タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

3月7日、「踊って旅する世界の国々」スペシャル企画!

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3月7日(土)!いよいよ。

 

2019年春からの講習会で登場した、アルメニアアルバニアルーマニアハンガリーブルガリアギリシャ、トルコ…などの国々の「手をつないで、輪になって踊る」ダンスが、一挙に体験できるスペシャル企画。

 

しかも地元京北の野菜を使った超美味しい「にじいろごはん」プレート付きで、スイーツや飲み物も並ぶ予定。海外でのダンスパーティーのように、生演奏で踊って、時折食べたり飲んだりしながら、楽しく過ごす時間。15時から19時まで、ゆるゆるとやる予定♫

 

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全く初めての人でも大丈夫!どのダンスも、改めて習うことが出来て、この日バッチリ覚えて帰れるはず。にじいろごはんプレートや、飲み物の準備もあるので、「参加できそうな方は、ぜひ早めにご連絡を」!

 

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さて。僕は子供の頃から世界各地の音楽に興味をもって演奏してきたけれど、その大半は、一部の人たちではなく、誰もが歌えるように生み出された民謡で、誰もが踊れるように生み出された舞曲だった。

 

多くの人が身体を動かし、大きな波をその場に生み出すために生まれた音楽を、人々の身体の動きから「切り離し」て、その楽曲だけを人前で演奏する文化・風習に、僕は昔から、どこか近代的で都市的で、ある意味「何かを踏み外してしまった」生き方・ものの考え方を感じてきた。

 

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もちろん、ダンスのために生まれた音楽を、楽曲だけで演奏することにも、意味や面白さはある。人前で演奏すること・舞台という装置上で演奏することによって、その場にいる人間を無自覚に「やる側と受ける側に分けてしまうこと」にも、この社会における意味や面白さがあることも、重々分かってはいる。

 

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しかしなんて言うのかな…それって、音楽文化そのものが、どこか寂し気であるようにも思える。もしかしたら、僕たちは生命について、根本的に、どこか勘違いしている。芸能に関して、何かとんでもない思い違いをしている。

 

引っこ抜いた花を、もとの土の上に返してやろう。僕にとっては、そんな企画でもある。

 

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日時…3月7日(土) 15時~19時

場所…あうる京北(京都府ゼミナールハウス)ホール
   京都市右京区京北下中町鳥谷2
   075-854-0216
   ※JR京都駅から、JRバスで終点「周山」まで、周山からバスがあります(お申込み)
   ※車だと、JR京都駅から約80分、JR二条から約60分、

    京都縦貫道「園部」インターから約30分

参加費…1500円(にじいろごはんの、素敵な軽食付き)
 ※お食事の準備がございますので、ご参加の方は
  なるべく早くお知らせください

講師…村澤由香里
生演奏…きしもとタロー(笛など)
    熊澤洋子(バイオリン、歌)
    江口喜代志(太鼓)
    榊間淳一(ギター)  ほか

アルメニアアルバニアハンガリールーマニアブルガリアギリシャ…いろんな国の音楽が飛び出します!

2019年、冬至祭

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今年の冬至祭精霊たち。この格好で各家庭を回り、お祈りをしたり輪になって踊ったりしながら、それぞれの暮らしの場を聖地化してゆく。

 

冬至の日と、夏至の日は、仕事を入れない」と決めたこと…「その日は冬至(夏至)なので!」と言って、他の用事を入れない暮らしを始めたことで、気付かされたことや得られた安心感のようなものは、予想していた以上に大きかった。自分が何を優先していくのかを宣言することで、明確になることってあるんだなぁと改めて思う。

 

「生きて行かなくちゃいけないから」「仕事優先で」って言い回しは、自他ともに納得させることが出来る、世間的で便利な言い回しではあるけれど、それはある意味「稼ぎ優先・外でのつながり優先」ってことでもある。「平日・休日(曜日の別)」にしても、考えてみればこれらは「世の中そうだから」「みんなそうだから」というのと同じで、極めて受動的な感覚・生き方とも言える。自分の思考や行動が、何に縛られているのか、どこからがホントの意味で自由になり得ていないのか…これからの時代は、より敏感になった方がいいんじゃないかな、とも思う。

 

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こんな感じで、精霊隊が来訪…来年はさらに精霊が増える予感

 

さて、去る22日には恒例の冬至祭が行われた。もちろん平日休日に関係なく、冬至の日に行われる。毎年投稿しているように(冬至夏至の祭については昨年以前の投稿ご参照)、これは地域住民しか参加できない「閉じた祭」で、言うなれば地域住民だけのパーティー・地域住民同士だけのデートのようなものとも言える。パーティーやデートを、多くの人に見せようとか、多くの人に参加してもらおうとか、それによって収益を上げよう…なんて考える人はいないだろう。そんな風にしたら、それはもはやパーティーやデートじゃない。同じように、今この国で行われている祭は、祭のようであって実は祭ではない。集客を伸ばすことが、収益上げることが、地域や暮らしの「活性」化?…これは、人間の社会や文化について、あまりにも浅薄な発想だと思う。

 

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こんな感じで、精霊たちが家に入って来る。

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サイズを考えずに作ったりするので、入り口や家の中で装束が引っかかって、精霊が動けなくなることも…(笑)
 

「京北村民歌舞プロジェクト」という名前で立ち上げた、「一から地域音楽文化を創ってしまおう」計画は、いわゆる民族音楽と呼ばれるもの(民族という言葉で縦分けすること自体、実際に矛盾や限界を生じさせるので、僕は普段は地域的音楽と呼んでいる)に長年関わってきた僕のような人間にとっては、ある意味究極のプロジェクトだろうなと思う。

 

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太陽を象った座に集まると、鹿の骨笛が演奏される。日頃命を頂いている森羅万象への感謝と鎮魂の儀式。

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家人がこの一年の出来事と来年への想いを読み上げ、皆で共有する。書かれた紙は、太陽の板の上に置かれた壺で燃やされる。

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近くに住んでいても、互いに知らないことは多い。普段聞けないような想いも、この祈りの儀式で聞けるから、この時間は本当に大切。

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家の中で燃やされる火って、格別なパワーを放つ。

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回れなかった家の人の分も読み上げられる。燃やす間は、精霊によって小さな鈴が鳴らされている。


僕が暮らすような田舎には、土地に対してそれぞれの必然性を持ち得た人々が、それぞれの縁によって集まってきて、それぞれの形で根を下ろして暮らしている。そのようなプロジェクトをスタートさせるのには、ピッタリの場所だと思ったんだけど…やはり人々の中に刻み込まれた「現在の商業主義・音楽教育が落とす影」が色濃くて、本当の意味で原初的な音楽文化をより多くの人に体験してもらうには(楽器や音楽を原初的発想で一から生み出していくには)、ハードルが高いのだと気付かされた。楽器を作るにしても音楽を作るにしても、そのイメージ・鋳型は、教育と商業を通したものからしか出てこない。どうしても、自分が知ってる楽器に似せたイメージで楽器を作ろうとしたり、ドレミやコードをまずは出そうとしたり、よくある商業音楽のような旋律しか出てこなかったりしてしまうものだ。

 

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全てが燃えて灰になると、森の精霊の先導で冬至笛が鳴らされる。すると精霊たちが方々で冬至笛を鳴らし、空間を満たすまで続けられる。

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冬至笛は一つ穴の倍音笛。唸るような響きが空間を満たすと、輪踊りの旋律が始まる。

 

現在の音楽教育というのは、実は「思想教育」でもあるので、僕の考えるプロジェクトは「現在この社会に生きる人々の中に植え込まれた、近代的で全体主義的で絶対主義的で新自由主義的で経済至上主義的な思想」を、ひっくり返そうとしていることなのだと、改めて気付かされた。

 

ホントは、その辺をチャラララン♫と、軽やかにひるがえして行きたいんだけど。

 

そこで、やはり「身体的に体験する・そうして体験する時間を重ねてゆく」のがベストなのかも…と思い至り、地元の友人たちと、この「冬至祭・夏至祭」を始めた。祭の中には音楽や踊りの原初的体験が含まれているし、情報や知識がなくても、身体的体験というのは原初的な創造性を各自の中で自然に開いてゆく。また、今の日本は「願いと祈りを混同した社会」で、「祈り」を見失ってもいるから、そういう意味でも本当の意味での祭は必要なんじゃないかなと感じていた。

 

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輪踊りは、鳥獣精霊の杖による「霜突き」のリズムに合わせて、テンポを上げてゆく。

