タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

タイムとミツバチと、それから春の日々

ミツバチの羽音やクマンバチの羽音が庭に響き渡るようになると、ようやく春を迎えたな~という実感が湧く。今年はタイムの範囲が更に拡がって、庭が一面ピンクに彩られているので、ミツバチたちの群が来るのを心待ちにしていた。何といっても、いろんな種類の鳥たちの歌に交じって羽音が響き渡るのは、たまらなく美しい。

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タイムは石の上なんかが大好きなので、庭よりも建物に押し寄せてくる(笑)

とは言え、まだ朝方は5度を下回ることあるので、朝夕は肌寒い。逆に日が高くなると汗ばむくらいの陽気になるものだから、草刈りはタンポポカモミールたちが完全に開花しきってハチたちがやってくる時間までにしている。

 

ところで我が家のタイムの蜜は、一体どこに集められているんだろう(笑)?空き家のままで、廃墟のようになってしまった我が家の巣箱ではないようだけれど。

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花に陽が当たり始めると、ミツバチがいっせいに飛んでくる

さて、この前久しぶりに意気揚々とキックボード(最近はキックスクーターって言うのかな)で近所に出かけたら、道の凸凹に前輪がハマって、盛大に路上でこけてしまった。近所にフクちゃんという、最近毛が抜けて衰えてしまったコーギー(犬)がいるんだけれど、そこのオジサンがちょうど帰宅したところで、フクちゃんとオジサンに挨拶しようとよそ見した瞬間の出来事だった。

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膝すりむいたの、何年ぶりだろう…筋力落ちてるのも実感…こりゃいかん!

慌てて手をつき起き上がると、Gパンの膝がド派手に破れている。つまり、子供のように膝をすりむいてしまった訳だけど、こういうケガをしたりすると何だか脳が活性化しているような感覚がする。頭の回転が突然速くなる瞬間があったり、風景が鮮やかに見える瞬間があったりする。不思議だけれど、ケガした時の人間の感覚って、そういうものかも知れないなぁ。大きいケガはもちろん、しないに越したことはないけれど、小さなケガもしないような暮らしをしていると、何か自分に備わっている能力を活かしきれていないような気持にもなる。

 

たとえば、我が家の庭にはトゲトゲの奴らがはびこったりするので、草刈りには注意が必要だし、少し放置したりすると奴らが方々に伸び散らかして、なかなか厄介なことになる。草を刈る際に、気を付けてはいても、毎度少しはチクリと刺さることなんかもあるので、基本的に厚手の手袋は必須なんだけれど…こうして草刈りをしていると、手袋なんかがろくになかった昔の人は、イバラやトゲトゲたちにどう対処していたのかなぁ、と想いを巡らしてしまう。

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庭のど真ん中に陣取っているジューンベリー

でも、僕も庭に出てたまたま目について手袋を取りに行くのが面倒な時なんかは、そのまま素手で草刈りを始めてしまうこともある。そんな時は、トゲトゲが潜んでいることも見越してか、左手の使い方が自然に変わっていたりする。

 

草むらに手を差し入れる時、独特の柔らかい感覚になって手を入れる訳だけれど、トゲトゲをつかむ際も自然に柔らかく持つようになる。もちろん出来るだけトゲの個所を避けて持とうとはするんだけど、触れた瞬間に「刺さらない」手になれるというか…フワリとした手で草に触れることで、センサー能力が高まっているから、棘の上から持ったり掴んだりしても、刺さらなかったりする。

 

こういう時はまるで、自分の肌が別の状態に変化しているような感覚にもなっている。このような感覚を、日常のすべての事象に応用できないかな、と常々考えたりしている。何かとても重要な「技術」が、この感覚には隠されているんじゃないだろうか。

 

さて、今週末には数日間大分に赴く。大分の山香にあるカテリーナ古楽研究所のイベント、「Sing Bird」に出演するためだ。カテリーナ古楽研究所の創設者・松本公博さんが急逝されたのは、昨年の秋…僕がトランシルヴァニアバスクアルメニアジョージアを巡っての旅から、帰国して直後のことだった。

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5月11日の、祈りの夜に出演…アルメニアの曲も2曲入っている

公博さんと出会ったのは10年ちょい前のことだけれど、自給自足生活をしながら古楽器を製作し、社会に蔓延する思い込みや近代的思考と闘ってきた公博さんとは、最初にお会いした時から他人とは思えない程、共鳴するものがあった。自分以外の人で、そして自分よりも先に、同じようなことをたくさん考えて、同じようなことをたくさん試して、自分よりもずっと力強く生きてこられた人…そういう人に出会えて、純粋な感動を覚えた。

 

僕の中では、公博さんとしか共有できないような話(他の人と話しても心底では共有できないような話)が幾つもあった。なので、2018年の旅で目にした音楽や楽器やそれらの文化について、話したいことや見せたいことがいっぱいあったんだけれど…それは叶わなかった。しかし(ちょうど神道で四十九日にあたる五十日祭の前夜に)山香を訪れ、その際にご遺影の前でカテリーナのご家族皆さんと旅の話や音楽の話を長々としたから、きっと公博さんとも共有できたんじゃないかな、とは思っている。

 

カテリーナの皆さんとは以前、古楽研究所や竹田・長湯でのコンサートを企画して頂いた際などにご一緒させて頂いたことはあるが、このSing Birdとは縁がなくて、僕は出演したことはなかった。今回16回目の開催、そして今回がファイナルとなるこのイベント…公博さんがいないこのタイミングでようやく出演することになったのも、何だか不思議な気持ちがする。

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左から、Shvi、TabShvi、Blul...Blulはアプリコット木だから、果実の香りがする

今回演奏内容の大半が、中世の音楽。僕は昔から中世やルネッサンス時代の音楽には親しみがあるが、この舞台には全曲、練習し始めたばかりのアルメニアの笛で、しかもカテリーナの未來君(公博さんの息子の)に譲ってもらった古竹で製作した笛で、のぞむことに決めた。南米の笛やケルト系の笛のような、自分にとって慣れた楽器ではないし、自分が想うようなイメージの演奏に成り得るかは分からないけれど、遊びやチャレンジでのぞむ方が、公博さん追悼のステージにはふさわしい気がしたから。

 

カテリーナさんに、特に公博さんに所縁のある演奏家が集まっての大合奏。どんなサウンドになるのか、今から楽しみ。https://www.singbirdconcert.com/day1

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我が家の芋虫たちが次々アゲハに…これからはアゲハたちが乱舞する季節

それにしても、美しい季節。陽のある時間全てを、外で過ごしたいくらい。本格的な夏が来るまでは、できるだけ外にいようと思う。

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天気が良ければ、外でご飯も仕事も…裸足でいられるようにしてある

 

3月から4月にかけてのご報告

このところ、FBでは近況をアップしていたものの、ブログの方にはアップできていなかった…ので、まずは早足で3月~4月のご報告。

 

3月10日に開催された「大地のめぐみを、味わう旅」は、昨年夏のルーマニアトランシルヴァニアへの旅をセッティングしてくれたダニエル氏とのコラボレーション企画だった。

この企画は、ルーマニアのワイン文化(それをとりまく歴史や文化、自然環境や農業、人々の暮らし)を紹介し6種類のワインを味わって頂くのと同時に、ルーマニアの音楽も楽しんで頂こうという贅沢な催しだった。

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旅の最後に訪れたサハテニ・ワイナリーの人々と

このブログでも詳しく報告するつもりではいるけれど…昨年のトランシルバニアの旅は驚きと発見に満ちた旅だった。伝統的に農薬を嫌ってきたこの地域の人々は、食文化に対して意識が高く、長い年月にわたって自然環境を守ってきたことが伺えた。地平線の向こうまで広がる畑には宝石のような何種類もの葡萄が実り、プルーンやリンゴの木々からは果実の豊かな香りが漂っていた。愛情を受けて育った馬や羊たち、職人気質でチャーミングな農園の人々、誇り高き羊飼いたち、アカシヤの木々とその傍らに並ぶ養蜂家たちの蜂蜜ワゴンの群…国家の恩恵を受けずに自給自足の暮らしを続けてきた奥地の村の暮らしや、バイオリンの材となる木が今なお生い茂る森など、多くの人に知って欲しいことが、僕の中には溜まっていた。

 

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終演後、ダニエル氏と

そんな諸々のことを少しでも多くの人にシェアできればと企画したこの催し…ダニエル氏の話はとても興味深いものだったし、試飲コーナーでふるまわれた6種類のワインはどれも風土や歴史を感じさせる素晴らしいものだったので、満席になった会場の皆さんには本当に楽しんで頂けたように思う。もちろんルーマニア音楽ライブも大変盛り上がった。音楽は、人間だけから生み出されている訳ではなく、また人間の中だけで育まれてきた訳ではないことが改めて分かった。

 

また、会場となった大阪・本町の周(あまね)は、僕が音楽活動を始めた頃から一緒に仕事をさせて頂いてきた音楽事務所の方がオープンしたお店でもあったので、この日は色んな意味で特別な日になった。今年は7月の終わりに、再び東京でこの催しが実現することになりそう。関東にお住まいの方がおられたら、是非お越し頂きたい…。

