タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

大学での講義

一年ぶりで再開した大阪大学での講義。今まで7年間は「実践的文化交流論」という名前で、笛(ケーナ)を使いながら文化や意識について語る授業だったけれど、今年からは「共生の技法Ⅱ」という名前に変わった。この授業を引き受けたのは、今年が初めて。

 

共生…技法…。この名称で、しかも僕のような人間の「謎多きのシラバス(講義の内容やその目標を記載したもの)」を読んで、わざわざ僕の講義を受けに来る学生さんたちって、一体どんな人たちなんだろう。そもそもこの効率主義に偏った風潮の中で、こういう謎多き授業を受講する学生さんって、いるんだろうか?

 

…と油断していたら、思ったより多くの学生さんが受講希望して、笛が足りない事態に(笑)7年間も授業で使っていたので、中には破損して使えなくなったものもあるし。

 

でも今年からは、まず楽器を触ったり何かを実践してもらったりする前に、僕が様々な話や問いかけをする中で、みんなに考えてもらったり、話し合ったり、そして「お互いに思ったり考えたりしていたことを、共有してもらう」時間をとろうと思っていたから、それはそれでよかった。

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大学での授業が終わる時間は、いつも校内からの夕暮れが素敵

今年からの授業の、最大のテーマは「一つでも多く、思い込みを解除すること」。感じることや、知ること、考えることの、一番障壁になるのがこの「思い込み」だから。

 

思い込みと言っても、色々ある。個人の思い込み、家族内での思い込み、住んでいる近隣での思い込み、同世代間での思い込み、職業的な思い込み、社会に蔓延している思い込み、国家が流布している思い込み、今という時代だからこそ抱いてしまう思い込み、地球上にいることによって生じてしまう思い込み。 

 

たぶん10~20年くらい上乗せした年齢でないと、本当はピンと来ないであろう内容の話も(多少カジュアルな口調にはしているものの)聞き手の経験知は気にせずしているし、普段は定年後の方々にしか通じないような話も、肌が艶々した子供たちに対してどんどん浴びせかけている。

 

言葉(音・文字)について知らないからこそ思考が迷走しやすくなっているということも話すし、宗教や差別や、社会階層や支配構造のカラクリについても話すし、教育や歴史や習慣・慣習にも疑問や何故何故を投げかけつつ、何でやろね?と、どう思う?を連発する。

 

ところで僕は、誰が何と言おうと、今の若い人たちに日々、光を感じている。だから、授業で大学生の子たちと語るのは、とても楽しい。子供はそもそも、大人の放つ光を映し返してくるものだし、若い人たちのことを嘆いてしまう大人は、出来るだけ早く自分の人生を振り返った方がいいと思う。まだ遅くないと思うし…。

 

今の時代、世の中の危機的情報を得るのはたやすい。(そういった情報を得る以前の人たちは論外として)様々な危機的な情報を得て、人間社会や地球の未来に絶望的になるのは、実は「自称知的層」の人たち。論外の人たちがたくさん目に付くような人間関係しか周囲に持ち得ていなかったら、ついつい自分たちこそが知的なのだと勘違いしてしまうもの。しかし、そもそも、情報や知識を得ただけで、知的になったように思い込んでしまうことは、人間の思考癖における代表的な罠の一つだ。

 

嘆くのは「たやすく」、そして無自覚のうちに、自分が行動しきれていないこと・自分の思考や行動がズレていることの「言い訳」にもなってしまう。そして何より、絶望は耽溺傾向を持つ人々の甘い蜜でもある。被害者意識が、自分が正しいと思いたい人間にとって、甘い蜜であるのと同様に。

 

もちろん、夢想的に楽観を抱き「何かを待っているような思考」に陥ってしまうのも、開き直って暮らしを何も変えない生き方と同じく、いただけないとは思うけれど…。

 

ある意味、光を感じさせてくれるような人たちと、普段たくさん出会えているかどうかが、自分自身の日々の行動の、試金石になるんだろうと思う。そういう行動を自分なりに全うしていかないと、誰でも気が付かないうちに、受け身で創造的でない生き方になってしまうものじゃないかな。

 

さてさて…今年もそんな訳で、色んな質問が並んだアンケートを学生さんたちに配る。学生さんたちの文章は、最初はちょっと固いけれど、次第に素直な自分の言葉になってゆく。それらはどこか、詩的であったりする。
(下記はアンケート1~4の、質問項目の抜粋)

 

◆しあわせとは、何だと思いますか?
◆人間にとって、豊かさとは何だと思いますか?
◆あなた自身が考える、最高の自分の在り方は、どんな状態ですか?
◆今のあなたが、その状態でないとしたら、そうなることを阻んでいるのは何だと思われますか?
◆あなたは今、どんなことに不安を感じていますか?
◆あなたが考える、自分が最も恐れていることは、何ですか?
◆今の日本の社会について、あなたはどんなことを感じていますか?
◆人(他者)を攻撃したいという欲求や衝動は、何故私たち人間の内で生じるのでしょうか?
◆この世から戦争はなくなるでしょうか?そしてなくすには、どうすれば良いと思いますか?
◆人類は今よりも進化し得ると思いますか?もし進化し得るとしたら、どのように進化し得るでしょう?
◆あなたにとって魅力的な人間というのはどういう人でしょう?あなたはそうなれそうですか?
◆生まれる前と死んだ後には、普段どんなイメージを持っていますか?
◆あなたはどのように死を迎えたいですか?
貨幣経済がなかったら・稼ぐ必要がなかったら、あなたはどのようにして、日々を過ごしますか?
◆誰とも競争する必要もなく、認められる必要もなく、何かを勝ち得る必要もなかったなら、あなたはそのとき何に達成感を感じるようになると思いますか?
◆あなたは普段、自分が見ている側だと思い込んで様々な物体を見ていますが、実はあなたも常に、周囲のあらゆる物体から観察されています…そうだとしたら、あなたはそれら物体から、どのように見えていると思いますか?
◆普段あなたは、人に見せられる自分と見せられない自分、自分で好きになれる自分と好きになれない自分…という風に、自分自身を色んな自分に分けて暮らしていますが、それらが一つになっているのは、どんな時でしょうか?
◆人間が、音楽的感覚を失ったなら、人と人のコミュニケーションはどんなものになるでしょうか?何が音楽的感覚と言えるのかを考えて、こたえてください。
◆最近、自分の中で解除された思い込みを書いてください。それぞれの抱いている思い込みを解除し、お互いの視野を拡げることがこの授業のテーマでもあります。

 

…20歳前後の学生さんたちがどんなことを書いてくるのかは、ご想像に任せて…

それらは何だか、すごく、いい。

 

読み返すたびに、しみじみと
みんな、いい人生を送って欲しいなぁ、と思う。



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破竹。笹の合わせを見ていると和服の生まれた国なんだなぁとしみじみ。



カテリーナ公演、そして楽市楽座公演へ

この前、庭で羽化したヤツだろうか…草刈りをしていると、クロアゲハがやってきて、ひとしきり周りをヒラヒラ飛んでいる。天気がいいと、一日家にいる日でも(特に外回りで)やることは多いし、掃除したり料理したりしていると、いつの間にか夜になっている。考えてみれば子供の頃は、夕暮れの時間は大抵、外で迎えていたように思う。今の季節は16時半頃から光が柔らかくなって、それから夕暮れまでは屋内に入るのがもったいないくらいの、至福の時間となる。

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庭がフェンネルの森になってゆく…

さて、もう10日も前のことだけれど、大分・杵築の山香にあるカテリーナ古楽研究所の「カテリーナの森」で行われた「Sing Bird」。僕は一日目(11日)のコンサート「祈りの夜」に参加させてもらった。中世・ルネッサンスの音楽を中心とした選曲、その中に伊福部昭によるギリヤーク族の歌や、アルメニアの歌や舞曲も盛り込まれた、ユニークな内容。野外に建てられたステージが本当に素晴らしくて、森の中というロケーションも手伝い、夕暮れ時には他では味わえない幻想的なムード漂うコンサートとなった。

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夜になると、カテリーナの森は幻想的な会場に… photo by Takanori Suzuki

僕自身は、野外で急に冷えたこともあって途中指関節が硬直し、笛の指孔が閉じられなくなるというアクシデントもあったり(これまでの演奏活動の中で初めての経験だった)、演奏上幾つかの反省点はあったけれど、想い出深い曲もあったし、何よりこのメンバーで音を重ねられたことが楽しかった。こういう音楽を公博さんともやってみたかった、という想いはあるものの(このコンサートは松本公博氏の追悼企画でもあったので)、そこに公博さんが「おられないという感じがしない」、不思議な舞台でもあった。