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隣の人の方に手を載せて輪になるのは、南米のとある祭を基にしている。ちなみにこれは、冬至祭最後の我が家での儀式。

 

背景としては、かなりディープなことを考えた上で企画しているんだけど、実際やる分には「大人が本気で遊ぶ」というのが正しい。しかもこういうのは、ゆる~くやるのがいい。パーティーやデートは、気張ると野暮だし、ワクワクやドキドキがあってはじめて素敵なパーティーやデートになる。

 

そして2019年冬至。僕はいつものことながら、友人たちの創造性に驚かされ、楽しませてもらってる。素敵な表現活動は、すぐ身近にある。それは、多くの人に発信しようとか、見せようとか、そこで認められようとか、個別の価値を上げていこうとか…そういう、しょうもないというか、こまいものじゃない。身近な人々で共有する芸術が、常に創られ続けることに、文化の本来の意味がある。

 

冬至祭の時空間を一緒に創り上げている、地域の友人たちに感謝。

 

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今年の僕の森の精霊装束。実は顔?くちばし?は赤い葉を敷き詰めて貼ってあり真っ赤。笛を吹いたり踊ったりするので、視界の確保が必要なんだけれど、ふと植物は我々のように眼球で世界を認識している訳ではないことを思い出し、視界を逆に狭い状態で作ってみた。それによって、何か新しい気付きが得れるのではないか、と思った訳なんだけれど…実際、そうだった。

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来訪時に鳴らされる、儀礼笛。

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同じく来訪時に鳴らされる杖型の音具。

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訪れた家で、儀式が終わったら、みんなでお茶タイムになることも。こういう席がまた楽しい。

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恒例の祭後パーティーの準備…一品持ち寄り制だけど、誰も店で買ったものを持ってこない…全て手作りのこだわり料理が並ぶところも、この地域の良いところ。

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冬至祭後のパーティー、まずはホット・ワインで乾杯。ここから徐々に料理が溢れてくる。大人も子供も大盛り上がり。



 

2019 ツクル森

地元・京北で2018年にスタートしたイベント「ツクル森」。

 

第二回目になる今年は、予定していた9月22・23日が台風で延期になり、紅葉深まる11月9・10日に開催された。晴天に恵まれたこの両日、山に囲まれた「あうるの原っぱ」と呼ばれる会場には沢山の方々が訪れてくれた。

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日本初か!?オープニングでのフヤラ(スロバキアの縦笛)合奏♫

 

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山に登ると、S字組まれたヤマケン木のテントが、シンボルのように輝く

 

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ルーマニア北部、マジャール系の人々…チャンゴーのダンス!

 

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ギリシャの踊り…かなり楽しい♫手のつなぎ方から

このイベント、企画から関わってきた僕本人が言うのもなんだけど、本当にいいイベントに育っていく予感がする。年齢層を限らず、誰もがアウェー感を覚えずに来れるイベントだし、ロケーションも素晴らしくて、誰もが安心して食べられるお店が並び、いろんな文化への出会いが盛り込まれたステージ演目があって、気軽に参加できるWSが沢山ある。やって来た人々が創造性を刺激され、自然の中で子供を野放しに出来て、そして家族そろって「しばらく居続けたくなるような時空間」が生まれつつある。 

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絵本「家守の木」のために作ったテーマ曲…今や、子供たちも歌えるように!

 

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京北の木の物語に、芝生の上で子供たちが聞き耳を立ててるだけで、感動…

 

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ピザ屋の小屋…もう、フツーのテントは、ここではなくなっていくかも

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藍染めブース…萱の飾りが素敵!

店を並べた単なるマーケットの延長線上のようなやり方では、消費活動的な在り方・思考から抜け出すことはできないし、ただ集客や売り上げに成功を求めるのも、何だか前時代的ではある。外から店やタレントを呼んで、それによって盛り上げようとするのも本当の意味で文化的とは思えないし、創造的でもない。「何かを、ある場所に持ってきて、それで成り立つ」ようなものではなく、その地に実際に足付けて暮らす人々が集って、空間の在り方そのものからクリエイトしていこうよ、という機運が高まっていて、それがオモシロイ。

 

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青空ヨガで伸びる人々

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子供たちも大喜びの、京北チャラパルタ・ワークショップ

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輪になって…「みんなで叩こう、太鼓ワークショップ」

 

人を集めようとするのではなく、感性豊かな人々が直観的に自然に集まってきて、そういう人たちがついつい居続けたくなる場、そして一緒に創造的なことを始められる場を、一からツクル…そういうイベントに実際なりつつある気がする。

 

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今、日本各地・世界各地でそういう原動力をもった企画や催しが数多く生まれつつある。生き方・考え方・行動の仕方の純度を上げて行けば、それぞれのものはやがて自然に出会い、つながっていく。つまり、近い未来につながるべきものは、互いが常に今この時、その時を迎えるために準備をしている…そんな気がするな。

 

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今年は地元中学生が参加!未来には、京北の子供たちが参加する楽団に

 

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移動動物園は、子供たちで大賑わい


 

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各種ワークショップでは、子供たちがキラキラしてものつくり

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ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」を、この後みんなで大合唱!

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絵本の読み聞かせブースは、いつも子供たちでいっぱい

 

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東欧音楽ユニット…森の中にいるみたい



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明るいエネルギーが溢れる、赤坂侑花さんの作品群

 

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外山亮介氏による、カメラの先祖…カメラ・オブスキュラは幻想的!



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安心して食べられる、オーガニックな店がズラリと並ぶ

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日が暮れると、あちこちで火がともる…

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夜のライブと、ファイヤーダンスの競演!

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幻想的な、森の中の上映会

 

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まさかの森の中のミラーボール!

 

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今年逃した方は、来年のツクル森(11/7,8)に是非!

2019年夏至祭

 

 6月21日金曜日、恒例の「夏至祭」が我が家で行われた。地域住民のみ参加できる、ホントの意味での祝祭。僕はこの祭のために毎年、冬至夏至の日は仕事や用事を一切入れないようにしている。

 
ブログやFBで毎年解説しているので、この祭についての説明はここではもう必要ないかも。興味がある方は、京北村民歌舞プロジェクトのことや冬至祭・夏至祭のことが、昨年の同じ頃の投稿に詳しく載っているので、そちらをどうぞ♪
 
 
 

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今年は強力な助っ人(タフィーさん)もやってきて、準備段階でレベルが上昇 ↑

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入り口の「天地の塔」、そして奥に見えるのは「しあわせの輪くぐり」の輪

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横の輪は手に持って回転させられる…てっぺんの球型リースは今年初登場

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朝に摘んだハーブや花が、風に揺れる

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明るいうちにここでウツシダマの儀が行われ、夜には輪くぐりの儀が行われる

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21日夕方前から地元の人々が集まり始め、最後の飾りつけをしてゆく

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これが、ウツシダマ。藁を丸く結い、花で飾る。

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定型の形がある訳ではなく、各自が自由に発想して作ってゆく

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結いながら、自分の中から手放したい思いや記憶を込めていく

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それらのエネルギーを、キュートな形に変換することが大事

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かつて日本には、ネガティブな想いを石などに込め、水の流れに放る風習があった

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そういうエネルギーを持ち続け、それにとらわれることを、避けるために

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このウツシダマは、そういう風習やアイディアを基にしている

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そういうエネルギーを、夏至のエネルギーで可愛らしいものにしてしまう

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一人一人が工夫して、かわいくしたその形を、お互いにみて

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それを、ひとりひとり、火の中に投じる

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子供たちも、凝りに凝って作ったウツシダマを、火に投じてゆく

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こうして、神聖だけどユル~い、ウツシダマの儀が終わると、いよいよ…

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ハーブで彩られた、食の儀が始まる

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みんなそれぞれ、ちゃんと手作りしてくるところが、素敵なところ

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僕はこの、食卓に沢山の手が伸びてる光景が、とても好きだ

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みんなでこうして、作って食べることは、最高のセレモニーだ

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食後のマッサージ大会、「入って」と言われたが、恥ずかしくて入れなかった(笑)

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食事の後、いよいよ「輪くぐりの儀」が始まる

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手拍子と笛に合わせて輪をくぐるこの儀式は、毎年あげる「結婚式」

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カップルで、夫婦で、友達同士で…誰とでも、一人でも、くぐれる

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夜が更けると、乾杯と共に「杖語りの儀」が始まる
 
…それにしても僕は本当に、ヒトに恵まれている。魅力的なヒトやその人生に沢山タッチしながら暮らしている。音楽を仕事にはしてきたけれど、音楽家として出会ったり関わったりする訳でなく、純粋にただのヒトの一人として誰かと出会い関わっている経験こそが、自分をずっと導いている気がする。
まぁ、それも僕にとっては音楽的体験と言えるんだけれど。
 