 

 
続いて3月18日は、地元の保育園の卒園企画でのコンサート。うちに向かいにある保育園なので、子供たちも顔見知りが多く、家族ぐるみで親しくさせて頂いているご家庭も少なくない。この保育園でも何度か演奏させて頂いているが、こうして地元の人々や子供たちの前で演奏させて頂く機会は本当に宝物だと思っている。
 
 
3月22日には、東京神楽坂にあるメディカルレイキ・アカデミーでの講演。昨年11月にさせて頂いた講演会では話が「ノッてしまい」、なんと話題がテーマに行き着くまでに公演が終わってしまったので、今回は出来るだけテーマに即して話すことに…。
 
前回と同じく、演奏を交えながらの講演なんだけれど、話の内容に興味を持って集まって下さる方が多いし、こちらもそういう方々に話したいことはいっぱいあるので、いつも時間切れになってしまう感はある。この辺りはもう少し、こういう機会に関して「こなれたい」なぁと感じている。もちろん、僕の性格上そうなってしまうことは不可避なのかもしれないが。
 

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この日は会場を真っ暗闇にしてフヤラを聴いて頂いた

 23日は四ツ谷メビウスで、昨年11月以来の南米音楽コンサート。今回は、新たに出会えた人や、ようやく出会えた人、そして久しぶりに会えた人も多く、個人的にとても嬉しい日になった。これまで南米音楽を通じて人と出会っていくということが(こういう楽器をやっている人間としては極端に)少なかったので、こうして南米音楽をメインにしたコンサートをして、愛好者や愛聴者、演奏家の方々と知り合っていくというのは本当に新鮮な感覚がする。

 

ギターラの寺澤氏とは二度目のステージなので、つかめてきたことが多い。これからもっと楽しくなるだろう。寺澤氏は爪ではなく、指で弾くスタイルなので、ギター奏者の中でも、音色に特に個性が光るタイプ。だからこちらも知らず知らずのうちに、普段と違う吹き方をしている。

 

このところ、新しい笛にチャレンジする時間を多めにとっていたので、ケーナを演奏する時間は少なかったけれど、やはり自分にとっては古巣的音楽。鳴らした瞬間に、スイッチは入る。僕を音楽の世界に引き込んでくれたのは、南米の音楽文化だったのだなぁとつくづく実感した。

 

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東京四ツ谷メビウスにて、ケーナのライブ

 終演後、あれこれを撤収していたら、熱心に聞いてくれていたバーテンダーの女の子が「あのう…アルバム買わせて頂いてもいいでしょうか?」と声をかけて来てくれた。何だか嬉しくて「何か音楽やってるんですか?」と尋ねると、遠慮がちに「はい…あ、ロックっす」と言っていたのが可愛かった(笑)

 

本が付いた「空のささやき、鳥のうた」を買ってくれたんだけど、その中に収録された「霜が降りた道」をこの夜演奏したから、それを気に入ってくれてのことだった。およそロックとは逆方向の音楽かも知れないけれど…こういうのが一番、嬉しいのかも知れない。

 

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頂いた古竹で作ったアルメニアのシュヴィなど…

4月の頭には、ちょっとした仕事で太秦の撮影所に。ウードの常味裕司氏やダンサーの素蘭さん、ダラブッカの永田充君と久しぶりにご一緒したんだけど、やはりこういうサウンドは好きだなぁと思った。バイオリンの土屋玲子さんのユニットでの演奏…どういう仕事だったのかはまだ公表できないけれど、そのうちに。

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舞踏家で映画監督の岩名氏と

さて同じ4月の頭には、フランス・ノルマンディー在住舞踏家・映画監督の岩名雅記氏の大阪での新作上映の最終日に駆けつけた。

 

FB上で誰かとのやり取りの中で、とても共鳴する文章を書いている人が岩名さんだった。面白そうとやり取りしているうちに、つながった。メールでのやり取りはしていたが、直接お会いしたのは今回が始めてだった。

実際お会いすると、岩名氏は僕の好きな発酵系の人間…とりわけ燻製チーズのような、香り立つ方だった。今の世の中は何でも「溜め込むこと」が良くない事のように言うが、僕はアレコレ「溜め込める人」が好きだ。中でも、人知れず発酵を続け、たまり醤油の如く熟成し青カビチーズの如く異臭を放っている人は「堪らない」。奥底に、他人が知り得ない時の集積・念の集積があるからだ。
それにしても岩名さんは、何に「あぶられて」来たのか。長い時間、人知れず何かに「あぶられ続けてきた」人でないと、このような香りは放てない。

上映が終わってからも喫茶店でご一緒させて頂き、色々な話を楽しんだ。映画のことやこの日の出来事は、そのうちブログに書けたらなとは思っている。

 

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ついにスタート、京北での「踊って旅する、世界の国々」ダンス講習会

そしてこの4月からついにスタートしたのが、「踊って旅する、世界の国々!」。僕が住む京都の北に位置する京北で、9月の秋分の日に開催される「ツクル森」というイベントと連動する形で定期的に開催されていくことになった、フォークダンス講習会だ。

 

日本人は日常的に踊らない。日常的に歌う人も少ない。音楽やその他の身体的表現を、一部の特殊な人々がやるものだと思い込んでいたり、習ったりしないとできないことだと思い込んでいたり、そういった表現を娯楽やサービス業のように捉えたりしている。

 

世界各地に「輪になって、手をつなぐ踊り」があり、日常的に地域の人々が集まって踊ったりする文化があるのに、日本には手をつなぐ踊りがほぼない。住んでいる地域の人々が一緒に踊るといった機会も、一年のうち盆など限られた日だけだ。これは10代の頃からずっと不思議だった。

 

何故そうなのか?は諸説あるが…それよりも、実際にこのような文化に親しみ、楽しんでみる方がいい。世界各地では、このような踊りの文化を通じて互いの関係を深めたり地域の結束力を高めてきた経緯がある。お互いに触れる機会が少なくなっているこの社会で、手をつなぎ輪になり、身体をシンクロさせ時間を共有する、この輪踊りという装置を加えたら、僕たちが住んでいる地域でどういうことが起こって来るのか。

 

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大人が作る輪に子供たちが飛び込み、周りを走り回って、踊りがひろがっていく

初回のこの日は、アルバニアの曲やルーマニアの曲、ルーマニア国内のハンガリー系チャンゴーの人々の音楽や、アルメニアの音楽をとりあげた。普段接することのないような地域の人々の感性や暮らしに触れてもらえる機会にもなればいいなと思う。

 

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ワーク・ショップ終了後…この後、ミニコンサートと交流会が行われた

この子供たちが大人になる頃に、人が集まったら、そして何かの式や催しがあったら、CDなどではなく生演奏で音楽が奏でられ、自然に踊りが始まり、誰もが躊躇なく踊りの輪に入り、時間を共有できるような地域社会になればいいなぁ。

 

次回は、7月6日、8月3日。関西圏におられる方は是非。



 

 

 



あたらしいこと

(まだアップできていない旅の報告の、番外編みたいな内容だけど…)

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Blul(ブルール)…因みに布はグルジア(ジョージア)で入手した古布。

年末年始に、アルメニア(ハヤスタン)のブルールという笛を練習し始めた。昨年の春にシュヴィという笛を作って以来アルメニアの音楽を少しづつやり始めてはいたものの、自分がこのブルールにチャレンジすることになるとは正直思ってもみなかった。

 

ブルールは、トルコやブルガリアマケドニアアルバニアなど…世界各地で演奏されている「斜めに構えて音を鳴らす」笛と同系列の、木の笛。僕はこういった斜めタイプの笛の音楽を「中学生の頃から好んで聴いていた」にも関わらず、そして人から譲ってもらったり自分で入手したりして、「(ブルール以外の)実物を持っていた」にも関わらず…どういう訳か、これまで本格的に「自分でやってみよう」と思い立つことがなかった。

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ブルールを手に入れてすぐ、基本的な奏法をレヴォンに見せてもらう

目の前には音源も実物もあるのに、音を鳴らすことはあっても、運指だとか曲だとか奏法だとか、そこから先に突っ込もうとしなかった。好きなことや興味を持ったことに関しては、すぐに調べたりやってみたりする僕なのに、これはとても不思議なことだ!