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二日間のイベント終了後、ステージメンバーと…photo by TKC

次の日12日は出演がなかったので、一日ブラブラとこのSing Bird というイベントを楽しませてもらったんだけれど、Sing Birdはカテリーナの皆さんが日頃暮らしている場所、そして森の中を、端から端まで使うような大きなフェスで、自らも舞台に立つカテリーナの皆さんは、主催として本当に大変だっただろうと思う。今回16回目で一つの区切りとしてのファイナルを迎えた訳だけれど、この二日間を眺めて、これを毎年やってきたのかぁ~とつくづく感動した。

 

カテリーナの未來君や舞香さんのユニット、baobabのステージも、(考えてみれば)まともに観れたのは初めてだった。僕は人のステージを見に行くことが普段あまりないから、こういう機会は実に有り難い。色んな想いを辿ってゆくようなそのコンサートは、しみじみとしてて、本当に良かった。今回「受け継がれる」ということや「種をまく」ということについて、改めて考えさせられた。カテリーナのご家族皆さんは、公博さんが長年取り組んできたチャレンジや探求を引き継ぎながら、さらにまた新たな種を撒ける人たちなんだと感じた。 

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今回初めて共演したタブラの逆瀬川さん…30年近く前から存在を知ってたのに

僕も田舎で暮らしているから、毎日が自然との「せめぎあい」でもあるんだけれど…都市に暮らす人が音楽で描く「自然」には、ある種のファンタジーを感じることが多い。それを悪いとは言わないけれど、恋愛をしたことのない人が、幻想の恋人を歌っているような…そんな奇妙な感覚を覚えることが少なくない。自然は、人間がたまに眺めて味わうためにあるものでもないし、人間が都合よく一方的に味わうためのものでもない。ましてや人間を都合よく癒してくれるもののように捉えるのは、ある意味極めて人間的な一種の暴力ではないだろうか…とさえ感じてしまう。

 

バオバブの音楽には、そういうのがない。いや、そのナチュラルな響きの中に、自然環境を眺めている感もあるし、それらに触れてる感もあるし、それらに救われている感もあるんだけれど…ずっとそこにあるものって、そんなふうに表れるもんなんだな、と感じさせられる。それは普段から「まとっているもの」だから、音楽の中に自然に現れるものなんだろう。表そうとして、現れるもんじゃない。

 

美味しい野草茶をご馳走になったような気になった。

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終演後、スタッフさんたちと。みんないい顔。…photo by TKC

 

そして先週日曜日は神戸での仕事の後、久しぶりに野外劇団「楽市楽座」さんの公演を観に、長田神社に向かった。楽市楽座さんは「水上・廻り舞台」というユニークな仕掛けの「野外」劇団で、雨の日も客席は屋根がつくものの、演者はずぶ濡れのままでやる、という気合の入った劇団。そして観劇料は投げ銭のみ、というとてもユニークな劇団だ。これまでは長山現さん・佐野キリコさん夫妻とその娘さんの萌ちゃん三人だったけれど、この前萌ちゃんが結婚したので、今回からはパートナーの佑之助君加わっての、家族四人での劇団。 

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楽市楽座は、家族全員が楽器を演奏し、歌う

ところで、もう長い間「投げ銭コンサート」なるものが巷に溢れているけれど、その大半は、「嘘の投げ銭」。つまり、投げもしないのに、投げ銭と言っている。要は「チケットなしにすると、客集めが容易になる」という安直な思惑のもので、カフェにしてもホールにしても、「敷居を低くする・門戸を広げる・機会を増やす」と言えば聞こえはいいけれど…実質的には主催側の「リスク回避」でもあり、もっと言うとそれは、場を持つ者の「責任放棄」でもあったりする。

 

「やらせたるけど、金集まらなかったらそれはそれで、自己責任ね」という訳である。道理で、人を育てる場というのも、人を育てることの出来る人間というのも、世間では少なくなっている訳だ。一言で言うと、「損はしたくない連中の言い訳」として「投げ銭」式がある。「リスクあったら、お店も続かないしね~やる側も、気軽にやれていいでしょ~」という訳である。昨今は「場を持つ者の、気概がなくなった」のかも知れない。

 

もし「敷居を低くしたい・門戸を広げたい」ということなら、カンパなりドネーションなりお気持ち代なり、表現も方式も幾らでも工夫できる。要は「他でもやってるアレで、うちもやろうや」ってな感覚で、やってしまっているのである。最低保証を主催側がきちんと準備して企画する…くらいの覚悟や姿勢が持てないなら、そもそも客寄せの如くの企画を持ち出して、人を使って客層拡げよう・活性化しよう的な都合のいい行為は慎んでもらいたいものだ。僕は、そういった投げ銭企画を安易に持ち出してくる人とは、何もやらないことにしてきた。

 

ある意味「投げ銭」と言うのは、「屋内を路上化する」ようなもので、お店やホールにとってもデメリットもあるし、演者の方も一歩間違えれば「キャッチーなもの」「わかりやすいもの・パッと受けるもの」に走りやすくなり、一方で「わかりにくいもの」や「芸術的なもの」をするような人間はどんどん減ってしまう。そして、無料でもいい訳だから、それほど責任もない…とばかりに、浅い芸・内容で、気軽に人前に立とうとする人間も増えかねない。国をあげて文化度を下げたいなら、言い訳を言いつつ、そういった安直に走るもいいだろうけれど。

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見よ、この投げ銭!この日はキリコさんのロック魂が炸裂していた

その点、楽市楽座さんは、モロ野外!そして本当の投げ銭!ホントに投げる!

投げ銭チャーンス♪」タイムもあるし、「投げ銭のうた」もある!なんと清々しいことだろう…これをおいて、他で「投げ銭」の文言は一切使ってほしくない。

 

「うちは演劇だけど、ゲテモノだからね」…楽市楽座の源さんがニヤリと笑いながら言った。なるほど!この確信犯的発言は、これまた清々しい。下手物とは、上手物に対する言葉。大衆演劇が上手物を目指したら、それは「ブレ」でしかない。ロックが上手物を志向したら、それはもうロックではない。より多くの人にメッセージを発しようとするものが上手物を気取っているなら、それは偽善だ。

 

第一、楽市楽座さんの投げ銭タイムはかなり楽しい。金を投げるのって、こんなに楽しいものなのか。そして「さぁ今だ、銭投げろ!」ってなこと出来るミュージシャン、今いるだろうか。拝金主義に過度に頭やられちゃってるからこそ、実は内心お金を崇めちゃってるからこそ、お金を投げるなんて・お金を投げられるなんて、みたいなマインドになっちゃってるんじゃないだろうか。

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廻り舞台は結構まわる(笑)アイロンちゃんと蚊取り線香君もなかなかいい

まぁ、そういったことに大いに気付かせてくれる舞台芸能であり、そして様々な想いやメッセージを「キュートに」放り込んでくる辺りが、この楽市楽座さんの魅力なんだけれど…今回の演目「かもしれない物語」は源さんをはじめ、楽市楽座家族の「世界へのまなざし」が、より見える作品だった。あたたかい物語、そして身近なファンタジー、四匹のカエルたちが、生まれ変わって、また戻ってくる「かもしれない」この世界への愛を、うたう。

 

絶望するのも、嘆くのも、簡単なことだ。声高に何かを主張するのも、情報を横から横へ流すのも、簡単なこと。表現者のやることじゃない。

表現者が希望を描かなくなったら、世界は暗がりになる。
yagai-rakuichi.main.jp

タイムとミツバチと、それから春の日々

ミツバチの羽音やクマンバチの羽音が庭に響き渡るようになると、ようやく春を迎えたな~という実感が湧く。今年はタイムの範囲が更に拡がって、庭が一面ピンクに彩られているので、ミツバチたちの群が来るのを心待ちにしていた。何といっても、いろんな種類の鳥たちの歌に交じって羽音が響き渡るのは、たまらなく美しい。

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タイムは石の上なんかが大好きなので、庭よりも建物に押し寄せてくる(笑)

とは言え、まだ朝方は5度を下回ることあるので、朝夕は肌寒い。逆に日が高くなると汗ばむくらいの陽気になるものだから、草刈りはタンポポカモミールたちが完全に開花しきってハチたちがやってくる時間までにしている。

 

ところで我が家のタイムの蜜は、一体どこに集められているんだろう(笑)?空き家のままで、廃墟のようになってしまった我が家の巣箱ではないようだけれど。

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花に陽が当たり始めると、ミツバチがいっせいに飛んでくる

さて、この前久しぶりに意気揚々とキックボード(最近はキックスクーターって言うのかな)で近所に出かけたら、道の凸凹に前輪がハマって、盛大に路上でこけてしまった。近所にフクちゃんという、最近毛が抜けて衰えてしまったコーギー(犬)がいるんだけれど、そこのオジサンがちょうど帰宅したところで、フクちゃんとオジサンに挨拶しようとよそ見した瞬間の出来事だった。

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膝すりむいたの、何年ぶりだろう…筋力落ちてるのも実感…こりゃいかん!