 
祭が終わったら再び、遠いところや遠い昔のあの旋律この旋律をたどりながら、会える訳ではない人間の心世界にタッチする楽しみが待っている。
 
音楽をやる人間にとって、舞台って本当に必要なのかな~。そもそも、コンサートやライブなんて言葉、ホントは使わなくてもいいんだろうな~。元々コンサートという概念が生まれる前の世界に興味を持ってたんだから、こんなこと考えてしまうのも仕方がないんだろうなぁ…。
 
あ、でもまた機会を見つけて、人前には出ていくつもりだけど。
 
 

大学での講義

一年ぶりで再開した大阪大学での講義。今まで7年間は「実践的文化交流論」という名前で、笛(ケーナ)を使いながら文化や意識について語る授業だったけれど、今年からは「共生の技法Ⅱ」という名前に変わった。この授業を引き受けたのは、今年が初めて。

 

共生…技法…。この名称で、しかも僕のような人間の「謎多きのシラバス(講義の内容やその目標を記載したもの)」を読んで、わざわざ僕の講義を受けに来る学生さんたちって、一体どんな人たちなんだろう。そもそもこの効率主義に偏った風潮の中で、こういう謎多き授業を受講する学生さんって、いるんだろうか?

 

…と油断していたら、思ったより多くの学生さんが受講希望して、笛が足りない事態に(笑)7年間も授業で使っていたので、中には破損して使えなくなったものもあるし。

 

でも今年からは、まず楽器を触ったり何かを実践してもらったりする前に、僕が様々な話や問いかけをする中で、みんなに考えてもらったり、話し合ったり、そして「お互いに思ったり考えたりしていたことを、共有してもらう」時間をとろうと思っていたから、それはそれでよかった。

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大学での授業が終わる時間は、いつも校内からの夕暮れが素敵

今年からの授業の、最大のテーマは「一つでも多く、思い込みを解除すること」。感じることや、知ること、考えることの、一番障壁になるのがこの「思い込み」だから。

 

思い込みと言っても、色々ある。個人の思い込み、家族内での思い込み、住んでいる近隣での思い込み、同世代間での思い込み、職業的な思い込み、社会に蔓延している思い込み、国家が流布している思い込み、今という時代だからこそ抱いてしまう思い込み、地球上にいることによって生じてしまう思い込み。 

 

たぶん10~20年くらい上乗せした年齢でないと、本当はピンと来ないであろう内容の話も(多少カジュアルな口調にはしているものの)聞き手の経験知は気にせずしているし、普段は定年後の方々にしか通じないような話も、肌が艶々した子供たちに対してどんどん浴びせかけている。

 

言葉(音・文字)について知らないからこそ思考が迷走しやすくなっているということも話すし、宗教や差別や、社会階層や支配構造のカラクリについても話すし、教育や歴史や習慣・慣習にも疑問や何故何故を投げかけつつ、何でやろね?と、どう思う?を連発する。

 

ところで僕は、誰が何と言おうと、今の若い人たちに日々、光を感じている。だから、授業で大学生の子たちと語るのは、とても楽しい。子供はそもそも、大人の放つ光を映し返してくるものだし、若い人たちのことを嘆いてしまう大人は、出来るだけ早く自分の人生を振り返った方がいいと思う。まだ遅くないと思うし…。

 

今の時代、世の中の危機的情報を得るのはたやすい。(そういった情報を得る以前の人たちは論外として)様々な危機的な情報を得て、人間社会や地球の未来に絶望的になるのは、実は「自称知的層」の人たち。論外の人たちがたくさん目に付くような人間関係しか周囲に持ち得ていなかったら、ついつい自分たちこそが知的なのだと勘違いしてしまうもの。しかし、そもそも、情報や知識を得ただけで、知的になったように思い込んでしまうことは、人間の思考癖における代表的な罠の一つだ。

 

嘆くのは「たやすく」、そして無自覚のうちに、自分が行動しきれていないこと・自分の思考や行動がズレていることの「言い訳」にもなってしまう。そして何より、絶望は耽溺傾向を持つ人々の甘い蜜でもある。被害者意識が、自分が正しいと思いたい人間にとって、甘い蜜であるのと同様に。

 

もちろん、夢想的に楽観を抱き「何かを待っているような思考」に陥ってしまうのも、開き直って暮らしを何も変えない生き方と同じく、いただけないとは思うけれど…。

 

ある意味、光を感じさせてくれるような人たちと、普段たくさん出会えているかどうかが、自分自身の日々の行動の、試金石になるんだろうと思う。そういう行動を自分なりに全うしていかないと、誰でも気が付かないうちに、受け身で創造的でない生き方になってしまうものじゃないかな。

 

さてさて…今年もそんな訳で、色んな質問が並んだアンケートを学生さんたちに配る。学生さんたちの文章は、最初はちょっと固いけれど、次第に素直な自分の言葉になってゆく。それらはどこか、詩的であったりする。
(下記はアンケート1~4の、質問項目の抜粋)

 

◆しあわせとは、何だと思いますか?
◆人間にとって、豊かさとは何だと思いますか?
◆あなた自身が考える、最高の自分の在り方は、どんな状態ですか?
◆今のあなたが、その状態でないとしたら、そうなることを阻んでいるのは何だと思われますか?
◆あなたは今、どんなことに不安を感じていますか?
◆あなたが考える、自分が最も恐れていることは、何ですか?
◆今の日本の社会について、あなたはどんなことを感じていますか?
◆人(他者)を攻撃したいという欲求や衝動は、何故私たち人間の内で生じるのでしょうか?
◆この世から戦争はなくなるでしょうか?そしてなくすには、どうすれば良いと思いますか?
◆人類は今よりも進化し得ると思いますか?もし進化し得るとしたら、どのように進化し得るでしょう?
◆あなたにとって魅力的な人間というのはどういう人でしょう?あなたはそうなれそうですか?
◆生まれる前と死んだ後には、普段どんなイメージを持っていますか?
◆あなたはどのように死を迎えたいですか?
貨幣経済がなかったら・稼ぐ必要がなかったら、あなたはどのようにして、日々を過ごしますか?
◆誰とも競争する必要もなく、認められる必要もなく、何かを勝ち得る必要もなかったなら、あなたはそのとき何に達成感を感じるようになると思いますか?
◆あなたは普段、自分が見ている側だと思い込んで様々な物体を見ていますが、実はあなたも常に、周囲のあらゆる物体から観察されています…そうだとしたら、あなたはそれら物体から、どのように見えていると思いますか?
◆普段あなたは、人に見せられる自分と見せられない自分、自分で好きになれる自分と好きになれない自分…という風に、自分自身を色んな自分に分けて暮らしていますが、それらが一つになっているのは、どんな時でしょうか?
◆人間が、音楽的感覚を失ったなら、人と人のコミュニケーションはどんなものになるでしょうか?何が音楽的感覚と言えるのかを考えて、こたえてください。
◆最近、自分の中で解除された思い込みを書いてください。それぞれの抱いている思い込みを解除し、お互いの視野を拡げることがこの授業のテーマでもあります。

 

…20歳前後の学生さんたちがどんなことを書いてくるのかは、ご想像に任せて…

それらは何だか、すごく、いい。

 

読み返すたびに、しみじみと
みんな、いい人生を送って欲しいなぁ、と思う。



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破竹。笹の合わせを見ていると和服の生まれた国なんだなぁとしみじみ。



カテリーナ公演、そして楽市楽座公演へ

この前、庭で羽化したヤツだろうか…草刈りをしていると、クロアゲハがやってきて、ひとしきり周りをヒラヒラ飛んでいる。天気がいいと、一日家にいる日でも(特に外回りで)やることは多いし、掃除したり料理したりしていると、いつの間にか夜になっている。考えてみれば子供の頃は、夕暮れの時間は大抵、外で迎えていたように思う。今の季節は16時半頃から光が柔らかくなって、それから夕暮れまでは屋内に入るのがもったいないくらいの、至福の時間となる。

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庭がフェンネルの森になってゆく…

さて、もう10日も前のことだけれど、大分・杵築の山香にあるカテリーナ古楽研究所の「カテリーナの森」で行われた「Sing Bird」。僕は一日目(11日)のコンサート「祈りの夜」に参加させてもらった。中世・ルネッサンスの音楽を中心とした選曲、その中に伊福部昭によるギリヤーク族の歌や、アルメニアの歌や舞曲も盛り込まれた、ユニークな内容。野外に建てられたステージが本当に素晴らしくて、森の中というロケーションも手伝い、夕暮れ時には他では味わえない幻想的なムード漂うコンサートとなった。