 

このタイプの笛の鳴らし方・奏法が、既に僕が演奏している他の笛と比べて、大きく異なっていることも理由の一つなのかも知れない。南米のケーナアイルランドの木製フルートなどは、(多少異なるものの)発音時の口の形がそれほど大きく異なる訳ではない。しかし斜めタイプの笛は、口の形状や筋肉の方向がそれらと全く異なっている。舞台の上でこれらの笛を併用した場合、技術上の混乱が生じることは容易に想像できた。口の形だけでなく運指法も異なっているから、もしかしたら「このタイプの笛にだけは深入りしないよう」、入り口で自分に「待った」をかけていたのかも知れない。

 

そんな僕がこのブルールを「やってみよう」と思い立ったのは、他の斜めタイプの笛が使われているどの国の音楽よりも、アルメニアの音楽が放っている「何か特別な香り」に心惹かれていたからだろう。僕は昔から、何か「お誘い」のようなものを感じて、楽器や音楽を始めるタイプだったから。

 

そしてまた、素晴らしい演奏家と友人になったことも大きかった。アルメニアの笛演奏家・作曲家レヴォン・テバニャンの演奏は僕にとってはかなりツボだった。僕が(ジャンルを問わず)自分以外の笛演奏家に明確なシンパシーのようなものを感じたのは、本当に珍しいことだった。在命の笛演奏家の中では、今のところ唯一かも知れない(彼は卓越したピアノ奏者でもあるが)。

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レヴォン・テバニャンと。彼の演奏は本当にいい。

彼の演奏はブルールはもちろん、シュヴィという笛も別格にいい。僕はこれまで、「吹いたら鳴るタイプの笛(リコーダーやオカリナやティン・ウィッスルなど)に、楽器として「強烈に心がくすぐられた」ことがなかったように思う。たとえばティン・ウィッスルなどは、一時期まるで本業の如く演奏してきたけれど、むしろそれはその笛が使われている音楽の方に引っ張られて演奏していたような気もする。少し前から取り組んでいるモルドヴァ・スタイルのカヴァルや、アルメニアのシュヴィは、「吹いたら鳴るタイプ」の吹き口の笛であるのも関わらず、楽器にもその奏法にも僕は強烈に心くすぐられていた。だからこの歳になって「やって・みよう」と思い立ったのかも知れない。

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帰国してすぐに製作してみたShvi(シュヴィ・D管)とTavShvi(タブシュヴィ・G管)。

ところでこの「やって・みよう」は、「その楽器を自分なりに舞台で使ってみよう」とか「その楽器を自分の曲や好きな曲で使ってみよう」という意味ではなくて、「伝承音楽の演奏家レベルになるまでとことんやってみよう」という意味。「自分なりに使ってみよう」というような感覚では、「出会っているようで、実は出会えていない」ような経験にしか成り得ないし、実際「使い切れてもいない」ような代物にしか成り得ないものだ。そしてそういう「自分なりに使ってみよう」は、「実は本気で出会う気がある訳ではない」という、潜在的意識の表れでもある。

 

僕はたぶん、楽器や音楽を通して、時空を離れた人間の内なる世界にタッチすることに一番の関心を抱いてきた。出会いに成り得ないような出会いは、あまりする気がないし、そのような出会いを出会いと呼んで「自分なりに楽器を使っている」人たちの音楽にも、(それが良いとか悪いとかではなくて)僕自身、あまり関心を抱けないでいる。僕はいろんな楽器をやっていても、基本的に伝承音楽をやれるまで取り組むし、その上でオリジナル作品を作ることもあるが、録音物には使わない楽器も多々あるし、自分の音楽に使うために何かの楽器を「やってみよう」とすることは僕の場合ない。

 

また、いろんな楽器を演奏しようとする(好奇心旺盛な)人間にとっては、ある意味戒めのようなものだけれど、「長年受け継がれてきた音楽をそのまま演奏できるレベルにならないと、結局だまくらかしの域は出ない」というのは、肝に銘じておきたいことでもある。実際この社会って、だまくらかしの方が分かりやすくって、仕事になりやすいから。落とし穴はいつだって、すぐ近くにある。

 

そんな訳で、新しいことを「やって・みる」には、いつも多大な時間とエネルギーが必要になる。それまでと異なる楽器に取り組むことは、その都度「音楽初心者」に一旦戻ることも意味するから、当然人前に立つことや舞台に立つことは後回しになっていく。しかしこれは、人生修養としては本当に意味がある。今回は、この歳になるまで「出会わないようにしていた」自分に突如出会ってしまったような、ある種の驚きの感覚があるので、本当にやればやるほど発見が多い。まぁでも、自分に関する謎が深まってしまったとも言えるけれど。

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アルメヌイさんの旦那さんタロンさんから、ドゥドゥクを頂いてしまった。

 夏の終わりにアルメニアを訪れた際、レヴォンを通じてブルールを手に入れ、帰国してからは少しづつ触ったりしていたが、どういう訳か昨年の秋冬は珍しく多忙な日々になったので、なかなかまとまった練習時間が取れないでいた。だから、年末の仕事納めをきっかけに一念発起して本格的な練習をスタートしたんだけど、それでも年始以降、なかなかまとまった時間をとれなくなっている。もっとやりたいのに、という欲求だけが先を走ってしまって、そんな風に感じてしまうのだろうけど。

 

さて…僕が最近、楽器として特に取り組んでいるのはアルメニアの笛とルーマニアの笛だけど、自分はつくづく雲水に憧れていた小学生位の頃からマインド自体は変わっていないんだなぁと感じている。どこか遠くの国の旋律に出会っては、それらを一生懸命なぞってみるのも、どこかの国の経典や口承神話や口承詩、呪文なんかをなぞって暗唱している感覚に近い。

 

それは、本当なら直接出会えないはずであろう人々の人生や日々の探求の足跡に、時空を超えてタッチしようとしている感覚で、様々な人間が築いてきた世界観や思想なんかを身体的に読み取ったり、自分の身体に映し出したりしながら行う、時空巡礼のようなものだ。何かを「やって・みている」期間、僕はそういった極めて個人的な欲求を満たすことに、時間とエネルギーを優先したくなっている。ある意味、危うい(社会生活的には)。

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ルーマニアのオルテニア・スタイルの旋律バージョンを教えてもらう。

音楽を「やって・みる」上で、人前(舞台)に立つことや人に何らかを発信することや何らかを伝えること、人から何らかを得たり人と何らかを共有することは、本当につくづく副次的なもので、本来二の次のことなのだろうな、と改めて実感する。もちろんそれらに意味がない訳でもないし、むしろ大きな意味があることは承知の上だけど…それでも、それらは小さい。その小ささを胸に音楽をやっていこうとしないと、実際音楽をやっていても、本質的には「やれてはいない」状態に在るのではないかと思う。

 

かつて「芸術は時代と共にある」と言った人や、「芸術には国境はないが国籍がある」といった人、「人前に出してこそ、芸術は芸術になる」とか「芸術は社会の中で高められていく」というようなことを言った人がいたけれど、その人たちは近代以降の発想や価値観、現代的思考に絡めとられてはいないだろうか…他の現代社会人と同じく(ゆえに、それらの言葉に同意する人々はこの社会に多いとは思うけれど)。 

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Shoghaken Ensembleのレヴォン&ヴァルダンと、真夜中のエレバンでお茶会。
芸術にしてもアートにしても、今は言葉として気軽に便利に使われている時代だから、本当は他の表現を使いたいなと思っている。でもあえて使うなら、芸術って「時間や空間をこえることができるもの」のことだし、芸術って「現在・現代という幻想から、飛翔しようとしているもの」のことだ。
 
時々、そういうことを思い出させてくれる音楽や楽器に出会ったりする。
素敵な人々と共に。
 

 

 

 

平成最後の、冬至祭(12/22)

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今年の冬至祭の精霊たち

 

 毎年、僕の住む地域在住の友人隣人たちだけで、密やかに行っている冬至祭。今回の冬至(12/22)が、平成最後の冬至祭となった。

 

冬が多少なりとも厳しいところに暮らしていると、年の瀬が近づくにつれ、日暮れが早くなり、夜の闇が長くなってゆくことに、はっきりとした実感がある。それがこの冬至の日を境に反転し、陽は次第に力を取り戻し、昼間が長くなってゆく訳だが…こういう環境に暮らしている恩恵の一つとも言えるだろう、この冬至の日を過ぎると「春が確実に近づいて来ている」ということに、リアルなワクワク感を覚える。

 

冬至祭では、思い思いの精霊に扮したメンバーが、希望する友人隣人宅をまわってゆく。この京北冬至祭は、各家庭を聖地化するお祭りでもあるからだ。

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こんな風に、精霊たちが(竹の音具を鳴らしながら)お家に入ってくる

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コワいのか、カワイイのか、わからない精霊たち

 

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森の精霊は、木や草で覆われている

 冬至の到来を知らせる音具を鳴らしながら家に入り、鹿の骨笛を吹いて日頃恩恵を受けている自然環境に皆で感謝を捧げた後、旧年の出来事とこれから迎える新しい年への想いを書いてもらった紙を家人に読み上げてもらい、その家の人々のために皆で「祈り」ながら、その紙を燃やしてしまう。紙が灰になったところで、精霊メンバーによって冬至笛が一斉に鳴らされ、家がその音で満ちたら、精霊と家人は太陽を象った祭壇の周りに集まり、そこで輪踊りが始まる。

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太陽を象った円い板の周りに、精霊たちが集まる

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家人の旧年を振り返り、願いを書いた紙を燃やす

心配されていた雨も昼から上がり、山國には爽やかな空気が漂っていた。毎年のことだけれど、同じ地域の友人たちとの有り難きつながり、豊かな時間…今年も楽しかった&美味しかった。一緒にこの特別な日を過ごしてくれた人々に、感謝!

