近代以降は「可能(~ができる)や完成(できた~!)を表す言葉」としか使われていないが…本来の意味はもちろん、そうではない。文字そのままの意味で、「出来る」とは元々「出(い)で・来る」という意味だ。

 

どこから、どこに向かって「出で来る」のか。

何かに関する可能や、何かの完成を形作っているのは、僕たちが普段安易に使っている「自分」などという、(自分ではないと思われるものを排除し、区切って名付けて居座っている)小さな地点ではないのだろう。自分と自分でないものは本来未分化なものでもあり、そのような拡がりを持つ認知状態の内から「出で来る」ものを、いつもキャッチできる自分でありたいとも思う。

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※5月25日の公演用に製作した、アルメニアの縦笛シュヴィ。下記の演奏会でも使用する予定。僕がこのところ注目している、アルメニアクレタ島モルドヴァのチャンゴ―音楽には、共通しているものがあるような気がしている。


さて、肝心の演奏会のお知らせ…でも、実はもう残席はあまりないので、もしご興味をお持ちで、ご都合よい方がおられましたら、早めにお問い合わせを!
※ブログ公開後の6月16日夜に、予約は定員に達し、締め切りました。キャンセル待ちご希望の方は、ご一報下さい

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※この写真は、ウズベキスタンのモスクの内側の壁。描かれているデザインはキリスト教由来のもの。オアシス国家であるウズベキスタンサマルカンドには、狭い地域に少なくとも21種類の宗教施設があるそうだが、それぞれの内に、異なる宗教由来のものが共存し融け合っていることが少なくないという。もちろん、言うまでもなくこういう現象は音楽にも頻繁に見られる。

「きのくに」の洞窟

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紀伊の国は、かつて「木の国」と呼ばれていたという。
降水量の豊富なこの辺りがその昔、見渡す限り木々に覆われていたであろうことは、今の風景からも容易に想像がつく。  全国津々浦々に散らばる鈴木さんたちの多くが、熊野発祥ではないか…という説があるが、木は音として鬼にも通じ、あの九鬼一族も熊野水軍の末裔の一つと言われているくらいだから紀伊の国はある意味、「鬼の国」でもあったのかも知れない。

南紀白浜を訪れたのは、本当に久しぶりのことだった。一応仕事(演奏)に行ったはずなんだけど…演奏する三段壁の真下が、熊野水軍にまつわる洞窟だと知った瞬間から、心はスッカリその洞窟に引っ張られ気味だった。つい先月、壇ノ浦の辺りを訪ねたばかりだったので、このタイミングも実に興味深い。壇ノ浦の合戦の明暗を分けたのは、平家・源氏双方と由縁のあった熊野水軍の参戦(源氏への寝返り)であった、とも言われているからだ。


崖上から地下へ36メートルを一気に下ると、そこはもう異世界になる。南紀の海辺には7000万年前の頃からの岩が並んでいるそうだが、この三段壁(古くは「みだん/見壇」壁であったという)の洞窟は、巨人が削り取ったかのような豪快な岩肌が、地の底のような色彩を纏いながら暗闇に浮かび上がる、何ともファンタスティックなゾーンである。かつて謎の古代海洋生物が棲息していたのではないか…と思えるようなこの穴ぐらに、ゴウゴウと流れ込んでは響き渡る、波の爆音。この非日常空間が放つパワーに浸りながら、1600万年前の波の跡が化石化したという岩天井を見てると、たかだか840年ほど前の源平合戦のことなんて、もう半ばどうでもよくなってくる。

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洞窟のあちらこちらには、どデカい鉄の扉が設置されており、台風が襲って来た際には、職員が波をかぶりながら、時には波に足をとられながら閉めると聞いた。削られた岩肌に打ち込まれ、まっ茶色に錆ついた鉄の塊を眺めていると、そのリアルさにワクワク感が止まらない。暗闇といい、穴ぐらといい、波の音といい…放っといたらイマジネーションが湯水のように湧きそうな場所だった。

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近くにある千畳敷でも、砂岩の織り成す造形の美しさに目を奪われた。植物はもとより、岩や砂や水は太古からの様々なものごとを記憶しているというが…触ることで読みとれるなら、一日中でも触っていたくなる。

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今回の演奏を依頼してくれたKさんからも、洞窟を案内してくれたSさんからも、白浜には良い温泉が湧いていると聞いていたので、帰りにお薦めの温泉に行ってみた。確かに泉質が良く、気持ちいい。先ほど洞窟の中にいたので、地中感覚のままで温泉に浸かったため、あがったら「今しがた、地球から生まれてきた感」があった。

何とも贅沢な一日だった。演奏もちゃんとしました(この日は…フルイエル、カヴァル、ティリンカ、フヤラ、ブズーキ、ギター型ブズーキ)。

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ブログ再スタート

父がこの世を去ってから四ヵ月が過ぎ、ようやく最後の遺品整理と諸々の処分を済ませて、父が育てていた金木犀を我が家の庭に持ち帰ることができた。枝を払われ、少しばかり小振りになった金木犀を眺めていると、僕自身も大きな節目を迎えさせてもらっていることを改めて感じた。陽のあたる、良い場所に植えてやろうと思う。

 

先だって京都で催した「いにしえの音楽夜会」も、自分にとっては大きな転換点になった。久しぶりに演奏曲の大半が初演曲だったこの舞台…曲だけでなく、楽器も奏法も(南米系やケルト系の手慣れた笛も使わない)新しい挑戦のオンパレードだったので、自分の演奏の仕上がりで言うなら、決して満足できた訳ではなかったが、それにも関わらず、終演後その場を去り難いほどの心地良い余韻を僕は感じていた。自分の演奏に対しては厳しくなりやすい僕は、舞台を終えて達成感や満足感を抱くことがこれまであまりなかったので、今回感じた後味には少なからず驚かされた。

 

客席の人々にとっては、全く馴染みがないであろう地域の、全く初めて聴くはずの音楽が並んでいるにも関わらず、2時間余りの間、途切れることのない集中力が伝わって来ていた。過去にも未来にも拡がる大きな時間の中を、皆さんと一緒に旅ができたような…そんな気がした。

 

自分なりの想いやこだわりが、思うような形で充たされずとも、心地良い余韻を感じれるような瞬間や経験というものが、日々の中にはあったりする。ひょんなことで、過去未来を超えた時の流れの中を一緒に旅しているような人々と出会うこともある。そうして人生は、去り難いものになってゆくのかも知れない。

 

ともあれ、こうして節目と思えるような出来事が続いたので、これを機会に更新が(2015年から)ストップしていたブログを再開しようと思い立った。ところが、IDはおろかパスワードから登録メルアドまでエラーが出てしまい、編集画面を開くことすらできない。

 

これは心機一転、新しくスタートせよということなのかも知れない。そう捉えて、こちらで改めてブログを再スタートさせることにした。こんなことが、以前にもあったような気がするんだけれど(笑)

2015年以前のブログにご興味のある方は
https://blog.goo.ne.jp/futsufutsu_taroを、そしてここ数年の僕の動向に関心を持ってくれる方は、facebook投稿https://www.facebook.com/Taro.Kishimotoを、講演関係のブログはhttp://ark2016.blog.fc2.com/ を、参照してもらえたら嬉しいです。

このブログが、僕と皆さんの世界をつなぐ新たな窓となり、扉となればいいな、と思っている。
 

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※5月25日「いにしえの音楽夜会」…この日演奏した楽器は、アルメニアのシュヴィとタブ・シュヴィ(共に僕が製作したもの)、モルドヴァのカヴァル、スロバキアのフヤラ、ギリシャのブズーキ等。