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夜になると、カテリーナの森は幻想的な会場に… photo by Takanori Suzuki

僕自身は、野外で急に冷えたこともあって途中指関節が硬直し、笛の指孔が閉じられなくなるというアクシデントもあったり(これまでの演奏活動の中で初めての経験だった)、演奏上幾つかの反省点はあったけれど、想い出深い曲もあったし、何よりこのメンバーで音を重ねられたことが楽しかった。こういう音楽を公博さんともやってみたかった、という想いはあるものの(このコンサートは松本公博氏の追悼企画でもあったので)、そこに公博さんが「おられないという感じがしない」、不思議な舞台でもあった。

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二日間のイベント終了後、ステージメンバーと…photo by TKC

次の日12日は出演がなかったので、一日ブラブラとこのSing Bird というイベントを楽しませてもらったんだけれど、Sing Birdはカテリーナの皆さんが日頃暮らしている場所、そして森の中を、端から端まで使うような大きなフェスで、自らも舞台に立つカテリーナの皆さんは、主催として本当に大変だっただろうと思う。今回16回目で一つの区切りとしてのファイナルを迎えた訳だけれど、この二日間を眺めて、これを毎年やってきたのかぁ~とつくづく感動した。

 

カテリーナの未來君や舞香さんのユニット、baobabのステージも、(考えてみれば)まともに観れたのは初めてだった。僕は人のステージを見に行くことが普段あまりないから、こういう機会は実に有り難い。色んな想いを辿ってゆくようなそのコンサートは、しみじみとしてて、本当に良かった。今回「受け継がれる」ということや「種をまく」ということについて、改めて考えさせられた。カテリーナのご家族皆さんは、公博さんが長年取り組んできたチャレンジや探求を引き継ぎながら、さらにまた新たな種を撒ける人たちなんだと感じた。 

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今回初めて共演したタブラの逆瀬川さん…30年近く前から存在を知ってたのに

僕も田舎で暮らしているから、毎日が自然との「せめぎあい」でもあるんだけれど…都市に暮らす人が音楽で描く「自然」には、ある種のファンタジーを感じることが多い。それを悪いとは言わないけれど、恋愛をしたことのない人が、幻想の恋人を歌っているような…そんな奇妙な感覚を覚えることが少なくない。自然は、人間がたまに眺めて味わうためにあるものでもないし、人間が都合よく一方的に味わうためのものでもない。ましてや人間を都合よく癒してくれるもののように捉えるのは、ある意味極めて人間的な一種の暴力ではないだろうか…とさえ感じてしまう。

 

バオバブの音楽には、そういうのがない。いや、そのナチュラルな響きの中に、自然環境を眺めている感もあるし、それらに触れてる感もあるし、それらに救われている感もあるんだけれど…ずっとそこにあるものって、そんなふうに表れるもんなんだな、と感じさせられる。それは普段から「まとっているもの」だから、音楽の中に自然に現れるものなんだろう。表そうとして、現れるもんじゃない。

 

美味しい野草茶をご馳走になったような気になった。

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終演後、スタッフさんたちと。みんないい顔。…photo by TKC

 

そして先週日曜日は神戸での仕事の後、久しぶりに野外劇団「楽市楽座」さんの公演を観に、長田神社に向かった。楽市楽座さんは「水上・廻り舞台」というユニークな仕掛けの「野外」劇団で、雨の日も客席は屋根がつくものの、演者はずぶ濡れのままでやる、という気合の入った劇団。そして観劇料は投げ銭のみ、というとてもユニークな劇団だ。これまでは長山現さん・佐野キリコさん夫妻とその娘さんの萌ちゃん三人だったけれど、この前萌ちゃんが結婚したので、今回からはパートナーの佑之助君加わっての、家族四人での劇団。 

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楽市楽座は、家族全員が楽器を演奏し、歌う

ところで、もう長い間「投げ銭コンサート」なるものが巷に溢れているけれど、その大半は、「嘘の投げ銭」。つまり、投げもしないのに、投げ銭と言っている。要は「チケットなしにすると、客集めが容易になる」という安直な思惑のもので、カフェにしてもホールにしても、「敷居を低くする・門戸を広げる・機会を増やす」と言えば聞こえはいいけれど…実質的には主催側の「リスク回避」でもあり、もっと言うとそれは、場を持つ者の「責任放棄」でもあったりする。

 

「やらせたるけど、金集まらなかったらそれはそれで、自己責任ね」という訳である。道理で、人を育てる場というのも、人を育てることの出来る人間というのも、世間では少なくなっている訳だ。一言で言うと、「損はしたくない連中の言い訳」として「投げ銭」式がある。「リスクあったら、お店も続かないしね~やる側も、気軽にやれていいでしょ~」という訳である。昨今は「場を持つ者の、気概がなくなった」のかも知れない。

 

もし「敷居を低くしたい・門戸を広げたい」ということなら、カンパなりドネーションなりお気持ち代なり、表現も方式も幾らでも工夫できる。要は「他でもやってるアレで、うちもやろうや」ってな感覚で、やってしまっているのである。最低保証を主催側がきちんと準備して企画する…くらいの覚悟や姿勢が持てないなら、そもそも客寄せの如くの企画を持ち出して、人を使って客層拡げよう・活性化しよう的な都合のいい行為は慎んでもらいたいものだ。僕は、そういった投げ銭企画を安易に持ち出してくる人とは、何もやらないことにしてきた。

 

ある意味「投げ銭」と言うのは、「屋内を路上化する」ようなもので、お店やホールにとってもデメリットもあるし、演者の方も一歩間違えれば「キャッチーなもの」「わかりやすいもの・パッと受けるもの」に走りやすくなり、一方で「わかりにくいもの」や「芸術的なもの」をするような人間はどんどん減ってしまう。そして、無料でもいい訳だから、それほど責任もない…とばかりに、浅い芸・内容で、気軽に人前に立とうとする人間も増えかねない。国をあげて文化度を下げたいなら、言い訳を言いつつ、そういった安直に走るもいいだろうけれど。

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見よ、この投げ銭!この日はキリコさんのロック魂が炸裂していた

その点、楽市楽座さんは、モロ野外!そして本当の投げ銭!ホントに投げる!

投げ銭チャーンス♪」タイムもあるし、「投げ銭のうた」もある!なんと清々しいことだろう…これをおいて、他で「投げ銭」の文言は一切使ってほしくない。

 

「うちは演劇だけど、ゲテモノだからね」…楽市楽座の源さんがニヤリと笑いながら言った。なるほど!この確信犯的発言は、これまた清々しい。下手物とは、上手物に対する言葉。大衆演劇が上手物を目指したら、それは「ブレ」でしかない。ロックが上手物を志向したら、それはもうロックではない。より多くの人にメッセージを発しようとするものが上手物を気取っているなら、それは偽善だ。

 

第一、楽市楽座さんの投げ銭タイムはかなり楽しい。金を投げるのって、こんなに楽しいものなのか。そして「さぁ今だ、銭投げろ!」ってなこと出来るミュージシャン、今いるだろうか。拝金主義に過度に頭やられちゃってるからこそ、実は内心お金を崇めちゃってるからこそ、お金を投げるなんて・お金を投げられるなんて、みたいなマインドになっちゃってるんじゃないだろうか。

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廻り舞台は結構まわる(笑)アイロンちゃんと蚊取り線香君もなかなかいい

まぁ、そういったことに大いに気付かせてくれる舞台芸能であり、そして様々な想いやメッセージを「キュートに」放り込んでくる辺りが、この楽市楽座さんの魅力なんだけれど…今回の演目「かもしれない物語」は源さんをはじめ、楽市楽座家族の「世界へのまなざし」が、より見える作品だった。あたたかい物語、そして身近なファンタジー、四匹のカエルたちが、生まれ変わって、また戻ってくる「かもしれない」この世界への愛を、うたう。

 

絶望するのも、嘆くのも、簡単なことだ。声高に何かを主張するのも、情報を横から横へ流すのも、簡単なこと。表現者のやることじゃない。

表現者が希望を描かなくなったら、世界は暗がりになる。
yagai-rakuichi.main.jp

タイムとミツバチと、それから春の日々

ミツバチの羽音やクマンバチの羽音が庭に響き渡るようになると、ようやく春を迎えたな~という実感が湧く。今年はタイムの範囲が更に拡がって、庭が一面ピンクに彩られているので、ミツバチたちの群が来るのを心待ちにしていた。何といっても、いろんな種類の鳥たちの歌に交じって羽音が響き渡るのは、たまらなく美しい。