 

  *********毎年、投稿している説明から(一部改訂)*********

 

冬至祭は春を「招く」祭で、新しい太陽の誕生日でもあります。そして古来より、「見えている世界」と「見えない世界」をつなぐ祭り…それらの「かかわり」を、毎年改めて「つくる」ための祭でもありました。

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冬至笛の音が家中に満ちると、輪踊りが始まる

見えない世界というのは何も、形而上的なものだけを指している訳じゃありません。「旧暦の霜月という呼び名は、霜突きという儀式から来た」というのは民俗学者折口信夫説ですが、各地に残るシモツキ祭に見られる地面を突く動作は、霜に覆われた大地を突いて、新たに誕生する太陽の光を地に招き入れ、大地に春を呼ぶための儀礼とも考えられてきました。これが行われる日というのが、太陽の力が最も衰え、夜が最長になる霜月の果ての日、「冬至」の日。

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輪の中心…太陽の祭壇では、鳥獣霊が杖を突きながら舞う

凍てつく土の下の見えない世界で「殖(ふ)ゆ」るものたちの存在を感じ、そこに通り道を開き、天からのエネルギーをつなぐ。つまり、世界と世界の「境界」に住まう人間が媒介者となって、「天・地の間のエネルギーの流れに、自らも関わろうとする祭」でもあるんですね。「霜月(旧暦11月に霜がおりる)」の果て…「しき・はて」る時期の事を、この国では「しはす」と呼んできた、という説もあります。

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他の精霊たちは、冬至笛を奏でながら、周囲を回る

さて今の社会は、「欲求や願い」と「祈り」とを、ゴチャ混ぜにしてしまった社会で、ある意味それによって「祈りの本質を見失なっている社会」とも言えます。

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冬至笛(上)と、鹿の骨笛(下)。冬至笛は片手で吹ける。

また、スピリチュアルという言葉が流行ってからというもの、形而上的なものごとに関心を持つ人が増えた一方で、安易に「それっぽい気分」に浸ってしまう風潮も広まってしまいました。パワーを頂くとか、運気を引き寄せるとか…安直な「頂戴病」ばかりが助長されてしまいがちです(現代社会を生きる人々は享受主義に陥っているので、頂戴病は助長されやすく、とりあえず今欲しいものが享受させられていたら、多くの事に疑問が湧かない状態になりやすいです)。

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精霊が家にやって来る際に鳴らされる、冬至来訪を告げる音具

加えて、本来は全ての人の内に在ったはずの「祈りの文化・祈りの力」は、ある時代以降「特別な者であるかのように振舞う」一部の人に委ねられるようになってしまい、それが結果的に、人々を「トクベツなヒトと、フツーのヒトタチ」に分けてしまいました。そして更にそのことが、多くの人々が生来兼ね備えていた創造性を奪い、一方で社会の階層化を助長し、権威主義的発想を根深く植え付けてきてしまいました。特別な者のように振舞う人間を、無疑問に崇めてしまったり、そこから何かを頂戴しよう、という精神に陥りやすいのです。

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紙を燃やす際に精霊たちによって鳴らされる、冬至

そして更に現代では、社会はすっかり商業中心に傾いており、祈りもショーの一つのようになっています。鍛錬・修練なくとも「~ぽく見せれる」演技者・模倣者による現代版祈りとも言えるものが、精神的探究や儀礼等に免疫のなかった世代の人々にとっての、目新しい演目に成りえる訳です。 

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儀礼後に太陽の祭壇に集まり、みんなでミカンを食べる

でも本当は、一部の人ではなく、一人ひとりがつながる力を持っているし、一人ひとりが祈りとは何かを考えたり、実際に祈ったりすることの方が重要ですね。 

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次々に出来てくる料理を、子供たちがつまむ

また今の社会は、フェスやイベントを「祭」と混同しており、「多くの人間が外からやってきて金銭をもたらし、内外の、より多くの人々の話題に上る」ことを「成功」と見なしています。そのため、集客や経済効果を目指すことに発想・思考が偏ってしまい、気が付かないうちに、全てを商品のように変容させてしまう発想に、多くの人が陥っています。だからこそ、この国の文化は今、「本質的な力を失いつつある」のではないでしょうか。

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基本的に一品以上持ち寄りで、皆がそれぞれ何かを作ってくる

祭には元来、デートのような側面もありました。デートは人に見せるためのものでもないし、本来は部外者に絡んできて欲しいものでもないですね。参加者が増えた方がいい、なんてこともないし、むしろ出来れば二人っきりの方がいいでしょう。
言わば、環境や暮らしを共にする人々同士のデート、地域住民という名の大家族のクローズド・パーティー…古来からの祭りの多くが、基本的に「部外者立ち入り禁止」になっているのには、宗教的な理由だけでなく、機能的な理由もあったんですね。

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沢山の料理を味見しながら、何度も乾杯し、あの話この話で夜が更けてゆく

そもそも、冠婚葬祭(結婚式やお葬式)に、不特定多数の観客や部外者を集めて、見世物にしたり、収益を上げようとしたり、それによって成功だとか失敗だとかという人はいませんから、言うまでもないことなのですが…。つまり、今のこの国の祭の大半は、祭と言えるものではなくなっているのかも知れません。

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一年の様々な出来事や想いが、共有されてゆくのが嬉しい

 「閉じたもの」「秘めたるもの」であるが故に、本質的な力を発揮するものって、あるんですね。そういう、古い暮らしの中にあった知恵の多くが、この拡大主義・自己拡張妄想が蔓延っている現代社会では、どこか見失われがちなのかも知れません。

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祭壇に子供たちが上がって、踊ってゆく

また、近くに住んでいても、それなりに親しくしていても、僕たちが互いに知らないこと・分かってはいないことは、とても多いですね。これもまた、互いにとっての「見えない世界」…祭とは、時と場を共有することにより、そんな互いの内に在る「見えない世界」同士がつながり、ある意味人々が大きな家族になるための装置でもありました。

音は、そんな様々な見えない世界から「訪れるもの(オト=オトズレ)」として、祭で鳴らされてきたんですね。芸術だとか自己表現だとかいう前に、そういうところから音楽文化を知っていくことも、大切な気がします。

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子供たちのカワイイ踊りに、鍋パーティーは最高潮!

京北冬至祭(&夏至祭)は、「音楽を家庭料理位の感覚で、全ての人がつくったり楽しんだり出来る社会を創造しよう」というテーマで始められた、京北村民歌舞プロジェクトの一環の行事。人類史をさかのぼって、文化の誕生を追体験しよう、という壮大な?大人の遊び(いわば体験型文化人類学)ですが、あくまでユル~く楽しくがモットー。

上記にあったような理由で、地域民しか参加できない祭になっており、儀礼や音楽や踊りは、なるだけ参加者みんなでやります。観客がいらない祭なんです。見られるためのものでも、見せるためのものでもないから…。

参加も自由で、あまり広く告知もしていません。こうして地域民のみで、つながってる人たちの間で、秘かに続けられているものに、年月をかけて、ゆっくりと宿ってくるものが見たいのです。

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皆さんの地域でも、友人たち家族と一緒に、冬至夏至の日に祭りをしてみませんか。

お話会(11/9&11/19)のこと、お料理のこと

振り返ってみると、僕にしては珍しくアチコチ動き回ったこの秋(本当はこの美しい季節、仕事に動き回るよりも、ゆっくり家にいて、近所を歩いたり、自然の移り変わりを眺めて過ごしていたい)。

 

考えてみたら、元々人に会うのも、いろんな所を訪ねるのも好きな方ではあるので、これからは機会が巡ってきたら・誰かからお呼びがかかったら(いや、呼ばれなくとも)、もう少し足取り軽く、アチコチに出かけていこうかな…と、しばし反省。

 

さて、この11月は演奏の仕事以外にも、お話会(講演や対談など)も二件ほどあった。僕にとっては、コンサートもお話会も、そんなに変わらない。コンサートでもよく喋る方だし、笛の教室でも大学の講義でも、ステージ感覚でやっているようなところがあるから。

音楽や笛に関する講演会は、昔(音楽活動を始めた当初)から、度々引き受けることがあったが、ここ数年は、文化全般に関することや、意識・思考に関しての講演も増えた。内容は多少、哲学的で社会学的な内容ではあるけれど、これもまた僕にとっては、音楽の話をするのも、哲学的なことや社会学的なことを話すのも、あまり変わらない。色んな人と出会って、そういった内容について話すのは楽しい。

 

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神楽坂の片隅に燦然と輝く、異界への入り口

神楽坂にあるメディカルレイキアカデミーの龍光路浩子さんは、代替治療の専門家で、様々な分野の研究者や医療関係者と共に科学的なデータやエビデンスを積み重ね、ユニークな方法で治療にあたっておられる。とてもフットワークが軽く研究熱心な方で、数年前にエハン塾文化編という対談シリーズが京都で企画された際、会場に来られてて、それ以来親しくなり、レイキを指導して頂いたり、医療現場での興味深い話を色々聞かせて頂いたりしつ、あれこれと機会を見つけてはお会いさせて頂いている。