慌てて手をつき起き上がると、Gパンの膝がド派手に破れている。つまり、子供のように膝をすりむいてしまった訳だけど、こういうケガをしたりすると何だか脳が活性化しているような感覚がする。頭の回転が突然速くなる瞬間があったり、風景が鮮やかに見える瞬間があったりする。不思議だけれど、ケガした時の人間の感覚って、そういうものかも知れないなぁ。大きいケガはもちろん、しないに越したことはないけれど、小さなケガもしないような暮らしをしていると、何か自分に備わっている能力を活かしきれていないような気持にもなる。

 

たとえば、我が家の庭にはトゲトゲの奴らがはびこったりするので、草刈りには注意が必要だし、少し放置したりすると奴らが方々に伸び散らかして、なかなか厄介なことになる。草を刈る際に、気を付けてはいても、毎度少しはチクリと刺さることなんかもあるので、基本的に厚手の手袋は必須なんだけれど…こうして草刈りをしていると、手袋なんかがろくになかった昔の人は、イバラやトゲトゲたちにどう対処していたのかなぁ、と想いを巡らしてしまう。

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庭のど真ん中に陣取っているジューンベリー

でも、僕も庭に出てたまたま目について手袋を取りに行くのが面倒な時なんかは、そのまま素手で草刈りを始めてしまうこともある。そんな時は、トゲトゲが潜んでいることも見越してか、左手の使い方が自然に変わっていたりする。

 

草むらに手を差し入れる時、独特の柔らかい感覚になって手を入れる訳だけれど、トゲトゲをつかむ際も自然に柔らかく持つようになる。もちろん出来るだけトゲの個所を避けて持とうとはするんだけど、触れた瞬間に「刺さらない」手になれるというか…フワリとした手で草に触れることで、センサー能力が高まっているから、棘の上から持ったり掴んだりしても、刺さらなかったりする。

 

こういう時はまるで、自分の肌が別の状態に変化しているような感覚にもなっている。このような感覚を、日常のすべての事象に応用できないかな、と常々考えたりしている。何かとても重要な「技術」が、この感覚には隠されているんじゃないだろうか。

 

さて、今週末には数日間大分に赴く。大分の山香にあるカテリーナ古楽研究所のイベント、「Sing Bird」に出演するためだ。カテリーナ古楽研究所の創設者・松本公博さんが急逝されたのは、昨年の秋…僕がトランシルヴァニアバスクアルメニアジョージアを巡っての旅から、帰国して直後のことだった。

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5月11日の、祈りの夜に出演…アルメニアの曲も2曲入っている

公博さんと出会ったのは10年ちょい前のことだけれど、自給自足生活をしながら古楽器を製作し、社会に蔓延する思い込みや近代的思考と闘ってきた公博さんとは、最初にお会いした時から他人とは思えない程、共鳴するものがあった。自分以外の人で、そして自分よりも先に、同じようなことをたくさん考えて、同じようなことをたくさん試して、自分よりもずっと力強く生きてこられた人…そういう人に出会えて、純粋な感動を覚えた。

 

僕の中では、公博さんとしか共有できないような話(他の人と話しても心底では共有できないような話)が幾つもあった。なので、2018年の旅で目にした音楽や楽器やそれらの文化について、話したいことや見せたいことがいっぱいあったんだけれど…それは叶わなかった。しかし(ちょうど神道で四十九日にあたる五十日祭の前夜に)山香を訪れ、その際にご遺影の前でカテリーナのご家族皆さんと旅の話や音楽の話を長々としたから、きっと公博さんとも共有できたんじゃないかな、とは思っている。

 

カテリーナの皆さんとは以前、古楽研究所や竹田・長湯でのコンサートを企画して頂いた際などにご一緒させて頂いたことはあるが、このSing Birdとは縁がなくて、僕は出演したことはなかった。今回16回目の開催、そして今回がファイナルとなるこのイベント…公博さんがいないこのタイミングでようやく出演することになったのも、何だか不思議な気持ちがする。

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左から、Shvi、TabShvi、Blul...Blulはアプリコット木だから、果実の香りがする

今回演奏内容の大半が、中世の音楽。僕は昔から中世やルネッサンス時代の音楽には親しみがあるが、この舞台には全曲、練習し始めたばかりのアルメニアの笛で、しかもカテリーナの未來君(公博さんの息子の)に譲ってもらった古竹で製作した笛で、のぞむことに決めた。南米の笛やケルト系の笛のような、自分にとって慣れた楽器ではないし、自分が想うようなイメージの演奏に成り得るかは分からないけれど、遊びやチャレンジでのぞむ方が、公博さん追悼のステージにはふさわしい気がしたから。

 

カテリーナさんに、特に公博さんに所縁のある演奏家が集まっての大合奏。どんなサウンドになるのか、今から楽しみ。https://www.singbirdconcert.com/day1

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我が家の芋虫たちが次々アゲハに…これからはアゲハたちが乱舞する季節

それにしても、美しい季節。陽のある時間全てを、外で過ごしたいくらい。本格的な夏が来るまでは、できるだけ外にいようと思う。

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天気が良ければ、外でご飯も仕事も…裸足でいられるようにしてある

 

3月から4月にかけてのご報告

このところ、FBでは近況をアップしていたものの、ブログの方にはアップできていなかった…ので、まずは早足で3月~4月のご報告。

 

3月10日に開催された「大地のめぐみを、味わう旅」は、昨年夏のルーマニアトランシルヴァニアへの旅をセッティングしてくれたダニエル氏とのコラボレーション企画だった。

この企画は、ルーマニアのワイン文化(それをとりまく歴史や文化、自然環境や農業、人々の暮らし)を紹介し6種類のワインを味わって頂くのと同時に、ルーマニアの音楽も楽しんで頂こうという贅沢な催しだった。

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旅の最後に訪れたサハテニ・ワイナリーの人々と

このブログでも詳しく報告するつもりではいるけれど…昨年のトランシルバニアの旅は驚きと発見に満ちた旅だった。伝統的に農薬を嫌ってきたこの地域の人々は、食文化に対して意識が高く、長い年月にわたって自然環境を守ってきたことが伺えた。地平線の向こうまで広がる畑には宝石のような何種類もの葡萄が実り、プルーンやリンゴの木々からは果実の豊かな香りが漂っていた。愛情を受けて育った馬や羊たち、職人気質でチャーミングな農園の人々、誇り高き羊飼いたち、アカシヤの木々とその傍らに並ぶ養蜂家たちの蜂蜜ワゴンの群…国家の恩恵を受けずに自給自足の暮らしを続けてきた奥地の村の暮らしや、バイオリンの材となる木が今なお生い茂る森など、多くの人に知って欲しいことが、僕の中には溜まっていた。

 

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終演後、ダニエル氏と

そんな諸々のことを少しでも多くの人にシェアできればと企画したこの催し…ダニエル氏の話はとても興味深いものだったし、試飲コーナーでふるまわれた6種類のワインはどれも風土や歴史を感じさせる素晴らしいものだったので、満席になった会場の皆さんには本当に楽しんで頂けたように思う。もちろんルーマニア音楽ライブも大変盛り上がった。音楽は、人間だけから生み出されている訳ではなく、また人間の中だけで育まれてきた訳ではないことが改めて分かった。

 

また、会場となった大阪・本町の周(あまね)は、僕が音楽活動を始めた頃から一緒に仕事をさせて頂いてきた音楽事務所の方がオープンしたお店でもあったので、この日は色んな意味で特別な日になった。今年は7月の終わりに、再び東京でこの催しが実現することになりそう。関東にお住まいの方がおられたら、是非お越し頂きたい…。