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タイムは石の上なんかが大好きなので、庭よりも建物に押し寄せてくる(笑)

とは言え、まだ朝方は5度を下回ることあるので、朝夕は肌寒い。逆に日が高くなると汗ばむくらいの陽気になるものだから、草刈りはタンポポカモミールたちが完全に開花しきってハチたちがやってくる時間までにしている。

 

ところで我が家のタイムの蜜は、一体どこに集められているんだろう(笑)?空き家のままで、廃墟のようになってしまった我が家の巣箱ではないようだけれど。

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花に陽が当たり始めると、ミツバチがいっせいに飛んでくる

さて、この前久しぶりに意気揚々とキックボード(最近はキックスクーターって言うのかな)で近所に出かけたら、道の凸凹に前輪がハマって、盛大に路上でこけてしまった。近所にフクちゃんという、最近毛が抜けて衰えてしまったコーギー(犬)がいるんだけれど、そこのオジサンがちょうど帰宅したところで、フクちゃんとオジサンに挨拶しようとよそ見した瞬間の出来事だった。

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膝すりむいたの、何年ぶりだろう…筋力落ちてるのも実感…こりゃいかん!

慌てて手をつき起き上がると、Gパンの膝がド派手に破れている。つまり、子供のように膝をすりむいてしまった訳だけど、こういうケガをしたりすると何だか脳が活性化しているような感覚がする。頭の回転が突然速くなる瞬間があったり、風景が鮮やかに見える瞬間があったりする。不思議だけれど、ケガした時の人間の感覚って、そういうものかも知れないなぁ。大きいケガはもちろん、しないに越したことはないけれど、小さなケガもしないような暮らしをしていると、何か自分に備わっている能力を活かしきれていないような気持にもなる。

 

たとえば、我が家の庭にはトゲトゲの奴らがはびこったりするので、草刈りには注意が必要だし、少し放置したりすると奴らが方々に伸び散らかして、なかなか厄介なことになる。草を刈る際に、気を付けてはいても、毎度少しはチクリと刺さることなんかもあるので、基本的に厚手の手袋は必須なんだけれど…こうして草刈りをしていると、手袋なんかがろくになかった昔の人は、イバラやトゲトゲたちにどう対処していたのかなぁ、と想いを巡らしてしまう。

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庭のど真ん中に陣取っているジューンベリー

でも、僕も庭に出てたまたま目について手袋を取りに行くのが面倒な時なんかは、そのまま素手で草刈りを始めてしまうこともある。そんな時は、トゲトゲが潜んでいることも見越してか、左手の使い方が自然に変わっていたりする。

 

草むらに手を差し入れる時、独特の柔らかい感覚になって手を入れる訳だけれど、トゲトゲをつかむ際も自然に柔らかく持つようになる。もちろん出来るだけトゲの個所を避けて持とうとはするんだけど、触れた瞬間に「刺さらない」手になれるというか…フワリとした手で草に触れることで、センサー能力が高まっているから、棘の上から持ったり掴んだりしても、刺さらなかったりする。

 

こういう時はまるで、自分の肌が別の状態に変化しているような感覚にもなっている。このような感覚を、日常のすべての事象に応用できないかな、と常々考えたりしている。何かとても重要な「技術」が、この感覚には隠されているんじゃないだろうか。

 

さて、今週末には数日間大分に赴く。大分の山香にあるカテリーナ古楽研究所のイベント、「Sing Bird」に出演するためだ。カテリーナ古楽研究所の創設者・松本公博さんが急逝されたのは、昨年の秋…僕がトランシルヴァニアバスクアルメニアジョージアを巡っての旅から、帰国して直後のことだった。

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5月11日の、祈りの夜に出演…アルメニアの曲も2曲入っている

公博さんと出会ったのは10年ちょい前のことだけれど、自給自足生活をしながら古楽器を製作し、社会に蔓延する思い込みや近代的思考と闘ってきた公博さんとは、最初にお会いした時から他人とは思えない程、共鳴するものがあった。自分以外の人で、そして自分よりも先に、同じようなことをたくさん考えて、同じようなことをたくさん試して、自分よりもずっと力強く生きてこられた人…そういう人に出会えて、純粋な感動を覚えた。

 

僕の中では、公博さんとしか共有できないような話(他の人と話しても心底では共有できないような話)が幾つもあった。なので、2018年の旅で目にした音楽や楽器やそれらの文化について、話したいことや見せたいことがいっぱいあったんだけれど…それは叶わなかった。しかし(ちょうど神道で四十九日にあたる五十日祭の前夜に)山香を訪れ、その際にご遺影の前でカテリーナのご家族皆さんと旅の話や音楽の話を長々としたから、きっと公博さんとも共有できたんじゃないかな、とは思っている。

 

カテリーナの皆さんとは以前、古楽研究所や竹田・長湯でのコンサートを企画して頂いた際などにご一緒させて頂いたことはあるが、このSing Birdとは縁がなくて、僕は出演したことはなかった。今回16回目の開催、そして今回がファイナルとなるこのイベント…公博さんがいないこのタイミングでようやく出演することになったのも、何だか不思議な気持ちがする。

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左から、Shvi、TabShvi、Blul...Blulはアプリコット木だから、果実の香りがする

今回演奏内容の大半が、中世の音楽。僕は昔から中世やルネッサンス時代の音楽には親しみがあるが、この舞台には全曲、練習し始めたばかりのアルメニアの笛で、しかもカテリーナの未來君(公博さんの息子の)に譲ってもらった古竹で製作した笛で、のぞむことに決めた。南米の笛やケルト系の笛のような、自分にとって慣れた楽器ではないし、自分が想うようなイメージの演奏に成り得るかは分からないけれど、遊びやチャレンジでのぞむ方が、公博さん追悼のステージにはふさわしい気がしたから。

 

カテリーナさんに、特に公博さんに所縁のある演奏家が集まっての大合奏。どんなサウンドになるのか、今から楽しみ。https://www.singbirdconcert.com/day1

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我が家の芋虫たちが次々アゲハに…これからはアゲハたちが乱舞する季節

それにしても、美しい季節。陽のある時間全てを、外で過ごしたいくらい。本格的な夏が来るまでは、できるだけ外にいようと思う。

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天気が良ければ、外でご飯も仕事も…裸足でいられるようにしてある

 

3月から4月にかけてのご報告

このところ、FBでは近況をアップしていたものの、ブログの方にはアップできていなかった…ので、まずは早足で3月~4月のご報告。

 

3月10日に開催された「大地のめぐみを、味わう旅」は、昨年夏のルーマニアトランシルヴァニアへの旅をセッティングしてくれたダニエル氏とのコラボレーション企画だった。

この企画は、ルーマニアのワイン文化(それをとりまく歴史や文化、自然環境や農業、人々の暮らし)を紹介し6種類のワインを味わって頂くのと同時に、ルーマニアの音楽も楽しんで頂こうという贅沢な催しだった。

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旅の最後に訪れたサハテニ・ワイナリーの人々と

このブログでも詳しく報告するつもりではいるけれど…昨年のトランシルバニアの旅は驚きと発見に満ちた旅だった。伝統的に農薬を嫌ってきたこの地域の人々は、食文化に対して意識が高く、長い年月にわたって自然環境を守ってきたことが伺えた。地平線の向こうまで広がる畑には宝石のような何種類もの葡萄が実り、プルーンやリンゴの木々からは果実の豊かな香りが漂っていた。愛情を受けて育った馬や羊たち、職人気質でチャーミングな農園の人々、誇り高き羊飼いたち、アカシヤの木々とその傍らに並ぶ養蜂家たちの蜂蜜ワゴンの群…国家の恩恵を受けずに自給自足の暮らしを続けてきた奥地の村の暮らしや、バイオリンの材となる木が今なお生い茂る森など、多くの人に知って欲しいことが、僕の中には溜まっていた。

 

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終演後、ダニエル氏と

そんな諸々のことを少しでも多くの人にシェアできればと企画したこの催し…ダニエル氏の話はとても興味深いものだったし、試飲コーナーでふるまわれた6種類のワインはどれも風土や歴史を感じさせる素晴らしいものだったので、満席になった会場の皆さんには本当に楽しんで頂けたように思う。もちろんルーマニア音楽ライブも大変盛り上がった。音楽は、人間だけから生み出されている訳ではなく、また人間の中だけで育まれてきた訳ではないことが改めて分かった。