今回、東京・六本木での南米音楽ライブ(11/10)に合わせて、その前日(11/9)に浩子さんの主宰されるメディカルレイキ・アカデミーで講演を開くことに。タイトルは「音楽と祈りに出会う旅~世界で交感するエネルギー」というタイトルだったけれど、予想通り話はあちこちに飛んで、祈りの話に行きつかないままに終了(笑)

この日参加された方々のアンコールや、参加できなかった方々からのリクエストもあって、来年3月22日(金)に第二弾を企画することになった。浩子さんの友人知人を含め、面白い方々が集まって来られるので、次回もとても楽しみにしている。

 

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門司港の片隅に燦然と輝く、異界への入り口

グリシェンカフェのグリシェンさん(日本人だけどこれはウイグル名)は、僕の古い友人で、中央アジアの趣味趣味な布&衣装つながりで知り合った(グリシェンさんは中央アジアの民族衣装収集家・研究者)。その頃は広島に住んでおられたんだけど、今は北九州の門司にある古民家で、これまた国内ではレアな…中央アジアカフェを開いておられる。店内を埋め尽くす布や衣装もさることながら、お料理やコーヒーもとても美味しい、皆さんにおススメしたい素敵なお店。

このグリシェンカフェで「哲学カフェ」と称して(11/19に)催したのが、「音楽と、見えない世界について」。これは同じくグリシェンカフェで、5月に行った「自分自身に着地する」というお話会の、アンコール第二弾企画だった。これまた話が多方面に飛び、予定していた時間を少し越えた辺りで終了(笑)…なので、年初めの九州行きに合わせて、これまた第三弾を1月27日(日)に行う予定。

グリシェンカフェは、日頃からユニークな人々が集まっている。今後思わぬ怪人物と遭遇できる異空間系出会いカフェとしてその名を轟かすことになるのではないだろうか。

 

この二つのお話会の会場外観、こうして並べてみると、どちらも極めてカラフル!浩子さんやグリシェンさんのキャラクターを表すようで、何とも愉快だ。

 

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演奏仕事の後…ホテル特別顧問シェフの指導を受ける

そんな講演仕事の間に、とある会で演奏の仕事があったんだけど…演奏後の会食の席で、ホテルの特別顧問であるシェフによる、特製シーフードピラフの実演というコーナーがあり、そのコーナーで主催の方々のお勧めもあってシェフの指導を受けれることに。演奏後で油断していたところ、エプロン付けて壇上に上がることになってしまった(笑)

 

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「やりますなぁ!」と褒められ、柄にもなく図に乗る男の図

特別顧問シェフはとても素敵な方で、シーフードピラフも少しひねりのきいた美味しい味だった。シェフは女子大での料理実習でも指導されていたそうだが、実習が終わった際に学生たちに配るというお手紙があって、これがまた素敵だった。

 

「皆さんに私からお願いしたことは、料理材料は大切に、切ることは切り揃えること。一つの仕事をしたら直ぐに周りを綺麗にする。俎板に向かう姿勢は左側に拳一ツ体を外して、右肩を開き方を楽にして、やや背筋を伸ばして、洋のナイフは半分より先で引く、押す、トントンと叩く様にして、周りから見られている意識で料理作りに励んでください。

コックコートは美しく、袖のところでキッチリと捲り上げて、エプロンもしっかり絞めて、前で結び素敵な姿でお願いします。

料理作りは同じ料理を何回も繰り返してご自分の体に覚えさす事です、その中からご自分の得意なレパトリーを増やす努力が必要です、皆さん方が将来何処かでお料理をする姿を私は想像しています。

お料理の得意な素敵なレディーに成長されます様に願って終わります。」

 

…う~ん、レディーか。授業の感じを見てみたい。

 

シェフは指導の際、食材に全部「さん」付けをしていた(ニンジンさん、マッシュルームさん、ショウガさん、海老さん、カニさん、といった具合に)。いいなぁ。

 

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門司港商店街の片隅にある、大衆向け平民食堂。意外にも民のデザインが気になる…

上の写真は、門司港商店街にある、謎の食堂。ここが賑わっていた時代に、中に入ってみたい。平民っていつ頃までこの辺りでは使われていたんだろうか。

 

久しぶりのケーナ&南米音楽(11/4、11/10)

このところ、ちょっとしたタイムトリップを味っていた。

 

ご存知の方も多いとは思うけれど、僕は12歳の頃に自分でケーナを作るようになってから、ずっとこの楽器や音楽に親しんできた。言わば、「自分の身体の一部」のようなものだ。しかし僕がそれらを舞台の上でメインに演奏することは少ない。過去15年くらいの知り合いや友人の中には、僕のケーナや南米音楽をちゃんとまともに聴いたことはない…という人も沢山いる。別に、それはそれでいいんだけれど(笑)

 

そんな僕が、「ケーナで」「南米音楽で」とお声をかけて頂いた舞台が、この11月前半に続いていた。

 

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この三人が揃うのも、10年ぶりくらい

 

一つは、普段クラシックを中心に演奏されている「Music circus」さんのコンサート。ギター&歌の千葉泉氏と、チャランゴ奏者&ダンサーの安達満里子さんのお二人と共に、ワールドミュージック・シリーズのゲスト出演という形で。千葉さんは、趣味趣味の南米音楽を演奏する企画などでご一緒してきたが、最初に出会ったのは大学生の頃。満里子さんは、今はもうお母さんになってるけど、最初に出会ったのは、彼女がまだ小学生の頃だった。この三人での、久しぶりの演奏も楽しかったけれど、南米音楽初体験というMusic Circusの皆さんとの共演も、楽しかった。何というか…久しぶりに、無邪気にステージを過ごした気がする。満員御礼の会場、この日のお客さんは、皆さんノリが良かった。

 

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満里子さんの踊りが入って、気分はかなり現地

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「衣装は一部、お揃いで赤の布を」と言われたので、このような感じに

 

もう一つは、南米音楽ではずっと長年活躍されてきた東京の寺澤むつみ氏に誘われての東京ライブ。東京で、ケーナそして南米音楽をメインとしてライブをやるのは、何と26年ぶりだった。内容は、中高生の時に一人で吹いてたけど人前では一度も演奏していない曲…なんかがズラッと並ぶ、自分にとっては懐かしいプログラム。寺澤さんはマヤをはじめ、幾つもの南米音楽グループで活動されてきた方で、90年代からお名前は聞いてたけど、お会いしたのは去年が初めて。「今まで、どこで、何やってたの??知らなかったよ!!」って言われた(笑)

 

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この日のメンバー…熊澤洋子・きしもとタロー・寺澤むつみ

そう…僕は南米音楽業界の人を、ほとんど知らないし、これまで会っても来ていない。一番こだわってきた音楽や楽器だけど。

 

二つとも、歌声喫茶で懐メロを歌っているような気持ちがするライブだった。

 

 

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映画「kapiw&apappo アイヌの姉妹」の佐藤監督と、久しぶりの再会

 

もう少し、人前で南米音楽もやっていこうかな…と、思ったし、東京方面にももう少し出向いてみようかな、と思った。僕にしては、大きな変化だ。

 

 

 

 

 

 

阿寒湖アイヌコタン(10/27)

5年前に初めて訪れた北海道は、あっという間に自分にとって特別な場所になってしまった。不思議な懐かしさまでを感じさせる、自然の様相や、空気。「身体に合う」という言葉が、何故かしっくりくる。この5年の間、時折想い出しては、無性にその感覚を「味わいたく」なっていた。

 

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遠くの方から雲が動き、光の描く風景が次々に変わる。たまらない…動けなくなる。

 

今回の北海道の旅は、高木正勝さんの舞台でご一緒した、阿寒湖シスターズ(kapiw&apappoこと絵美さん&フッキー)との再会、そして久しぶりの共演が目的の一つ。5年前に阿寒湖を訪れた際には、まさかこんな形で、もう一度阿寒湖に来るとは思っていなかった。二人の奏でる音楽は本当に素敵だ。

 

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阿寒湖アイヌコタン、オンネチセでの終演後写真

 

現地で合流した(同じく高木さんの仕事でご一緒した東京のパーカッショニスト佐藤直子さんは、実は北海道出身、しかしその前は関西は西宮在住だったという方で、なかなかご縁があったりする。僕と熊澤洋子さんと佐藤直子さんでユニットを編成したので、僕は弦楽器を中心に時折笛に持ち替えつつの舞台となった訳だが、結構多様な国にまたがる選曲内容になったことと、直子さんとは初めて合わせる曲も多かったことから、僕たちのステージは(演奏者本人たちにとって)スリルのある内容となった(笑)

 

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演奏中、ステージ上で孔雀チョウが舞い、時折体にとまったりしてた。不思議。