 

 
続いて3月18日は、地元の保育園の卒園企画でのコンサート。うちに向かいにある保育園なので、子供たちも顔見知りが多く、家族ぐるみで親しくさせて頂いているご家庭も少なくない。この保育園でも何度か演奏させて頂いているが、こうして地元の人々や子供たちの前で演奏させて頂く機会は本当に宝物だと思っている。
 
 
3月22日には、東京神楽坂にあるメディカルレイキ・アカデミーでの講演。昨年11月にさせて頂いた講演会では話が「ノッてしまい」、なんと話題がテーマに行き着くまでに公演が終わってしまったので、今回は出来るだけテーマに即して話すことに…。
 
前回と同じく、演奏を交えながらの講演なんだけれど、話の内容に興味を持って集まって下さる方が多いし、こちらもそういう方々に話したいことはいっぱいあるので、いつも時間切れになってしまう感はある。この辺りはもう少し、こういう機会に関して「こなれたい」なぁと感じている。もちろん、僕の性格上そうなってしまうことは不可避なのかもしれないが。
 

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この日は会場を真っ暗闇にしてフヤラを聴いて頂いた

 23日は四ツ谷メビウスで、昨年11月以来の南米音楽コンサート。今回は、新たに出会えた人や、ようやく出会えた人、そして久しぶりに会えた人も多く、個人的にとても嬉しい日になった。これまで南米音楽を通じて人と出会っていくということが(こういう楽器をやっている人間としては極端に)少なかったので、こうして南米音楽をメインにしたコンサートをして、愛好者や愛聴者、演奏家の方々と知り合っていくというのは本当に新鮮な感覚がする。

 

ギターラの寺澤氏とは二度目のステージなので、つかめてきたことが多い。これからもっと楽しくなるだろう。寺澤氏は爪ではなく、指で弾くスタイルなので、ギター奏者の中でも、音色に特に個性が光るタイプ。だからこちらも知らず知らずのうちに、普段と違う吹き方をしている。

 

このところ、新しい笛にチャレンジする時間を多めにとっていたので、ケーナを演奏する時間は少なかったけれど、やはり自分にとっては古巣的音楽。鳴らした瞬間に、スイッチは入る。僕を音楽の世界に引き込んでくれたのは、南米の音楽文化だったのだなぁとつくづく実感した。

 

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東京四ツ谷メビウスにて、ケーナのライブ

 終演後、あれこれを撤収していたら、熱心に聞いてくれていたバーテンダーの女の子が「あのう…アルバム買わせて頂いてもいいでしょうか?」と声をかけて来てくれた。何だか嬉しくて「何か音楽やってるんですか?」と尋ねると、遠慮がちに「はい…あ、ロックっす」と言っていたのが可愛かった(笑)

 

本が付いた「空のささやき、鳥のうた」を買ってくれたんだけど、その中に収録された「霜が降りた道」をこの夜演奏したから、それを気に入ってくれてのことだった。およそロックとは逆方向の音楽かも知れないけれど…こういうのが一番、嬉しいのかも知れない。

 

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頂いた古竹で作ったアルメニアのシュヴィなど…

4月の頭には、ちょっとした仕事で太秦の撮影所に。ウードの常味裕司氏やダンサーの素蘭さん、ダラブッカの永田充君と久しぶりにご一緒したんだけど、やはりこういうサウンドは好きだなぁと思った。バイオリンの土屋玲子さんのユニットでの演奏…どういう仕事だったのかはまだ公表できないけれど、そのうちに。

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舞踏家で映画監督の岩名氏と

さて同じ4月の頭には、フランス・ノルマンディー在住舞踏家・映画監督の岩名雅記氏の大阪での新作上映の最終日に駆けつけた。

 

FB上で誰かとのやり取りの中で、とても共鳴する文章を書いている人が岩名さんだった。面白そうとやり取りしているうちに、つながった。メールでのやり取りはしていたが、直接お会いしたのは今回が始めてだった。

実際お会いすると、岩名氏は僕の好きな発酵系の人間…とりわけ燻製チーズのような、香り立つ方だった。今の世の中は何でも「溜め込むこと」が良くない事のように言うが、僕はアレコレ「溜め込める人」が好きだ。中でも、人知れず発酵を続け、たまり醤油の如く熟成し青カビチーズの如く異臭を放っている人は「堪らない」。奥底に、他人が知り得ない時の集積・念の集積があるからだ。
それにしても岩名さんは、何に「あぶられて」来たのか。長い時間、人知れず何かに「あぶられ続けてきた」人でないと、このような香りは放てない。

上映が終わってからも喫茶店でご一緒させて頂き、色々な話を楽しんだ。映画のことやこの日の出来事は、そのうちブログに書けたらなとは思っている。

 

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ついにスタート、京北での「踊って旅する、世界の国々」ダンス講習会

そしてこの4月からついにスタートしたのが、「踊って旅する、世界の国々!」。僕が住む京都の北に位置する京北で、9月の秋分の日に開催される「ツクル森」というイベントと連動する形で定期的に開催されていくことになった、フォークダンス講習会だ。

 

日本人は日常的に踊らない。日常的に歌う人も少ない。音楽やその他の身体的表現を、一部の特殊な人々がやるものだと思い込んでいたり、習ったりしないとできないことだと思い込んでいたり、そういった表現を娯楽やサービス業のように捉えたりしている。

 

世界各地に「輪になって、手をつなぐ踊り」があり、日常的に地域の人々が集まって踊ったりする文化があるのに、日本には手をつなぐ踊りがほぼない。住んでいる地域の人々が一緒に踊るといった機会も、一年のうち盆など限られた日だけだ。これは10代の頃からずっと不思議だった。

 

何故そうなのか?は諸説あるが…それよりも、実際にこのような文化に親しみ、楽しんでみる方がいい。世界各地では、このような踊りの文化を通じて互いの関係を深めたり地域の結束力を高めてきた経緯がある。お互いに触れる機会が少なくなっているこの社会で、手をつなぎ輪になり、身体をシンクロさせ時間を共有する、この輪踊りという装置を加えたら、僕たちが住んでいる地域でどういうことが起こって来るのか。

 

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大人が作る輪に子供たちが飛び込み、周りを走り回って、踊りがひろがっていく

初回のこの日は、アルバニアの曲やルーマニアの曲、ルーマニア国内のハンガリー系チャンゴーの人々の音楽や、アルメニアの音楽をとりあげた。普段接することのないような地域の人々の感性や暮らしに触れてもらえる機会にもなればいいなと思う。

 

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ワーク・ショップ終了後…この後、ミニコンサートと交流会が行われた

この子供たちが大人になる頃に、人が集まったら、そして何かの式や催しがあったら、CDなどではなく生演奏で音楽が奏でられ、自然に踊りが始まり、誰もが躊躇なく踊りの輪に入り、時間を共有できるような地域社会になればいいなぁ。

 

次回は、7月6日、8月3日。関西圏におられる方は是非。



 

 

 



あたらしいこと

(まだアップできていない旅の報告の、番外編みたいな内容だけど…)

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Blul(ブルール)…因みに布はグルジア(ジョージア)で入手した古布。

年末年始に、アルメニア(ハヤスタン)のブルールという笛を練習し始めた。昨年の春にシュヴィという笛を作って以来アルメニアの音楽を少しづつやり始めてはいたものの、自分がこのブルールにチャレンジすることになるとは正直思ってもみなかった。

 

ブルールは、トルコやブルガリアマケドニアアルバニアなど…世界各地で演奏されている「斜めに構えて音を鳴らす」笛と同系列の、木の笛。僕はこういった斜めタイプの笛の音楽を「中学生の頃から好んで聴いていた」にも関わらず、そして人から譲ってもらったり自分で入手したりして、「(ブルール以外の)実物を持っていた」にも関わらず…どういう訳か、これまで本格的に「自分でやってみよう」と思い立つことがなかった。

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ブルールを手に入れてすぐ、基本的な奏法をレヴォンに見せてもらう

目の前には音源も実物もあるのに、音を鳴らすことはあっても、運指だとか曲だとか奏法だとか、そこから先に突っ込もうとしなかった。好きなことや興味を持ったことに関しては、すぐに調べたりやってみたりする僕なのに、これはとても不思議なことだ!