 

また、会場となった大阪・本町の周(あまね)は、僕が音楽活動を始めた頃から一緒に仕事をさせて頂いてきた音楽事務所の方がオープンしたお店でもあったので、この日は色んな意味で特別な日になった。今年は7月の終わりに、再び東京でこの催しが実現することになりそう。関東にお住まいの方がおられたら、是非お越し頂きたい…。

 

 
続いて3月18日は、地元の保育園の卒園企画でのコンサート。うちに向かいにある保育園なので、子供たちも顔見知りが多く、家族ぐるみで親しくさせて頂いているご家庭も少なくない。この保育園でも何度か演奏させて頂いているが、こうして地元の人々や子供たちの前で演奏させて頂く機会は本当に宝物だと思っている。
 
 
3月22日には、東京神楽坂にあるメディカルレイキ・アカデミーでの講演。昨年11月にさせて頂いた講演会では話が「ノッてしまい」、なんと話題がテーマに行き着くまでに公演が終わってしまったので、今回は出来るだけテーマに即して話すことに…。
 
前回と同じく、演奏を交えながらの講演なんだけれど、話の内容に興味を持って集まって下さる方が多いし、こちらもそういう方々に話したいことはいっぱいあるので、いつも時間切れになってしまう感はある。この辺りはもう少し、こういう機会に関して「こなれたい」なぁと感じている。もちろん、僕の性格上そうなってしまうことは不可避なのかもしれないが。
 

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この日は会場を真っ暗闇にしてフヤラを聴いて頂いた

 23日は四ツ谷メビウスで、昨年11月以来の南米音楽コンサート。今回は、新たに出会えた人や、ようやく出会えた人、そして久しぶりに会えた人も多く、個人的にとても嬉しい日になった。これまで南米音楽を通じて人と出会っていくということが(こういう楽器をやっている人間としては極端に)少なかったので、こうして南米音楽をメインにしたコンサートをして、愛好者や愛聴者、演奏家の方々と知り合っていくというのは本当に新鮮な感覚がする。

 

ギターラの寺澤氏とは二度目のステージなので、つかめてきたことが多い。これからもっと楽しくなるだろう。寺澤氏は爪ではなく、指で弾くスタイルなので、ギター奏者の中でも、音色に特に個性が光るタイプ。だからこちらも知らず知らずのうちに、普段と違う吹き方をしている。

 

このところ、新しい笛にチャレンジする時間を多めにとっていたので、ケーナを演奏する時間は少なかったけれど、やはり自分にとっては古巣的音楽。鳴らした瞬間に、スイッチは入る。僕を音楽の世界に引き込んでくれたのは、南米の音楽文化だったのだなぁとつくづく実感した。

 

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東京四ツ谷メビウスにて、ケーナのライブ

 終演後、あれこれを撤収していたら、熱心に聞いてくれていたバーテンダーの女の子が「あのう…アルバム買わせて頂いてもいいでしょうか?」と声をかけて来てくれた。何だか嬉しくて「何か音楽やってるんですか?」と尋ねると、遠慮がちに「はい…あ、ロックっす」と言っていたのが可愛かった(笑)

 

本が付いた「空のささやき、鳥のうた」を買ってくれたんだけど、その中に収録された「霜が降りた道」をこの夜演奏したから、それを気に入ってくれてのことだった。およそロックとは逆方向の音楽かも知れないけれど…こういうのが一番、嬉しいのかも知れない。

 

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頂いた古竹で作ったアルメニアのシュヴィなど…

4月の頭には、ちょっとした仕事で太秦の撮影所に。ウードの常味裕司氏やダンサーの素蘭さん、ダラブッカの永田充君と久しぶりにご一緒したんだけど、やはりこういうサウンドは好きだなぁと思った。バイオリンの土屋玲子さんのユニットでの演奏…どういう仕事だったのかはまだ公表できないけれど、そのうちに。

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舞踏家で映画監督の岩名氏と

さて同じ4月の頭には、フランス・ノルマンディー在住舞踏家・映画監督の岩名雅記氏の大阪での新作上映の最終日に駆けつけた。

 

FB上で誰かとのやり取りの中で、とても共鳴する文章を書いている人が岩名さんだった。面白そうとやり取りしているうちに、つながった。メールでのやり取りはしていたが、直接お会いしたのは今回が始めてだった。

実際お会いすると、岩名氏は僕の好きな発酵系の人間…とりわけ燻製チーズのような、香り立つ方だった。今の世の中は何でも「溜め込むこと」が良くない事のように言うが、僕はアレコレ「溜め込める人」が好きだ。中でも、人知れず発酵を続け、たまり醤油の如く熟成し青カビチーズの如く異臭を放っている人は「堪らない」。奥底に、他人が知り得ない時の集積・念の集積があるからだ。
それにしても岩名さんは、何に「あぶられて」来たのか。長い時間、人知れず何かに「あぶられ続けてきた」人でないと、このような香りは放てない。

上映が終わってからも喫茶店でご一緒させて頂き、色々な話を楽しんだ。映画のことやこの日の出来事は、そのうちブログに書けたらなとは思っている。

 

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ついにスタート、京北での「踊って旅する、世界の国々」ダンス講習会

そしてこの4月からついにスタートしたのが、「踊って旅する、世界の国々!」。僕が住む京都の北に位置する京北で、9月の秋分の日に開催される「ツクル森」というイベントと連動する形で定期的に開催されていくことになった、フォークダンス講習会だ。

 

日本人は日常的に踊らない。日常的に歌う人も少ない。音楽やその他の身体的表現を、一部の特殊な人々がやるものだと思い込んでいたり、習ったりしないとできないことだと思い込んでいたり、そういった表現を娯楽やサービス業のように捉えたりしている。

 

世界各地に「輪になって、手をつなぐ踊り」があり、日常的に地域の人々が集まって踊ったりする文化があるのに、日本には手をつなぐ踊りがほぼない。住んでいる地域の人々が一緒に踊るといった機会も、一年のうち盆など限られた日だけだ。これは10代の頃からずっと不思議だった。

 

何故そうなのか?は諸説あるが…それよりも、実際にこのような文化に親しみ、楽しんでみる方がいい。世界各地では、このような踊りの文化を通じて互いの関係を深めたり地域の結束力を高めてきた経緯がある。お互いに触れる機会が少なくなっているこの社会で、手をつなぎ輪になり、身体をシンクロさせ時間を共有する、この輪踊りという装置を加えたら、僕たちが住んでいる地域でどういうことが起こって来るのか。

 

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大人が作る輪に子供たちが飛び込み、周りを走り回って、踊りがひろがっていく

初回のこの日は、アルバニアの曲やルーマニアの曲、ルーマニア国内のハンガリー系チャンゴーの人々の音楽や、アルメニアの音楽をとりあげた。普段接することのないような地域の人々の感性や暮らしに触れてもらえる機会にもなればいいなと思う。

 

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ワーク・ショップ終了後…この後、ミニコンサートと交流会が行われた

この子供たちが大人になる頃に、人が集まったら、そして何かの式や催しがあったら、CDなどではなく生演奏で音楽が奏でられ、自然に踊りが始まり、誰もが躊躇なく踊りの輪に入り、時間を共有できるような地域社会になればいいなぁ。

 

次回は、7月6日、8月3日。関西圏におられる方は是非。



 

 

 



あたらしいこと

(まだアップできていない旅の報告の、番外編みたいな内容だけど…)

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Blul(ブルール)…因みに布はグルジア(ジョージア)で入手した古布。

年末年始に、アルメニア(ハヤスタン)のブルールという笛を練習し始めた。昨年の春にシュヴィという笛を作って以来アルメニアの音楽を少しづつやり始めてはいたものの、自分がこのブルールにチャレンジすることになるとは正直思ってもみなかった。

 

ブルールは、トルコやブルガリアマケドニアアルバニアなど…世界各地で演奏されている「斜めに構えて音を鳴らす」笛と同系列の、木の笛。僕はこういった斜めタイプの笛の音楽を「中学生の頃から好んで聴いていた」にも関わらず、そして人から譲ってもらったり自分で入手したりして、「(ブルール以外の)実物を持っていた」にも関わらず…どういう訳か、これまで本格的に「自分でやってみよう」と思い立つことがなかった。

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ブルールを手に入れてすぐ、基本的な奏法をレヴォンに見せてもらう

目の前には音源も実物もあるのに、音を鳴らすことはあっても、運指だとか曲だとか奏法だとか、そこから先に突っ込もうとしなかった。好きなことや興味を持ったことに関しては、すぐに調べたりやってみたりする僕なのに、これはとても不思議なことだ!