 

それにしても演奏会場となった、阿寒湖アイヌコタンの中心に位置する「オンネチセ」が、とても素晴らしい空間だった。会場ではちょうどコタンの様々な職人さんたちの作品を展示していたので、雰囲気は抜群、何か時空を超えたような空気が漂っていた。kapiw&apappoのapappoこと富貴子さんも言ってたけれど、イコロという大きなシアターが出来るまでは、ずっとこのオンネチセで伝統的な舞踊を毎晩やっていたとのこと。その長い年月の間の、芸能の熱気のようなものが、このオンネチセという会場にはあった。

 

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壁から飛び出したカムイたち。デカい…カッコいい…。

 

kapiw&apappoのお二人のステージは、以前目にした時よりもずっとグレードアップしていて、心に沁みるものがあった。お二人の歌で、音楽としてはほぼ完成してもいるので、そこに我々が音を重ねるというのにはある種の難しさもあったけれど、やはりシンプルで小細工のないものが美しい。僕は長く、世界各地の様々な地域のメロディーと関わってきたけれど、今回も改めてメロディーというものの本質について、気付くことや考えさせられることが多かった。それは、夏に訪れた、トランシルヴァニアバスクアルメニアグルジアで経験したことと、どこか深い所でつながっているのかも知れない。

 

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フッキーのお店ポロンノにて、阿寒湖シスターズのご両親と語り明かす

 

今回、初めて出会った人々と交わした話の数々も、忘れられないものとなった。特に、滞在中にアイヌコタンにあるフッキー(富貴子さん/apappo)のお店ポロンノで、阿寒湖シスターズのご両親から、様々なアイヌ文化についてお聞きすることが出来たのは、貴重な体験だった。

 

北海道在住の音楽家の方や、地元の子供たちと交わした会話も、なんだか忘れ難いものになっている。やっぱりこうして、どこかに出向いて、そこに暮らす人々と会うというのは素敵なことだなと改めて思った。

 

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湿原…コーヒーポット持って、一日座って眺めていたくなる。

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夕暮れの屈斜路湖と、ハクチョウたちと、おっちゃん。

 

妹が連れ添って、北海道までコンサートを聞きに来ていた闘病中の母と、コンサートが終わって次の日に合流し、阿寒湖周辺の各地を回ったことも、今回の旅を特別なものにしてくれた。それにしても、行きたいところや、やりたいことが、この旅で更に増えてしまった。まだ二回しか訪れていないんだから、当然なんだろうけど。

 

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吹き出す噴煙と、硫黄の香りに大興奮

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オホーツク海を臨む、柱状節理。たまらない…。

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この季節は、水面の落ち葉がとんでもなくイイ…。

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こんな感じで紹介されてたみたい

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釧路空港にこだまする、声なき叫び。

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ちょうどポロンノが出店してた催し。ネーミングがイイ感じ。

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地元高校生も、エゾジカ・ジビエのアピールに励んでいる

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何となく、いい感じ。

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この季節は、水面の落ち葉がとんでもなくイイ…。

今度は、いつ行けるかな。やっぱり山菜が取れる時期なんかが魅力的だ。あの素敵な森の中に分け入って行ってみたい。

京北の新しいフェスティバル「ツクル森(9/23,24)」

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二日間のツクル森を終えて…このフェスティバルを一緒につくったメンバーと


今年から始まった、僕が住む地域・京北の創造的イベント
「ツクル森」。二日間終了後のこの写真を見たら、このイベントが、何ヵ月もの準備の間に、僕たちの中で何を育んできたのか、そしてイベント当日に集まった人々との間で、どんな空気を生み出していたのか、そしてこのイベントが今後未来に向けてどんな可能性を秘めているのか…を、改めて感じさせてくれる


僕はタイプ的に(?)、昔から「一人で考え、一人で行動し始め、一人で行動し続ける」ということが多い人間だったけれど、このイベントには立ち上げの時点から、様々な人たちとのやり取りを通じて企画から関わらせてもらったおかげで、「お互いを知っていく過程と、共同で何かを創っていく過程」を、同時進行で体験することが出来た。自分以外の誰かと出会い、何かを一緒に創り上げてゆくということの面白さや価値を、改めて学ばせてもらったような気がする。普段の仕事とは、また異なる感覚で。

 

一日目は「アイリッシュ・セッション」と、バスクの楽器を模して京北の杉材で作った楽器・京北チャラパルタでの「楽器ワークショップ」、ハンガリーのチャンゴーのダンスとアルメニアのダンスをとり上げた「世界のダンス・ワークショップ」、自分のユニットでの「世界の音楽ライブ」に出演、二日目は京北在住のフェイランさんが作った、京北の森を題材にした絵本「家守の木」の、読み聞かせライブに出演。

 

フォークダンス」のワークショップでは、会場にやってきた様々な人々が参加し、音楽と踊りを楽しんでくれたおかげで、今後この地域で定期的に開催しようと計画していた「世界の踊りを楽しむ会」の、記念すべきスタートが切れたような気がする。

 

「絵本・家守の木」の読み聞かせライブでは、このお話のために作ったテーマ曲「家守の木」を、約1年ほどの間に地元の人たちが様々な催しで集まっては歌ってくれるようになったおかげで、この舞台では既に僕の手を離れて、「みんなの歌になった」と感じさせてもらった。

 

来年の「ツクル森」は、9月22日・23日。「世界の踊りを楽しむ会(京北タンツ・ハーズ)」や、「家守の木」のCD化をはじめ、来年のツクル森につながってゆく企画や催しが、幾つか計画されている。今から楽しみ。

 

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スロバキアのフヤラは、大人気

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この日の「家守の木」合唱団の皆さん

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色んな人が歌っているからこそ、醸し出される良さってあるなぁ…と改めて。

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フォークダンス・ワークショップでの舞台

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いろんな人たちが踊ってくれて、演奏している我々も楽しい

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夜の「世界の音楽ライブ」でも、再び踊りコーナーが…

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チャンゴーの人々や、アルメニアの人々は、これ見たら驚くだろうなぁ…

 

旅の前に

夏の旅を前にして、7月は準備に明け暮れていた。大雨が去ったかと思えば、今度は大地を焦がすような灼熱の日々。朝も8時を過ぎると、陽射しは途端に強くなり、日中は庭や畑に長時間いられなくなる。

そんな中、ようやく害虫・害鳥除けネット(網)をかけることができた我が家のブルーベリー園では、冬から地道に整備を続けていたおかげで、例年よりも大きな粒が、青い宝石の如く鈴生りになったんだが…残念ながら僕は旬の頃、ちょうど家を空けていて、収穫の喜びを味わえない。収穫は近所の料理上手な友人たちに任せて、少々後ろ髪引かれる思いを胸に、我が家を後にした。

 

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※このゾーンには9本の元気なブルーベリーがある。ヒヨドリたちの来襲を避けるためのネットなんだけど、最も厄介なのはスズメバチ。鳥を避ける程度の目の細かさの網では、スズメバチたちは容易に入ってしまう。初年度はスズメバチの来襲で、シーズンには7割以上のブルーベリーがやられてしまった。

 

さて、この夏の旅はルーマニアに始まり、その後スペイン南のアルテア、それからスペイン北のバスク地方ドノスティア(サン・セバスチャン)を経て、フランスのバスク地域(北バスク)サン・ジャン・ドリュズから、更にコーカサス地域のハヤスタンアルメニア)、ジョージアに至る、全体で一ヶ月ちょいの旅だ。最後は、アルメニアから日本に戻る予定でいる。

 

最初に訪れるのはルーマニアだけれど…ルーマニアという国を詳しく知る人は残念ながら国内にそう多くはいない。音楽に関してもそうで、近年ジプシー音楽と「呼ばれる」音楽「ばかり」が一般的に広く知られるようになったため、ルーマニアの音楽に関して、「ジプシー音楽」というようなイメージしか持っていない人がほとんどだろう。民謡や農村の古い音楽について知る人は、音楽業界の人を含めて、日本国内にはほとんどいないんじゃないだろうか。

 

なので、この国の音楽の、どんなところに、どんな魅力を感じてきたかを説明するのは、容易なことではない。僕がこの地域の音楽を聴くようになったのは、13、4歳くらいの頃だ。世界中の音楽文化に興味が湧いていた僕は、中高生のうちにほぼ世界全域の音楽を聴くようになっていた(吹田市にある国立民族学博物館のライブラリーや、故・小泉文夫氏監修の録音物の数々、様々なラジオ放送が、当時の僕にとって貴重な情報源だった)。そのためか、僕にとっては世界各地の様々なメロディが、普段は懐メロのような感じで聞こえていることが多い。

 

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ブカレストの笛職人を訪ねて。オルテニア・スタイルのカヴァルを見せてもらった。オモロイ…。南米の笛職人のオジサンたちを思い出す。

 