 

このタイプの笛の鳴らし方・奏法が、既に僕が演奏している他の笛と比べて、大きく異なっていることも理由の一つなのかも知れない。南米のケーナアイルランドの木製フルートなどは、(多少異なるものの)発音時の口の形がそれほど大きく異なる訳ではない。しかし斜めタイプの笛は、口の形状や筋肉の方向がそれらと全く異なっている。舞台の上でこれらの笛を併用した場合、技術上の混乱が生じることは容易に想像できた。口の形だけでなく運指法も異なっているから、もしかしたら「このタイプの笛にだけは深入りしないよう」、入り口で自分に「待った」をかけていたのかも知れない。

 

そんな僕がこのブルールを「やってみよう」と思い立ったのは、他の斜めタイプの笛が使われているどの国の音楽よりも、アルメニアの音楽が放っている「何か特別な香り」に心惹かれていたからだろう。僕は昔から、何か「お誘い」のようなものを感じて、楽器や音楽を始めるタイプだったから。

 

そしてまた、素晴らしい演奏家と友人になったことも大きかった。アルメニアの笛演奏家・作曲家レヴォン・テバニャンの演奏は僕にとってはかなりツボだった。僕が(ジャンルを問わず)自分以外の笛演奏家に明確なシンパシーのようなものを感じたのは、本当に珍しいことだった。在命の笛演奏家の中では、今のところ唯一かも知れない(彼は卓越したピアノ奏者でもあるが)。

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レヴォン・テバニャンと。彼の演奏は本当にいい。

彼の演奏はブルールはもちろん、シュヴィという笛も別格にいい。僕はこれまで、「吹いたら鳴るタイプの笛(リコーダーやオカリナやティン・ウィッスルなど)に、楽器として「強烈に心がくすぐられた」ことがなかったように思う。たとえばティン・ウィッスルなどは、一時期まるで本業の如く演奏してきたけれど、むしろそれはその笛が使われている音楽の方に引っ張られて演奏していたような気もする。少し前から取り組んでいるモルドヴァ・スタイルのカヴァルや、アルメニアのシュヴィは、「吹いたら鳴るタイプ」の吹き口の笛であるのも関わらず、楽器にもその奏法にも僕は強烈に心くすぐられていた。だからこの歳になって「やって・みよう」と思い立ったのかも知れない。

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帰国してすぐに製作してみたShvi(シュヴィ・D管)とTavShvi(タブシュヴィ・G管)。

ところでこの「やって・みよう」は、「その楽器を自分なりに舞台で使ってみよう」とか「その楽器を自分の曲や好きな曲で使ってみよう」という意味ではなくて、「伝承音楽の演奏家レベルになるまでとことんやってみよう」という意味。「自分なりに使ってみよう」というような感覚では、「出会っているようで、実は出会えていない」ような経験にしか成り得ないし、実際「使い切れてもいない」ような代物にしか成り得ないものだ。そしてそういう「自分なりに使ってみよう」は、「実は本気で出会う気がある訳ではない」という、潜在的意識の表れでもある。

 

僕はたぶん、楽器や音楽を通して、時空を離れた人間の内なる世界にタッチすることに一番の関心を抱いてきた。出会いに成り得ないような出会いは、あまりする気がないし、そのような出会いを出会いと呼んで「自分なりに楽器を使っている」人たちの音楽にも、(それが良いとか悪いとかではなくて)僕自身、あまり関心を抱けないでいる。僕はいろんな楽器をやっていても、基本的に伝承音楽をやれるまで取り組むし、その上でオリジナル作品を作ることもあるが、録音物には使わない楽器も多々あるし、自分の音楽に使うために何かの楽器を「やってみよう」とすることは僕の場合ない。

 

また、いろんな楽器を演奏しようとする(好奇心旺盛な)人間にとっては、ある意味戒めのようなものだけれど、「長年受け継がれてきた音楽をそのまま演奏できるレベルにならないと、結局だまくらかしの域は出ない」というのは、肝に銘じておきたいことでもある。実際この社会って、だまくらかしの方が分かりやすくって、仕事になりやすいから。落とし穴はいつだって、すぐ近くにある。

 

そんな訳で、新しいことを「やって・みる」には、いつも多大な時間とエネルギーが必要になる。それまでと異なる楽器に取り組むことは、その都度「音楽初心者」に一旦戻ることも意味するから、当然人前に立つことや舞台に立つことは後回しになっていく。しかしこれは、人生修養としては本当に意味がある。今回は、この歳になるまで「出会わないようにしていた」自分に突如出会ってしまったような、ある種の驚きの感覚があるので、本当にやればやるほど発見が多い。まぁでも、自分に関する謎が深まってしまったとも言えるけれど。

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アルメヌイさんの旦那さんタロンさんから、ドゥドゥクを頂いてしまった。

 夏の終わりにアルメニアを訪れた際、レヴォンを通じてブルールを手に入れ、帰国してからは少しづつ触ったりしていたが、どういう訳か昨年の秋冬は珍しく多忙な日々になったので、なかなかまとまった練習時間が取れないでいた。だから、年末の仕事納めをきっかけに一念発起して本格的な練習をスタートしたんだけど、それでも年始以降、なかなかまとまった時間をとれなくなっている。もっとやりたいのに、という欲求だけが先を走ってしまって、そんな風に感じてしまうのだろうけど。

 

さて…僕が最近、楽器として特に取り組んでいるのはアルメニアの笛とルーマニアの笛だけど、自分はつくづく雲水に憧れていた小学生位の頃からマインド自体は変わっていないんだなぁと感じている。どこか遠くの国の旋律に出会っては、それらを一生懸命なぞってみるのも、どこかの国の経典や口承神話や口承詩、呪文なんかをなぞって暗唱している感覚に近い。

 

それは、本当なら直接出会えないはずであろう人々の人生や日々の探求の足跡に、時空を超えてタッチしようとしている感覚で、様々な人間が築いてきた世界観や思想なんかを身体的に読み取ったり、自分の身体に映し出したりしながら行う、時空巡礼のようなものだ。何かを「やって・みている」期間、僕はそういった極めて個人的な欲求を満たすことに、時間とエネルギーを優先したくなっている。ある意味、危うい(社会生活的には)。

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ルーマニアのオルテニア・スタイルの旋律バージョンを教えてもらう。

音楽を「やって・みる」上で、人前(舞台)に立つことや人に何らかを発信することや何らかを伝えること、人から何らかを得たり人と何らかを共有することは、本当につくづく副次的なもので、本来二の次のことなのだろうな、と改めて実感する。もちろんそれらに意味がない訳でもないし、むしろ大きな意味があることは承知の上だけど…それでも、それらは小さい。その小ささを胸に音楽をやっていこうとしないと、実際音楽をやっていても、本質的には「やれてはいない」状態に在るのではないかと思う。

 

かつて「芸術は時代と共にある」と言った人や、「芸術には国境はないが国籍がある」といった人、「人前に出してこそ、芸術は芸術になる」とか「芸術は社会の中で高められていく」というようなことを言った人がいたけれど、その人たちは近代以降の発想や価値観、現代的思考に絡めとられてはいないだろうか…他の現代社会人と同じく(ゆえに、それらの言葉に同意する人々はこの社会に多いとは思うけれど)。 

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Shoghaken Ensembleのレヴォン&ヴァルダンと、真夜中のエレバンでお茶会。
芸術にしてもアートにしても、今は言葉として気軽に便利に使われている時代だから、本当は他の表現を使いたいなと思っている。でもあえて使うなら、芸術って「時間や空間をこえることができるもの」のことだし、芸術って「現在・現代という幻想から、飛翔しようとしているもの」のことだ。
 
時々、そういうことを思い出させてくれる音楽や楽器に出会ったりする。
素敵な人々と共に。
 

 

 

 

平成最後の、冬至祭(12/22)

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今年の冬至祭の精霊たち

 

 毎年、僕の住む地域在住の友人隣人たちだけで、密やかに行っている冬至祭。今回の冬至(12/22)が、平成最後の冬至祭となった。

 

冬が多少なりとも厳しいところに暮らしていると、年の瀬が近づくにつれ、日暮れが早くなり、夜の闇が長くなってゆくことに、はっきりとした実感がある。それがこの冬至の日を境に反転し、陽は次第に力を取り戻し、昼間が長くなってゆく訳だが…こういう環境に暮らしている恩恵の一つとも言えるだろう、この冬至の日を過ぎると「春が確実に近づいて来ている」ということに、リアルなワクワク感を覚える。