 

このタイプの笛の鳴らし方・奏法が、既に僕が演奏している他の笛と比べて、大きく異なっていることも理由の一つなのかも知れない。南米のケーナアイルランドの木製フルートなどは、(多少異なるものの)発音時の口の形がそれほど大きく異なる訳ではない。しかし斜めタイプの笛は、口の形状や筋肉の方向がそれらと全く異なっている。舞台の上でこれらの笛を併用した場合、技術上の混乱が生じることは容易に想像できた。口の形だけでなく運指法も異なっているから、もしかしたら「このタイプの笛にだけは深入りしないよう」、入り口で自分に「待った」をかけていたのかも知れない。

 

そんな僕がこのブルールを「やってみよう」と思い立ったのは、他の斜めタイプの笛が使われているどの国の音楽よりも、アルメニアの音楽が放っている「何か特別な香り」に心惹かれていたからだろう。僕は昔から、何か「お誘い」のようなものを感じて、楽器や音楽を始めるタイプだったから。

 

そしてまた、素晴らしい演奏家と友人になったことも大きかった。アルメニアの笛演奏家・作曲家レヴォン・テバニャンの演奏は僕にとってはかなりツボだった。僕が(ジャンルを問わず)自分以外の笛演奏家に明確なシンパシーのようなものを感じたのは、本当に珍しいことだった。在命の笛演奏家の中では、今のところ唯一かも知れない(彼は卓越したピアノ奏者でもあるが)。

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レヴォン・テバニャンと。彼の演奏は本当にいい。

彼の演奏はブルールはもちろん、シュヴィという笛も別格にいい。僕はこれまで、「吹いたら鳴るタイプの笛(リコーダーやオカリナやティン・ウィッスルなど)に、楽器として「強烈に心がくすぐられた」ことがなかったように思う。たとえばティン・ウィッスルなどは、一時期まるで本業の如く演奏してきたけれど、むしろそれはその笛が使われている音楽の方に引っ張られて演奏していたような気もする。少し前から取り組んでいるモルドヴァ・スタイルのカヴァルや、アルメニアのシュヴィは、「吹いたら鳴るタイプ」の吹き口の笛であるのも関わらず、楽器にもその奏法にも僕は強烈に心くすぐられていた。だからこの歳になって「やって・みよう」と思い立ったのかも知れない。

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帰国してすぐに製作してみたShvi(シュヴィ・D管)とTavShvi(タブシュヴィ・G管)。

ところでこの「やって・みよう」は、「その楽器を自分なりに舞台で使ってみよう」とか「その楽器を自分の曲や好きな曲で使ってみよう」という意味ではなくて、「伝承音楽の演奏家レベルになるまでとことんやってみよう」という意味。「自分なりに使ってみよう」というような感覚では、「出会っているようで、実は出会えていない」ような経験にしか成り得ないし、実際「使い切れてもいない」ような代物にしか成り得ないものだ。そしてそういう「自分なりに使ってみよう」は、「実は本気で出会う気がある訳ではない」という、潜在的意識の表れでもある。

 

僕はたぶん、楽器や音楽を通して、時空を離れた人間の内なる世界にタッチすることに一番の関心を抱いてきた。出会いに成り得ないような出会いは、あまりする気がないし、そのような出会いを出会いと呼んで「自分なりに楽器を使っている」人たちの音楽にも、(それが良いとか悪いとかではなくて)僕自身、あまり関心を抱けないでいる。僕はいろんな楽器をやっていても、基本的に伝承音楽をやれるまで取り組むし、その上でオリジナル作品を作ることもあるが、録音物には使わない楽器も多々あるし、自分の音楽に使うために何かの楽器を「やってみよう」とすることは僕の場合ない。

 

また、いろんな楽器を演奏しようとする(好奇心旺盛な)人間にとっては、ある意味戒めのようなものだけれど、「長年受け継がれてきた音楽をそのまま演奏できるレベルにならないと、結局だまくらかしの域は出ない」というのは、肝に銘じておきたいことでもある。実際この社会って、だまくらかしの方が分かりやすくって、仕事になりやすいから。落とし穴はいつだって、すぐ近くにある。

 

そんな訳で、新しいことを「やって・みる」には、いつも多大な時間とエネルギーが必要になる。それまでと異なる楽器に取り組むことは、その都度「音楽初心者」に一旦戻ることも意味するから、当然人前に立つことや舞台に立つことは後回しになっていく。しかしこれは、人生修養としては本当に意味がある。今回は、この歳になるまで「出会わないようにしていた」自分に突如出会ってしまったような、ある種の驚きの感覚があるので、本当にやればやるほど発見が多い。まぁでも、自分に関する謎が深まってしまったとも言えるけれど。

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アルメヌイさんの旦那さんタロンさんから、ドゥドゥクを頂いてしまった。

 夏の終わりにアルメニアを訪れた際、レヴォンを通じてブルールを手に入れ、帰国してからは少しづつ触ったりしていたが、どういう訳か昨年の秋冬は珍しく多忙な日々になったので、なかなかまとまった練習時間が取れないでいた。だから、年末の仕事納めをきっかけに一念発起して本格的な練習をスタートしたんだけど、それでも年始以降、なかなかまとまった時間をとれなくなっている。もっとやりたいのに、という欲求だけが先を走ってしまって、そんな風に感じてしまうのだろうけど。

 

さて…僕が最近、楽器として特に取り組んでいるのはアルメニアの笛とルーマニアの笛だけど、自分はつくづく雲水に憧れていた小学生位の頃からマインド自体は変わっていないんだなぁと感じている。どこか遠くの国の旋律に出会っては、それらを一生懸命なぞってみるのも、どこかの国の経典や口承神話や口承詩、呪文なんかをなぞって暗唱している感覚に近い。

 

それは、本当なら直接出会えないはずであろう人々の人生や日々の探求の足跡に、時空を超えてタッチしようとしている感覚で、様々な人間が築いてきた世界観や思想なんかを身体的に読み取ったり、自分の身体に映し出したりしながら行う、時空巡礼のようなものだ。何かを「やって・みている」期間、僕はそういった極めて個人的な欲求を満たすことに、時間とエネルギーを優先したくなっている。ある意味、危うい(社会生活的には)。

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ルーマニアのオルテニア・スタイルの旋律バージョンを教えてもらう。

音楽を「やって・みる」上で、人前(舞台)に立つことや人に何らかを発信することや何らかを伝えること、人から何らかを得たり人と何らかを共有することは、本当につくづく副次的なもので、本来二の次のことなのだろうな、と改めて実感する。もちろんそれらに意味がない訳でもないし、むしろ大きな意味があることは承知の上だけど…それでも、それらは小さい。その小ささを胸に音楽をやっていこうとしないと、実際音楽をやっていても、本質的には「やれてはいない」状態に在るのではないかと思う。

 

かつて「芸術は時代と共にある」と言った人や、「芸術には国境はないが国籍がある」といった人、「人前に出してこそ、芸術は芸術になる」とか「芸術は社会の中で高められていく」というようなことを言った人がいたけれど、その人たちは近代以降の発想や価値観、現代的思考に絡めとられてはいないだろうか…他の現代社会人と同じく(ゆえに、それらの言葉に同意する人々はこの社会に多いとは思うけれど)。 

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Shoghaken Ensembleのレヴォン&ヴァルダンと、真夜中のエレバンでお茶会。
芸術にしてもアートにしても、今は言葉として気軽に便利に使われている時代だから、本当は他の表現を使いたいなと思っている。でもあえて使うなら、芸術って「時間や空間をこえることができるもの」のことだし、芸術って「現在・現代という幻想から、飛翔しようとしているもの」のことだ。
 
時々、そういうことを思い出させてくれる音楽や楽器に出会ったりする。
素敵な人々と共に。
 

 

 

 

平成最後の、冬至祭(12/22)

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今年の冬至祭の精霊たち

 

 毎年、僕の住む地域在住の友人隣人たちだけで、密やかに行っている冬至祭。今回の冬至(12/22)が、平成最後の冬至祭となった。

 

冬が多少なりとも厳しいところに暮らしていると、年の瀬が近づくにつれ、日暮れが早くなり、夜の闇が長くなってゆくことに、はっきりとした実感がある。それがこの冬至の日を境に反転し、陽は次第に力を取り戻し、昼間が長くなってゆく訳だが…こういう環境に暮らしている恩恵の一つとも言えるだろう、この冬至の日を過ぎると「春が確実に近づいて来ている」ということに、リアルなワクワク感を覚える。