僕が舞台で様々な音楽や楽器を演奏しているのを見て、「演奏活動をしているうちに、南米音楽に飽き足らなくなって、いろんな音楽に手を出していったのだろう」と思っている人も多いけど(活動を始めた頃は、南米音楽がメインだったから)、最初にのめり込んで演奏するようになった楽器が南米のものだったというだけで、幾つもの音楽を日常的に聴いているという生活は、実は10代初めの頃から変わっていない。

 

自分に強く共鳴する音楽というのは、(普段から沢山の音楽を聴いていたりすると)面白いことに、人生の時々で変わっていったりする。僕の場合は、強く共鳴する音楽を通して、その時々の自分が「何に向かっているのか・何を求めているのか」が、見えてくることが多い。その中でも、「聴きたい」を通り越して、「自分が実際に演奏してみたい」と思うような音楽の「導き」は、僕にとっては特別だ。自分の中にある、まだ見ぬエネルギーを引っ張り出してくれるような…そんな「お誘い・お招き」のような力が、それらの音楽にはあるのかも知れない。

 

ところで(これはどんな種類の音楽・どんな地域の音楽に関しても言えることだけど)、「ある音楽の魅力を知るには、その音楽を、実際に聞くだけで充分じゃないか」というような人が、世間には結構いたりする。残念ながら僕には、そう思えない。せいぜい、好きだとか、そうでもないとか、そんな「現時点の自分が起こす反応」を通して、「自分についての勘違いや、自分についての思い込みを深める」くらいしか、大方の人間にはできないんじゃないかな。

 

多くの人が、自分が起こす反応を、「感じること」と勘違いしたり、反応をしている自分を「自分自身だ」と誤解したりしている。「反応」は、感じることや分かること・味わうこととは別のことだ。

 

「聞けば分かる」といったような、短絡的なこと(それらしく聞こえるシンプルな言い回し)を「スパッと言う気持ち良さ」というようなものが、この社会にはあるけれど…それらはしばしば、思考や会話を一時停止させてしまう。

 

そもそも「聞けば分かる」と「思い込んでしまう」人が、分かり得る範囲(感じ得る範囲)というのは、はなから限られている。でも「はなから限られている」ということに当人が気付くのは、簡単ではない。分かり得ている内容や深さを、互いが比べ合ったりする機会も、そうそうない。第一、日常的な会話の中でそんなことを言及するのは、野暮で、時には不毛なことでもあるから、誰かが気付かせてくれることも稀だし、限られた範囲しか分かり得ていない人が、そのことに自ら気付くことができる機会も稀なことだと言える。

 

人間に対しても、「会えば分かる」と言ってしまう人がいるけど、たいてい「その人自身の経験・これまでの限られた人間関係」に従って、目の前の人に対してパッと反応し、相手を「即席でファイリングしてしまう」癖を持った人である場合がほとんどだ。もちろん、人生経験が積み重なれば、会っただけで分かることも多少は増えるだろうけれど…それでも、互いに時を重ねて知り得てゆくことには、到底及ばない。

 

一つの「知る」には、三つ以上の「時」を重ねるくらいの感覚でいる方が、ちょうどいい。一個人の、たかだか数十年の経験で、人間というものを、知り得たような気分に浸ることや、知り得ているかのように振舞うことは、何とも小恥ずかしいことだし、同じように、音楽だって「聴けば、分かる」などという短絡的なことは、本当は言わない方が賢明じゃないかな、と僕は思う。

 

感性って、知性だとか思慮なんかによって支えられている側面もあって、「知り得ること」や「読み取れること」が深まると、感じ方というものも、自ずから拡がり、変化してゆく。もちろん、音楽について前もって知識が必要だという意味でもなければ、音楽を概念的・観念的に聴いた方がいいという話でもない。「器をひろげなければ、そもそも、限られたものしか注がれることはない」ということで、また「注がれたものも、器の中に既にあるもの如何で、どのようにでも変容してしまう」ということ。

 

「現時点の自分」は、目の前のものを、本当の意味で知り得てもいないし、ゆえにそこから多くを読み取れる訳でもないのだから、本当に味わい尽くせている訳ではない…と、常に留意できているかどうかで、注がれるものが、注がれる量が、注がれたものの状態が、変わってくる、とも言えるんじゃないだろうか。注がれる瞬間に、自分が「次の自分に変容しているかどうか」で、感じ得るものは実際、全く変わってくる。

 

かく言う僕も、中高生の頃から世界各地の様々な音楽を聴き、それらについて可能な限り自分で調べ、その大半を自分なりに「楽しみ・味わって聴いていた」。しかしそれにも関わらず、自分がそれらの音楽を「本当の意味で、聴けてはいなかった」ということを痛感させられた経験が、幾つかある。つまり、味わいながらも、味わえていなかった、そのことに気付かされた、という経験だ。

 

その音楽が生まれた場所に、立った瞬間…自分の内に在りながらも、はっきりと自覚できていた訳ではなかった様々な観念のようなものが、自分の中でスルッと溶けてしまい、かわりに全く新しい感覚、どこか懐かしいような郷愁にも似たような感覚が、心に向かって全方向から溶け込んでくるような感覚。自分が「出会いながらも、出会えていなかった」と、気付かされる経験。音楽というものが、「切り抜ける」ものでもなければ、「持ち運べる」ものでもないことが、今更ながら改めて分かる、という経験。

 

録音という方法で「記録されるもの」を音楽と呼ぶ習慣に、また「耳から入る情報」を音と呼ぶ習慣に、どっぷりと漬かっていたなら…こういうことは、経験しにくいことかも知れない。

 

生身の人間や生身の文化に「触れる(タッチする)こと」って、耳で聞くとか目で見るというような、一部の器官による制限された知覚ではないと思う。

 

触れてわかることや、触れて通じることは、計り知れない。土に毎日触れている人と、そうでない人の語る「自然」は、様々な意味で異なっている。もちろん、その触れ方によっても、それぞれの内で創造される「自然」は異なってくる訳だし、対象が何であれ…本当は「触れ方に、その人間の知性があらわれる」ものなんだと思う。

 

「聞く」とか「見る」ではなくて…音楽という文化に、それを生み出した土地や空気や自然に、育んできた人々に、本当の意味で「タッチしたい」と思ってきた。

 

今の社会の中で、本当に他者や文化に「触れたい」って思っている人、どれくらいいるんだろう。出会っているようで、実は出会っていないということに、自覚を持ち、そのことに疑問を持ったりしてる人って、一体どれくらいいるんだろう。本当の意味で、互いに知りあいたいと思ってる人って、どれくらいいるのかな。

 

自分のことで忙しい、と思い込まされ、そこに埋没させられやすい世の中だから、人との適切な距離感は最初から大きめに設定されているし、互いの世界が、横並びにされながらも、どこか乖離・断絶している。

 

人との出会いは、二つに大別出来る。「自分の思い込みを増長し、自分をどんどん見失っていく出会い」と、「自分の思い込みを解き、自分をどんどん見つけていく出会い」だ。対象が、人間でも、人間から生まれた文化であっても、同じかも知れない。僕はこのところ、「触れる・タッチする」ということについて、大きな関心を持っている。「触れ方」の中に、社会を大きく変容する鍵が眠っているようにも、感じているから。

 

さて…そんな訳で、以前から差し伸べられていた「お導き・お招き」を受け、また「共鳴する何かに、直に触れる」べく、この夏の旅に出た僕だけど…

 

このブログを書いている今現在は、既にハヤスタンアルメニア)に至っている。つまり、この旅の行程のちょうど真ん中に来て、ようやくブログ(記録)に手が届いたということだ。

 

ルーマニアでの日々は、いきなり濃厚な経験の連続になったし、それはスペインのアルテア、バスクでも続いていた。アルメニアでもこの調子が続いていきそうなので…さすがにこのままだと、帰ってからドえらいことになってしまうと気付き(笑)、今日から旅の思い出を追いかけて、少しづつブログを書いていくことにした。

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※また後程詳しく触れる、ハヤスタンアルメニア)で数多くみられる石板(ハチュカル)。一つ一つ、じっくい眺めてしまう。日本で地蔵や摩崖仏を訪ね歩くときに似てたりする。

夏至祭

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夏至祭エントランスに立てられた、天地の塔。やって来た人がハーブや野草を摘んで、飾りつける。

 

夜が最も長くなる冬至と、昼が最も長くなる夏至の日は、古来地球上で生きる者たちにとって、特に重要な日だった。しかし現在の日本列島で、これらの日に祭が行われている地域は極めて少ない。

 

「家庭料理を作る…くらいの軽やかさで、様々な人が自分で音楽を作ったり、自由に踊ったりできる社会」「それぞれの家庭料理を持ち寄る…くらいの感覚で、互いの表現を持ち寄って、それらを互いに味わい合えるような社会」の実現をテーマに発足した、京北村民歌舞プロジェクト。「一から民族音楽を作ろう♪」みたいなノリでスタートした、大真面目な遊びのプロジェクト(体験型文化人類学?)で、冬至祭と夏至祭はその一環として毎年行なっているお祭。音楽文化と祭(祈り)は、深いところでリンクしているから。