 

冬至祭では、思い思いの精霊に扮したメンバーが、希望する友人隣人宅をまわってゆく。この京北冬至祭は、各家庭を聖地化するお祭りでもあるからだ。

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こんな風に、精霊たちが(竹の音具を鳴らしながら)お家に入ってくる

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コワいのか、カワイイのか、わからない精霊たち

 

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森の精霊は、木や草で覆われている

 冬至の到来を知らせる音具を鳴らしながら家に入り、鹿の骨笛を吹いて日頃恩恵を受けている自然環境に皆で感謝を捧げた後、旧年の出来事とこれから迎える新しい年への想いを書いてもらった紙を家人に読み上げてもらい、その家の人々のために皆で「祈り」ながら、その紙を燃やしてしまう。紙が灰になったところで、精霊メンバーによって冬至笛が一斉に鳴らされ、家がその音で満ちたら、精霊と家人は太陽を象った祭壇の周りに集まり、そこで輪踊りが始まる。

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太陽を象った円い板の周りに、精霊たちが集まる

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家人の旧年を振り返り、願いを書いた紙を燃やす

心配されていた雨も昼から上がり、山國には爽やかな空気が漂っていた。毎年のことだけれど、同じ地域の友人たちとの有り難きつながり、豊かな時間…今年も楽しかった&美味しかった。一緒にこの特別な日を過ごしてくれた人々に、感謝!

 

  *********毎年、投稿している説明から(一部改訂)*********

 

冬至祭は春を「招く」祭で、新しい太陽の誕生日でもあります。そして古来より、「見えている世界」と「見えない世界」をつなぐ祭り…それらの「かかわり」を、毎年改めて「つくる」ための祭でもありました。

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冬至笛の音が家中に満ちると、輪踊りが始まる

見えない世界というのは何も、形而上的なものだけを指している訳じゃありません。「旧暦の霜月という呼び名は、霜突きという儀式から来た」というのは民俗学者折口信夫説ですが、各地に残るシモツキ祭に見られる地面を突く動作は、霜に覆われた大地を突いて、新たに誕生する太陽の光を地に招き入れ、大地に春を呼ぶための儀礼とも考えられてきました。これが行われる日というのが、太陽の力が最も衰え、夜が最長になる霜月の果ての日、「冬至」の日。

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輪の中心…太陽の祭壇では、鳥獣霊が杖を突きながら舞う

凍てつく土の下の見えない世界で「殖(ふ)ゆ」るものたちの存在を感じ、そこに通り道を開き、天からのエネルギーをつなぐ。つまり、世界と世界の「境界」に住まう人間が媒介者となって、「天・地の間のエネルギーの流れに、自らも関わろうとする祭」でもあるんですね。「霜月(旧暦11月に霜がおりる)」の果て…「しき・はて」る時期の事を、この国では「しはす」と呼んできた、という説もあります。

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他の精霊たちは、冬至笛を奏でながら、周囲を回る

さて今の社会は、「欲求や願い」と「祈り」とを、ゴチャ混ぜにしてしまった社会で、ある意味それによって「祈りの本質を見失なっている社会」とも言えます。

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冬至笛(上)と、鹿の骨笛(下)。冬至笛は片手で吹ける。

また、スピリチュアルという言葉が流行ってからというもの、形而上的なものごとに関心を持つ人が増えた一方で、安易に「それっぽい気分」に浸ってしまう風潮も広まってしまいました。パワーを頂くとか、運気を引き寄せるとか…安直な「頂戴病」ばかりが助長されてしまいがちです(現代社会を生きる人々は享受主義に陥っているので、頂戴病は助長されやすく、とりあえず今欲しいものが享受させられていたら、多くの事に疑問が湧かない状態になりやすいです)。

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精霊が家にやって来る際に鳴らされる、冬至来訪を告げる音具

加えて、本来は全ての人の内に在ったはずの「祈りの文化・祈りの力」は、ある時代以降「特別な者であるかのように振舞う」一部の人に委ねられるようになってしまい、それが結果的に、人々を「トクベツなヒトと、フツーのヒトタチ」に分けてしまいました。そして更にそのことが、多くの人々が生来兼ね備えていた創造性を奪い、一方で社会の階層化を助長し、権威主義的発想を根深く植え付けてきてしまいました。特別な者のように振舞う人間を、無疑問に崇めてしまったり、そこから何かを頂戴しよう、という精神に陥りやすいのです。

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紙を燃やす際に精霊たちによって鳴らされる、冬至

そして更に現代では、社会はすっかり商業中心に傾いており、祈りもショーの一つのようになっています。鍛錬・修練なくとも「~ぽく見せれる」演技者・模倣者による現代版祈りとも言えるものが、精神的探究や儀礼等に免疫のなかった世代の人々にとっての、目新しい演目に成りえる訳です。 

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儀礼後に太陽の祭壇に集まり、みんなでミカンを食べる

でも本当は、一部の人ではなく、一人ひとりがつながる力を持っているし、一人ひとりが祈りとは何かを考えたり、実際に祈ったりすることの方が重要ですね。 

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次々に出来てくる料理を、子供たちがつまむ

また今の社会は、フェスやイベントを「祭」と混同しており、「多くの人間が外からやってきて金銭をもたらし、内外の、より多くの人々の話題に上る」ことを「成功」と見なしています。そのため、集客や経済効果を目指すことに発想・思考が偏ってしまい、気が付かないうちに、全てを商品のように変容させてしまう発想に、多くの人が陥っています。だからこそ、この国の文化は今、「本質的な力を失いつつある」のではないでしょうか。

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基本的に一品以上持ち寄りで、皆がそれぞれ何かを作ってくる

祭には元来、デートのような側面もありました。デートは人に見せるためのものでもないし、本来は部外者に絡んできて欲しいものでもないですね。参加者が増えた方がいい、なんてこともないし、むしろ出来れば二人っきりの方がいいでしょう。
言わば、環境や暮らしを共にする人々同士のデート、地域住民という名の大家族のクローズド・パーティー…古来からの祭りの多くが、基本的に「部外者立ち入り禁止」になっているのには、宗教的な理由だけでなく、機能的な理由もあったんですね。

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沢山の料理を味見しながら、何度も乾杯し、あの話この話で夜が更けてゆく

そもそも、冠婚葬祭(結婚式やお葬式)に、不特定多数の観客や部外者を集めて、見世物にしたり、収益を上げようとしたり、それによって成功だとか失敗だとかという人はいませんから、言うまでもないことなのですが…。つまり、今のこの国の祭の大半は、祭と言えるものではなくなっているのかも知れません。

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一年の様々な出来事や想いが、共有されてゆくのが嬉しい

 「閉じたもの」「秘めたるもの」であるが故に、本質的な力を発揮するものって、あるんですね。そういう、古い暮らしの中にあった知恵の多くが、この拡大主義・自己拡張妄想が蔓延っている現代社会では、どこか見失われがちなのかも知れません。

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祭壇に子供たちが上がって、踊ってゆく

また、近くに住んでいても、それなりに親しくしていても、僕たちが互いに知らないこと・分かってはいないことは、とても多いですね。これもまた、互いにとっての「見えない世界」…祭とは、時と場を共有することにより、そんな互いの内に在る「見えない世界」同士がつながり、ある意味人々が大きな家族になるための装置でもありました。

音は、そんな様々な見えない世界から「訪れるもの(オト=オトズレ)」として、祭で鳴らされてきたんですね。芸術だとか自己表現だとかいう前に、そういうところから音楽文化を知っていくことも、大切な気がします。

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子供たちのカワイイ踊りに、鍋パーティーは最高潮!