 

冬至祭では、思い思いの精霊に扮したメンバーが、希望する友人隣人宅をまわってゆく。この京北冬至祭は、各家庭を聖地化するお祭りでもあるからだ。

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こんな風に、精霊たちが(竹の音具を鳴らしながら)お家に入ってくる

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コワいのか、カワイイのか、わからない精霊たち

 

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森の精霊は、木や草で覆われている

 冬至の到来を知らせる音具を鳴らしながら家に入り、鹿の骨笛を吹いて日頃恩恵を受けている自然環境に皆で感謝を捧げた後、旧年の出来事とこれから迎える新しい年への想いを書いてもらった紙を家人に読み上げてもらい、その家の人々のために皆で「祈り」ながら、その紙を燃やしてしまう。紙が灰になったところで、精霊メンバーによって冬至笛が一斉に鳴らされ、家がその音で満ちたら、精霊と家人は太陽を象った祭壇の周りに集まり、そこで輪踊りが始まる。

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太陽を象った円い板の周りに、精霊たちが集まる

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家人の旧年を振り返り、願いを書いた紙を燃やす

心配されていた雨も昼から上がり、山國には爽やかな空気が漂っていた。毎年のことだけれど、同じ地域の友人たちとの有り難きつながり、豊かな時間…今年も楽しかった&美味しかった。一緒にこの特別な日を過ごしてくれた人々に、感謝!

 

  *********毎年、投稿している説明から(一部改訂)*********

 

冬至祭は春を「招く」祭で、新しい太陽の誕生日でもあります。そして古来より、「見えている世界」と「見えない世界」をつなぐ祭り…それらの「かかわり」を、毎年改めて「つくる」ための祭でもありました。

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冬至笛の音が家中に満ちると、輪踊りが始まる

見えない世界というのは何も、形而上的なものだけを指している訳じゃありません。「旧暦の霜月という呼び名は、霜突きという儀式から来た」というのは民俗学者折口信夫説ですが、各地に残るシモツキ祭に見られる地面を突く動作は、霜に覆われた大地を突いて、新たに誕生する太陽の光を地に招き入れ、大地に春を呼ぶための儀礼とも考えられてきました。これが行われる日というのが、太陽の力が最も衰え、夜が最長になる霜月の果ての日、「冬至」の日。

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輪の中心…太陽の祭壇では、鳥獣霊が杖を突きながら舞う

凍てつく土の下の見えない世界で「殖(ふ)ゆ」るものたちの存在を感じ、そこに通り道を開き、天からのエネルギーをつなぐ。つまり、世界と世界の「境界」に住まう人間が媒介者となって、「天・地の間のエネルギーの流れに、自らも関わろうとする祭」でもあるんですね。「霜月(旧暦11月に霜がおりる)」の果て…「しき・はて」る時期の事を、この国では「しはす」と呼んできた、という説もあります。

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他の精霊たちは、冬至笛を奏でながら、周囲を回る

さて今の社会は、「欲求や願い」と「祈り」とを、ゴチャ混ぜにしてしまった社会で、ある意味それによって「祈りの本質を見失なっている社会」とも言えます。

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冬至笛(上)と、鹿の骨笛(下)。冬至笛は片手で吹ける。

また、スピリチュアルという言葉が流行ってからというもの、形而上的なものごとに関心を持つ人が増えた一方で、安易に「それっぽい気分」に浸ってしまう風潮も広まってしまいました。パワーを頂くとか、運気を引き寄せるとか…安直な「頂戴病」ばかりが助長されてしまいがちです(現代社会を生きる人々は享受主義に陥っているので、頂戴病は助長されやすく、とりあえず今欲しいものが享受させられていたら、多くの事に疑問が湧かない状態になりやすいです)。

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精霊が家にやって来る際に鳴らされる、冬至来訪を告げる音具

加えて、本来は全ての人の内に在ったはずの「祈りの文化・祈りの力」は、ある時代以降「特別な者であるかのように振舞う」一部の人に委ねられるようになってしまい、それが結果的に、人々を「トクベツなヒトと、フツーのヒトタチ」に分けてしまいました。そして更にそのことが、多くの人々が生来兼ね備えていた創造性を奪い、一方で社会の階層化を助長し、権威主義的発想を根深く植え付けてきてしまいました。特別な者のように振舞う人間を、無疑問に崇めてしまったり、そこから何かを頂戴しよう、という精神に陥りやすいのです。

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紙を燃やす際に精霊たちによって鳴らされる、冬至

そして更に現代では、社会はすっかり商業中心に傾いており、祈りもショーの一つのようになっています。鍛錬・修練なくとも「~ぽく見せれる」演技者・模倣者による現代版祈りとも言えるものが、精神的探究や儀礼等に免疫のなかった世代の人々にとっての、目新しい演目に成りえる訳です。 

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儀礼後に太陽の祭壇に集まり、みんなでミカンを食べる

でも本当は、一部の人ではなく、一人ひとりがつながる力を持っているし、一人ひとりが祈りとは何かを考えたり、実際に祈ったりすることの方が重要ですね。 

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次々に出来てくる料理を、子供たちがつまむ

また今の社会は、フェスやイベントを「祭」と混同しており、「多くの人間が外からやってきて金銭をもたらし、内外の、より多くの人々の話題に上る」ことを「成功」と見なしています。そのため、集客や経済効果を目指すことに発想・思考が偏ってしまい、気が付かないうちに、全てを商品のように変容させてしまう発想に、多くの人が陥っています。だからこそ、この国の文化は今、「本質的な力を失いつつある」のではないでしょうか。

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基本的に一品以上持ち寄りで、皆がそれぞれ何かを作ってくる

祭には元来、デートのような側面もありました。デートは人に見せるためのものでもないし、本来は部外者に絡んできて欲しいものでもないですね。参加者が増えた方がいい、なんてこともないし、むしろ出来れば二人っきりの方がいいでしょう。
言わば、環境や暮らしを共にする人々同士のデート、地域住民という名の大家族のクローズド・パーティー…古来からの祭りの多くが、基本的に「部外者立ち入り禁止」になっているのには、宗教的な理由だけでなく、機能的な理由もあったんですね。

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沢山の料理を味見しながら、何度も乾杯し、あの話この話で夜が更けてゆく

そもそも、冠婚葬祭(結婚式やお葬式)に、不特定多数の観客や部外者を集めて、見世物にしたり、収益を上げようとしたり、それによって成功だとか失敗だとかという人はいませんから、言うまでもないことなのですが…。つまり、今のこの国の祭の大半は、祭と言えるものではなくなっているのかも知れません。

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一年の様々な出来事や想いが、共有されてゆくのが嬉しい

 「閉じたもの」「秘めたるもの」であるが故に、本質的な力を発揮するものって、あるんですね。そういう、古い暮らしの中にあった知恵の多くが、この拡大主義・自己拡張妄想が蔓延っている現代社会では、どこか見失われがちなのかも知れません。

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祭壇に子供たちが上がって、踊ってゆく

また、近くに住んでいても、それなりに親しくしていても、僕たちが互いに知らないこと・分かってはいないことは、とても多いですね。これもまた、互いにとっての「見えない世界」…祭とは、時と場を共有することにより、そんな互いの内に在る「見えない世界」同士がつながり、ある意味人々が大きな家族になるための装置でもありました。

音は、そんな様々な見えない世界から「訪れるもの(オト=オトズレ)」として、祭で鳴らされてきたんですね。芸術だとか自己表現だとかいう前に、そういうところから音楽文化を知っていくことも、大切な気がします。

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子供たちのカワイイ踊りに、鍋パーティーは最高潮!

京北冬至祭(&夏至祭)は、「音楽を家庭料理位の感覚で、全ての人がつくったり楽しんだり出来る社会を創造しよう」というテーマで始められた、京北村民歌舞プロジェクトの一環の行事。人類史をさかのぼって、文化の誕生を追体験しよう、という壮大な?大人の遊び(いわば体験型文化人類学)ですが、あくまでユル~く楽しくがモットー。

上記にあったような理由で、地域民しか参加できない祭になっており、儀礼や音楽や踊りは、なるだけ参加者みんなでやります。観客がいらない祭なんです。見られるためのものでも、見せるためのものでもないから…。

参加も自由で、あまり広く告知もしていません。こうして地域民のみで、つながってる人たちの間で、秘かに続けられているものに、年月をかけて、ゆっくりと宿ってくるものが見たいのです。

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皆さんの地域でも、友人たち家族と一緒に、冬至夏至の日に祭りをしてみませんか。