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 ※日が暮れてから行われる「しあわせの輪くぐり」の輪。笛の音楽と共に、天地の塔前の火を二人でくぐる。よく考えたら、古事記の中の話みたい。昼間にこうして皆で飾り付けをする。

 

冬至は、「新しい太陽の誕生日」であり、見えている世界と見えていない世界のつながりを取り戻す祭り…エネルギーを通す儀の日でもあった。だから冬至祭では、思い思いの精霊に扮した人々が笛や太鼓を鳴らし、踊りながら各家庭をまわって、それぞれの住みかを聖地化するお祈りをしてゆく。対して夏至は、「太陽の力が極まる日」であり、生を謳歌する祭…生物の中や間で、エネルギーを巡らせる儀の日でもあった。だから夏至祭では、男女和合を一つのシンボルとして、天と地球、(誰もが内に持っている)女性と男性、昼と夜の融合を祈って、結婚パーティーのようなものを行う。

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 ※明るいうちには、お茶会が行われ、日が暮れてからは、持ち寄りの食事会が行われる。夏至の日は太陽の力が強く、出来るだけこの日のハーブを使って料理をすることが、夏至祭食事会のテーマ。

 

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※持ち寄られるのは、もちろん手作り料理の数々。地元野菜や鹿肉料理等、毎年クオリティが高くなっていってる気もする。この写真はまだ置き始め。

 

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※この日我が家は、鹿&羊のフェンネル入りシチューと、親鶏の山椒風味中華スープ、フェンネル入りのシェーファーズパイと、オレガノ入りタワー・サラダ、それから我が家のブルーベリー、ジューンベリー、近所のランさんから頂き物のブラックベリーを使ったサフト(ワインやソーダで割って飲む)を提供。

 

毎年夏至祭は、我が家で行っている。冬至祭と同じく、参加できるのは同じ地域に住む人々のみ。外から人を集めたり、外部の人に何かを見せたり、ということは一切ない。祭って本来「閉じたもの」で、地域民によるデートというか…ホームパーティーのようなもの。文化的に考えると…閉じ方を知る者、閉じたものの意味を知る者だけが、本当の意味で開くこともできるのではないか、と思う。

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※手に持っているのは、「ウツシダマ」。一年間にあったこと、とりわけ嫌だったこと、辛かったこと悲しかったこと、反省していることや後悔していること、謝りたいことや積もり積もった恨みつらみなど(笑)…手放したいことを思い浮かべながら、ワラの縄をクルクルと巻いてゆく。

 

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※そのワラの玉にハーブや花を摘んで挿してゆく。そうやって、めいめいの「ウツシダマ」が完成する。かわいく作るのがポイント!

 

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※願いを込めるのでもいい。近所のジョンさんのウツシダマは、デカかった!(笑)

 

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※日本列島には古来、感情や想念をものに移して、自分から放つ、という知恵がある。自分の内で生み出したエネルギーを、持ち続けるのではなく、浄化して巡らせるというアイディアだ。代表的なものが石で、手に取った石に様々な想いをうつし、手の温度と同じくらいになったところで、自然に浄化してくれる川に向かって放つというやり方だ。

現在の社会は、「祭」をただの集客・収益目的のイベントのようにしか捉えられなくなっているし、閉じることによって育まれる力に関して、ちょっと無関心すぎる。また、願うことと混同することで、多くの人が「祈り」を見失っているし、宗教に関する拒絶感から「儀式」の持つ機能も見失ってしまっている。そのおかげで、それらはいつの間にか人々の間でショーと化してしまい、人々を「見る側と見られる側」「与える側と与えられる側」「特別な人間とフツーの人々」に分離する罠と化してしまった。幻想は、思わぬところで再生産され続けている。僕らみたいに舞台に立つ仕事をする人間は、もう少しその辺の事に関して、ちゃんと考えた方がいいんじゃないかなぁ。

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※ウツシダマに気持ちを込めると、それを火に投入する。あとは火が回って灰になるのを見届ける。

 

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※これがやってみると、なかなか楽しい。丁寧に作ったものを、火の中に入れて燃やしてしまう…この意味が頭でわからなくても、感性や、身体が「知る」ことは大きい。

 

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※祈りって、ゆだねることや、まかせることも含んでいる。人間の想い描く「願い」は、昔流に言うと行者の「はからい」であって、それは祈りではなかった。ウツシダマは、とてもシンプルで小さな遊びだけれど、古来あそびこそが神事であったことを思い起こさせてくれる。

 

本当は、誰でもつながってるんだし、つながれる。誰でも感じることができるんだし、聞くことができるし、表すことも、流れを起こすことも、巡らせることも、整えることも、できる。鳥の声に耳を澄ませて、草むらに入って、野の花を摘んで、その香りを嗅いで、何かに添えて、美しいものを作ろうとするだけで、それは一つの表現行為となり、宣言となってゆく。つながることへの、表現と宣言。そういうのを、身体的に、行動的に、確かめられる祭がいいなと思う。宗教なんて、関係なくてもいい。体系づけられた宗教なんかが登場する前の、地球人感覚でいい。

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 ※「しあわせの輪くぐり」の輪。骨組みは藤の蔓。何でもない、野の花や野草、山に生えてる草木が、どれだけパワフルなものなのか、感じさせてくれる。

 

地球の上で暮らす以上、自然のサイクルをどこかで感じながら生きることは重要だ。感じるからこそ自らの分を知ることができるし、自分の分を知るからこそ、生きていることに感謝せずにはいられなくなる。祭って、感謝の表現の一つとも言えるけれど、人間をとりまく自然のサイクルに積極的に関わろうとする行為でもあるし、サイクルに波長を合わせることで、自らもそこに力を加えようとする、いわば人間なりの表現の一つと言うこともできる。 

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この特別な日を「どのように過ごすのか・誰と過ごすのか」って、それ自体が表現だと思うし、そうした選択も、一つのアート的行為と言えるんじゃないかと思っている。僕はこの日に、家族や、同じ地域に縁あって集まった人々と過ごすと決めて、そうしているし、住んでいる場所を離れて何かを得るために行動するような日にはしたくないと思って、仕事は入れないようにしている。「そういう風にすると決める」ことは、それ自体が一種の儀式とも言えるし、生き方の宣言とも言える。そんな小さな宣言の一つ一つが、日々の暮らしを清々しいものにしてくれる。

 

誰もが自由に、そんな宣言ができるような世の中になったらいいなと思う。これでいいんだと「自分に言い聞かせ」たり、仕方ないじゃんと「自分を納得させる」のではなく。夏至冬至といった時の節目は、同じ地球上で生きているなら、元より共有しているはずの瞬間だ。できれば沢山の人々が、自分が日々暮らしている地にいて、その場を改めて味わう日にすればいいのに…とも思う。居場所を創造する力って、そうやって育まれてゆくものだから。それって、かつては誰もが心のどこかで知っている、知恵でもあった。

 

 

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※陽が高いうちに、みんなでブルーベリー摘み。今年は思い切って枝を払ったので、なりがいい。子供たちもつまみながら、摘んでゆく。 

 

とは言えこの現代社会では、「今既にそこで動いている社会のサイクル」というものもあるし(たとえば七曜・月火水木金土日とか、五十日とかww)、それに合わせざるを得ない暮らしが、この社会の大半を占めてはいるかも知れない。それら「当たり前のもののようにして、そこにある」社会のサイクルは、実は少し調べてみれば分かることだけど、発祥から一般化への経緯に至るまで、様々な意味で、どこか奇妙なものが多い。奇妙だけれど、みんなそれに疑問を抱かず、それに沿って生きているんだから、自分だって外れる訳にはいかないじゃん、そんなことしたらココにいられなくなるじゃん、とそれぞれが自分に言い聞かせ、疑問も抱かないように留意している。

 

でも近い将来、そういう空気も、変わってくるんじゃないかなぁと思っている。それらは、時代が抱く壮大な妄想であって、多くの人の思い込みによって、支え続けられている…というだけのものだから。僕らの時代だって、この子たちの時代だって、そういったものから解放されて(自らを解き放って)、新たしい時を刻んでゆける可能性に満ちている。

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※作業してたら、子供たちがどんどんブルーベリーを運んでくる

 

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※奇跡的に描かれた、煙と風景の、大きなハート❤…見えますか?

 

「変化」は、ゆっくりでもいい。出来るだけ、沢山の人が、無理なく、取り残されることなく、一緒に変化させていける方がいいから。それには、こうして小さな表現行為を重ねて、日々暮らしている場所でひそやかな宣言を「続ける」ことも、大事なんじゃないかな、と思っている。

 

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※前日までの雨がウソのように、陽が射していた。天地の塔が光る。

 

僕にとっては、こういうお祭するのも、音楽やってるのと変わらない感覚。今年も、集まって一緒に時間を過ごしてくれた地元の皆さんに、感謝したい。

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※洋子さん力作…ブラックベリージューンベリー、ブルーベリーのサフト(煮詰めて甘いジュースにしたもの)をエールで割ると抜群に美味かった!今度はこれで一杯やる会でもしようかな。