京北冬至祭(&夏至祭)は、「音楽を家庭料理位の感覚で、全ての人がつくったり楽しんだり出来る社会を創造しよう」というテーマで始められた、京北村民歌舞プロジェクトの一環の行事。人類史をさかのぼって、文化の誕生を追体験しよう、という壮大な?大人の遊び(いわば体験型文化人類学)ですが、あくまでユル~く楽しくがモットー。

上記にあったような理由で、地域民しか参加できない祭になっており、儀礼や音楽や踊りは、なるだけ参加者みんなでやります。観客がいらない祭なんです。見られるためのものでも、見せるためのものでもないから…。

参加も自由で、あまり広く告知もしていません。こうして地域民のみで、つながってる人たちの間で、秘かに続けられているものに、年月をかけて、ゆっくりと宿ってくるものが見たいのです。

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皆さんの地域でも、友人たち家族と一緒に、冬至夏至の日に祭りをしてみませんか。

お話会(11/9&11/19)のこと、お料理のこと

振り返ってみると、僕にしては珍しくアチコチ動き回ったこの秋(本当はこの美しい季節、仕事に動き回るよりも、ゆっくり家にいて、近所を歩いたり、自然の移り変わりを眺めて過ごしていたい)。

 

考えてみたら、元々人に会うのも、いろんな所を訪ねるのも好きな方ではあるので、これからは機会が巡ってきたら・誰かからお呼びがかかったら(いや、呼ばれなくとも)、もう少し足取り軽く、アチコチに出かけていこうかな…と、しばし反省。

 

さて、この11月は演奏の仕事以外にも、お話会(講演や対談など)も二件ほどあった。僕にとっては、コンサートもお話会も、そんなに変わらない。コンサートでもよく喋る方だし、笛の教室でも大学の講義でも、ステージ感覚でやっているようなところがあるから。

音楽や笛に関する講演会は、昔(音楽活動を始めた当初)から、度々引き受けることがあったが、ここ数年は、文化全般に関することや、意識・思考に関しての講演も増えた。内容は多少、哲学的で社会学的な内容ではあるけれど、これもまた僕にとっては、音楽の話をするのも、哲学的なことや社会学的なことを話すのも、あまり変わらない。色んな人と出会って、そういった内容について話すのは楽しい。

 

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神楽坂の片隅に燦然と輝く、異界への入り口

神楽坂にあるメディカルレイキアカデミーの龍光路浩子さんは、代替治療の専門家で、様々な分野の研究者や医療関係者と共に科学的なデータやエビデンスを積み重ね、ユニークな方法で治療にあたっておられる。とてもフットワークが軽く研究熱心な方で、数年前にエハン塾文化編という対談シリーズが京都で企画された際、会場に来られてて、それ以来親しくなり、レイキを指導して頂いたり、医療現場での興味深い話を色々聞かせて頂いたりしつ、あれこれと機会を見つけてはお会いさせて頂いている。

今回、東京・六本木での南米音楽ライブ(11/10)に合わせて、その前日(11/9)に浩子さんの主宰されるメディカルレイキ・アカデミーで講演を開くことに。タイトルは「音楽と祈りに出会う旅~世界で交感するエネルギー」というタイトルだったけれど、予想通り話はあちこちに飛んで、祈りの話に行きつかないままに終了(笑)

この日参加された方々のアンコールや、参加できなかった方々からのリクエストもあって、来年3月22日(金)に第二弾を企画することになった。浩子さんの友人知人を含め、面白い方々が集まって来られるので、次回もとても楽しみにしている。

 

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門司港の片隅に燦然と輝く、異界への入り口

グリシェンカフェのグリシェンさん(日本人だけどこれはウイグル名)は、僕の古い友人で、中央アジアの趣味趣味な布&衣装つながりで知り合った(グリシェンさんは中央アジアの民族衣装収集家・研究者)。その頃は広島に住んでおられたんだけど、今は北九州の門司にある古民家で、これまた国内ではレアな…中央アジアカフェを開いておられる。店内を埋め尽くす布や衣装もさることながら、お料理やコーヒーもとても美味しい、皆さんにおススメしたい素敵なお店。

このグリシェンカフェで「哲学カフェ」と称して(11/19に)催したのが、「音楽と、見えない世界について」。これは同じくグリシェンカフェで、5月に行った「自分自身に着地する」というお話会の、アンコール第二弾企画だった。これまた話が多方面に飛び、予定していた時間を少し越えた辺りで終了(笑)…なので、年初めの九州行きに合わせて、これまた第三弾を1月27日(日)に行う予定。

グリシェンカフェは、日頃からユニークな人々が集まっている。今後思わぬ怪人物と遭遇できる異空間系出会いカフェとしてその名を轟かすことになるのではないだろうか。

 

この二つのお話会の会場外観、こうして並べてみると、どちらも極めてカラフル!浩子さんやグリシェンさんのキャラクターを表すようで、何とも愉快だ。

 

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演奏仕事の後…ホテル特別顧問シェフの指導を受ける

そんな講演仕事の間に、とある会で演奏の仕事があったんだけど…演奏後の会食の席で、ホテルの特別顧問であるシェフによる、特製シーフードピラフの実演というコーナーがあり、そのコーナーで主催の方々のお勧めもあってシェフの指導を受けれることに。演奏後で油断していたところ、エプロン付けて壇上に上がることになってしまった(笑)

 

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「やりますなぁ!」と褒められ、柄にもなく図に乗る男の図

特別顧問シェフはとても素敵な方で、シーフードピラフも少しひねりのきいた美味しい味だった。シェフは女子大での料理実習でも指導されていたそうだが、実習が終わった際に学生たちに配るというお手紙があって、これがまた素敵だった。

 

「皆さんに私からお願いしたことは、料理材料は大切に、切ることは切り揃えること。一つの仕事をしたら直ぐに周りを綺麗にする。俎板に向かう姿勢は左側に拳一ツ体を外して、右肩を開き方を楽にして、やや背筋を伸ばして、洋のナイフは半分より先で引く、押す、トントンと叩く様にして、周りから見られている意識で料理作りに励んでください。

コックコートは美しく、袖のところでキッチリと捲り上げて、エプロンもしっかり絞めて、前で結び素敵な姿でお願いします。

料理作りは同じ料理を何回も繰り返してご自分の体に覚えさす事です、その中からご自分の得意なレパトリーを増やす努力が必要です、皆さん方が将来何処かでお料理をする姿を私は想像しています。

お料理の得意な素敵なレディーに成長されます様に願って終わります。」

 

…う~ん、レディーか。授業の感じを見てみたい。

 

シェフは指導の際、食材に全部「さん」付けをしていた(ニンジンさん、マッシュルームさん、ショウガさん、海老さん、カニさん、といった具合に)。いいなぁ。

 

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門司港商店街の片隅にある、大衆向け平民食堂。意外にも民のデザインが気になる…

上の写真は、門司港商店街にある、謎の食堂。ここが賑わっていた時代に、中に入ってみたい。平民っていつ頃までこの辺りでは使われていたんだろうか。

 

久しぶりのケーナ&南米音楽(11/4、11/10)

このところ、ちょっとしたタイムトリップを味っていた。

 

ご存知の方も多いとは思うけれど、僕は12歳の頃に自分でケーナを作るようになってから、ずっとこの楽器や音楽に親しんできた。言わば、「自分の身体の一部」のようなものだ。しかし僕がそれらを舞台の上でメインに演奏することは少ない。過去15年くらいの知り合いや友人の中には、僕のケーナや南米音楽をちゃんとまともに聴いたことはない…という人も沢山いる。別に、それはそれでいいんだけれど(笑)

 

そんな僕が、「ケーナで」「南米音楽で」とお声をかけて頂いた舞台が、この11月前半に続いていた。

 

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この三人が揃うのも、10年ぶりくらい

 

一つは、普段クラシックを中心に演奏されている「Music circus」さんのコンサート。ギター&歌の千葉泉氏と、チャランゴ奏者&ダンサーの安達満里子さんのお二人と共に、ワールドミュージック・シリーズのゲスト出演という形で。千葉さんは、趣味趣味の南米音楽を演奏する企画などでご一緒してきたが、最初に出会ったのは大学生の頃。満里子さんは、今はもうお母さんになってるけど、最初に出会ったのは、彼女がまだ小学生の頃だった。この三人での、久しぶりの演奏も楽しかったけれど、南米音楽初体験というMusic Circusの皆さんとの共演も、楽しかった。何というか…久しぶりに、無邪気にステージを過ごした気がする。満員御礼の会場、この日のお客さんは、皆さんノリが良かった。

 

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満里子さんの踊りが入って、気分はかなり現地

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「衣装は一部、お揃いで赤の布を」と言われたので、このような感じに

 

もう一つは、南米音楽ではずっと長年活躍されてきた東京の寺澤むつみ氏に誘われての東京ライブ。東京で、ケーナそして南米音楽をメインとしてライブをやるのは、何と26年ぶりだった。内容は、中高生の時に一人で吹いてたけど人前では一度も演奏していない曲…なんかがズラッと並ぶ、自分にとっては懐かしいプログラム。寺澤さんはマヤをはじめ、幾つもの南米音楽グループで活動されてきた方で、90年代からお名前は聞いてたけど、お会いしたのは去年が初めて。「今まで、どこで、何やってたの??知らなかったよ!!」って言われた(笑)

 

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この日のメンバー…熊澤洋子・きしもとタロー・寺澤むつみ

そう…僕は南米音楽業界の人を、ほとんど知らないし、これまで会っても来ていない。一番こだわってきた音楽や楽器だけど。

 

二つとも、歌声喫茶で懐メロを歌っているような気持ちがするライブだった。

 

 

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映画「kapiw&apappo アイヌの姉妹」の佐藤監督と、久しぶりの再会

 

もう少し、人前で南米音楽もやっていこうかな…と、思ったし、東京方面にももう少し出向いてみようかな、と思った。僕にしては、大きな変化だ。

 

 

 

 

 

 

阿寒湖アイヌコタン(10/27)

5年前に初めて訪れた北海道は、あっという間に自分にとって特別な場所になってしまった。不思議な懐かしさまでを感じさせる、自然の様相や、空気。「身体に合う」という言葉が、何故かしっくりくる。この5年の間、時折想い出しては、無性にその感覚を「味わいたく」なっていた。

 

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遠くの方から雲が動き、光の描く風景が次々に変わる。たまらない…動けなくなる。

 

今回の北海道の旅は、高木正勝さんの舞台でご一緒した、阿寒湖シスターズ(kapiw&apappoこと絵美さん&フッキー)との再会、そして久しぶりの共演が目的の一つ。5年前に阿寒湖を訪れた際には、まさかこんな形で、もう一度阿寒湖に来るとは思っていなかった。二人の奏でる音楽は本当に素敵だ。

 

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阿寒湖アイヌコタン、オンネチセでの終演後写真

 

現地で合流した(同じく高木さんの仕事でご一緒した東京のパーカッショニスト佐藤直子さんは、実は北海道出身、しかしその前は関西は西宮在住だったという方で、なかなかご縁があったりする。僕と熊澤洋子さんと佐藤直子さんでユニットを編成したので、僕は弦楽器を中心に時折笛に持ち替えつつの舞台となった訳だが、結構多様な国にまたがる選曲内容になったことと、直子さんとは初めて合わせる曲も多かったことから、僕たちのステージは(演奏者本人たちにとって)スリルのある内容となった(笑)

 

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演奏中、ステージ上で孔雀チョウが舞い、時折体にとまったりしてた。不思議。

 

それにしても演奏会場となった、阿寒湖アイヌコタンの中心に位置する「オンネチセ」が、とても素晴らしい空間だった。会場ではちょうどコタンの様々な職人さんたちの作品を展示していたので、雰囲気は抜群、何か時空を超えたような空気が漂っていた。kapiw&apappoのapappoこと富貴子さんも言ってたけれど、イコロという大きなシアターが出来るまでは、ずっとこのオンネチセで伝統的な舞踊を毎晩やっていたとのこと。その長い年月の間の、芸能の熱気のようなものが、このオンネチセという会場にはあった。

 

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壁から飛び出したカムイたち。デカい…カッコいい…。

 

kapiw&apappoのお二人のステージは、以前目にした時よりもずっとグレードアップしていて、心に沁みるものがあった。お二人の歌で、音楽としてはほぼ完成してもいるので、そこに我々が音を重ねるというのにはある種の難しさもあったけれど、やはりシンプルで小細工のないものが美しい。僕は長く、世界各地の様々な地域のメロディーと関わってきたけれど、今回も改めてメロディーというものの本質について、気付くことや考えさせられることが多かった。それは、夏に訪れた、トランシルヴァニアバスクアルメニアグルジアで経験したことと、どこか深い所でつながっているのかも知れない。

 

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フッキーのお店ポロンノにて、阿寒湖シスターズのご両親と語り明かす

 

今回、初めて出会った人々と交わした話の数々も、忘れられないものとなった。特に、滞在中にアイヌコタンにあるフッキー(富貴子さん/apappo)のお店ポロンノで、阿寒湖シスターズのご両親から、様々なアイヌ文化についてお聞きすることが出来たのは、貴重な体験だった。

 

北海道在住の音楽家の方や、地元の子供たちと交わした会話も、なんだか忘れ難いものになっている。やっぱりこうして、どこかに出向いて、そこに暮らす人々と会うというのは素敵なことだなと改めて思った。

 

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湿原…コーヒーポット持って、一日座って眺めていたくなる。

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夕暮れの屈斜路湖と、ハクチョウたちと、おっちゃん。

 

妹が連れ添って、北海道までコンサートを聞きに来ていた闘病中の母と、コンサートが終わって次の日に合流し、阿寒湖周辺の各地を回ったことも、今回の旅を特別なものにしてくれた。それにしても、行きたいところや、やりたいことが、この旅で更に増えてしまった。まだ二回しか訪れていないんだから、当然なんだろうけど。

 

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吹き出す噴煙と、硫黄の香りに大興奮

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オホーツク海を臨む、柱状節理。たまらない…。

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この季節は、水面の落ち葉がとんでもなくイイ…。

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こんな感じで紹介されてたみたい

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釧路空港にこだまする、声なき叫び。

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ちょうどポロンノが出店してた催し。ネーミングがイイ感じ。

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地元高校生も、エゾジカ・ジビエのアピールに励んでいる

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何となく、いい感じ。

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この季節は、水面の落ち葉がとんでもなくイイ…。

今度は、いつ行けるかな。やっぱり山菜が取れる時期なんかが魅力的だ。あの素敵な森の中に分け入って行ってみたい。

京北の新しいフェスティバル「ツクル森(9/23,24)」

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二日間のツクル森を終えて…このフェスティバルを一緒につくったメンバーと


今年から始まった、僕が住む地域・京北の創造的イベント
「ツクル森」。二日間終了後のこの写真を見たら、このイベントが、何ヵ月もの準備の間に、僕たちの中で何を育んできたのか、そしてイベント当日に集まった人々との間で、どんな空気を生み出していたのか、そしてこのイベントが今後未来に向けてどんな可能性を秘めているのか…を、改めて感じさせてくれる


僕はタイプ的に(?)、昔から「一人で考え、一人で行動し始め、一人で行動し続ける」ということが多い人間だったけれど、このイベントには立ち上げの時点から、様々な人たちとのやり取りを通じて企画から関わらせてもらったおかげで、「お互いを知っていく過程と、共同で何かを創っていく過程」を、同時進行で体験することが出来た。自分以外の誰かと出会い、何かを一緒に創り上げてゆくということの面白さや価値を、改めて学ばせてもらったような気がする。普段の仕事とは、また異なる感覚で。

 

一日目は「アイリッシュ・セッション」と、バスクの楽器を模して京北の杉材で作った楽器・京北チャラパルタでの「楽器ワークショップ」、ハンガリーのチャンゴーのダンスとアルメニアのダンスをとり上げた「世界のダンス・ワークショップ」、自分のユニットでの「世界の音楽ライブ」に出演、二日目は京北在住のフェイランさんが作った、京北の森を題材にした絵本「家守の木」の、読み聞かせライブに出演。

 

フォークダンス」のワークショップでは、会場にやってきた様々な人々が参加し、音楽と踊りを楽しんでくれたおかげで、今後この地域で定期的に開催しようと計画していた「世界の踊りを楽しむ会」の、記念すべきスタートが切れたような気がする。

 

「絵本・家守の木」の読み聞かせライブでは、このお話のために作ったテーマ曲「家守の木」を、約1年ほどの間に地元の人たちが様々な催しで集まっては歌ってくれるようになったおかげで、この舞台では既に僕の手を離れて、「みんなの歌になった」と感じさせてもらった。

 

来年の「ツクル森」は、9月22日・23日。「世界の踊りを楽しむ会(京北タンツ・ハーズ)」や、「家守の木」のCD化をはじめ、来年のツクル森につながってゆく企画や催しが、幾つか計画されている。今から楽しみ。

 

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スロバキアのフヤラは、大人気

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この日の「家守の木」合唱団の皆さん

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色んな人が歌っているからこそ、醸し出される良さってあるなぁ…と改めて。

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フォークダンス・ワークショップでの舞台

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いろんな人たちが踊ってくれて、演奏している我々も楽しい

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夜の「世界の音楽ライブ」でも、再び踊りコーナーが…

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チャンゴーの人々や、アルメニアの人々は、これ見たら驚くだろうなぁ…