タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

アルツァフ(ナゴルノ・カラバフ)で起こっていること


2018年アルメニア カラフンジ、ゲガルト、サナイン

 2年前の2018年夏、僕は初めてアルメニアを訪れた。エレヴァンの空港から、宿のスタッフが運転する車に乗せられて向かった先は、旧ソ連時代に建てられた古い建物で、僕たちは真っ暗闇の裏通りで荷物を降ろし、壊れかけのようなエレベーターに揺られて階上の部屋に着いた。
「安心してね、エレヴァンは世界で一番平和で安心な街だから」と、案内してくれた彼はWi-Fiをつなぎながら微笑んだ。
僕は数日後、そのことに納得し、そして実感した。
僕はこれまで、世界各地のいろんな社会・文化に興味を持ってきたが、「まともな人々がたくさん住んでいる国・地域は、必ずと言っていいほど、小さい」印象がある。大きな国になるのには、わけがあるし、大きな国にならないのにも、わけがある。奪われてきたものも大きいかも知れないが、小さいままで在り続けているからこそ、守られてきたものがある。それは人間性と言ってもいい気がする。
だから僕は、小さな国の文化や歴史に、心惹かれることが多いのかも知れない。
日本人は長らく戦争や紛争を経験していないから、対岸の火事のようにして眺めたり、双方がただ勝手な領土の取り合いをしてるだけのように思い込んだり、喧嘩両成敗的に上から目線で(どっちも悪いというような言い方で)断じて、背景や状況を深く知ろうとしない人も多い。
これまでの背景や、現在の状況を、より多くの人が知るだけで、これ以上の犠牲者が出ることを食い止めることが出来るかも知れないのに。
アルメニアの名前を口にしても、それってどこにあるの?という反応が多い日本では、ニュース自体が少なく、そして内容にも偏りがある。戦場となっているアルツァフは、ナゴルノ・カラバフと呼ばれているが、それはロシア語だ。それだけでも、この地域で何が起こってきたのか想像がつくだろう。アルメニア人の70%がアルメニア国内にいない。それだけでも、どのような歴史を歩んできたのか想像がつくと思う。
アルメニアでの思い出を挙げたら、きりがない。高校を卒業した頃に目にしたコミタスという映画は、アルメニアという国と20世紀初頭のジェノサイドについて知る、最初のきっかけとなった。もちろん、この国を代表する管楽器ドゥドゥクの音楽も知ってはいたが、2017年の冬に久しぶりにアルメニアの音楽を耳にした時、僕はこれまで感じたことのない引力のようなものを感じた。
2018年の初めに父が亡くなり、その直後にアルメニアの詩人
Armenuhi Sisyan
さんと知り合い、同時にアルメニアの音楽家
Levon Tevanyan
とやり取りをし始めた僕は、次第にアルメニアへの強い縁を感じるようになり、関心を抑えきれなくなっていたが…やはりとどめはその年の4月に起こった革命だった。
日本ではあまり報道されなかったこの革命、いろんな意味で特筆すべき変革だったように思う。それから毎日のように、コーカサスの山々の風景をネットで眺め、アルメニア民謡の数々を聴きながら、何が何でも、今のタイミングでこの地の空気を嗅ぎたい、と僕は思うようになっていた。
「今、アルメニアは希望に満ちている。新しい時代を迎えているんだ」「あなたがもし、ずっと前にこの国を訪れていたら、今この国に溢れている笑顔の数々を、見ることはなかったかも知れない」…アルメニアで若い人から聞かされた言葉に、なんとも心が揺さぶられた。
通りでは、度々すれ違う人と普通にあいさつを交わすようになっていた。お店に座ると「もしかして日本から来たの?中国の人とも韓国の人とも違う雰囲気だから、もしかして日本の人かと思って」と話しかけられた時には、少し驚いた。
ずっと参加したかった、Karinという民族舞踊の団体のワークショップに参加した時には、広場に溢れる若者たちが手をつないで輪になって踊る姿に、心ふるえた。
その時に、手をつないだかもしれない人たちが、この映像の中にいる人たちが、いま戦渦に巻き込まれている。トルコの支援、挑発的な声明の数々、イスラエルのドローン兵器、イランやクルディスタンからの傭兵…不穏な情報の数々に、市民の志願兵が続々と戦地に向かっている。本当に隣国の人々と戦いたい人など、いないだろう。
僕はこの2年、毎日アルメニアのブルールという笛を練習している。少しづつだけど…欠かさない。今はそれが、自分なりの祈りになっている。
エレヴァンの郊外にある、ジェノサイド・ミュージアムには大きな献花・献灯のためのモニュメントがある。そこを訪れた際、僕はそのモニュメントの片隅に座って、とても長い時間を過ごした。何と言うのか…現代の建造物なのに、古い神社と同じエネルギーのようなものを感じた。これには、本当に驚かされた。
この短い時間の中で、どれほどの祈りが、ここで積み重ねられたのか。古い神社が持ち得ているエネルギーと、同様のエネルギーを、どうやって、人々がこの場所に与えたのか。
今何が起こっているのか、多くの人に知って欲しいし、考える人が増えて欲しい。かけがえのないものが、世界のそこかしこに、ある。僕たちが生きている世界は、そういうところだ。


2018年アルメニア 踊る人々①



2018年アルメニア 踊る人々②

 


雨の森、霧の中を

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この写真を見て、音が聞こえてくる人はいるかなぁ… 霧の中の木立にいると、繊細で神秘的な音に包まれる。何の音、なんて言えない。葉?梢?雨?いろんなものが触れあったり擦れ合ったりしてる音が、それこそ無限に重なっている。こういう音を聞くたびに思う。ミュージシャンという、近代の思考パターンで行動しているに過ぎない人間が、自分の音楽だとか、芸術だとか、まるで誇っているかのように言うものについて。同じ人間に向かってだけ、こしらえて、発している、小さな音の羅列について。
雨の森を歩いた。やっぱり森に入るなら、雨の日に限るかも。濡れた大桂からは、芳香な香りが漂っていて、いくら写真や映像は撮れても、この香りまで持ち帰ることは出来ないということを改めて痛感した。いつか夜中にこの森に来て、真っ暗闇の中でこの香りに包まれて、息を潜めながら時を過ごしてみたい。星も、別物のように見えるだろうな…。

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一つ一つの色が、何とも言えない魅力を発していて…度々、立ち止まってしまう。もしかしたら、そういうところでずっと過ごしていてもいいのかも知れない。
10月17日朝の7時、ラジオ関西「ひょうごラジオカレッジ」という番組で、25分ほど「しあわせていますか?~しあわせと幸福は、別のもの」というタイトルで、一人語り。もう収録は終わったけれど、無計画に喋っての一発録りは、ついつい早口になっちゃったし、後ろの方はあまりまとまってもいない(いろいろ言い忘れた)。でも、ご興味のある方・早起きの方はぜひ。
 「しあわせていますか?…のタイトルは、誤植ではないですか?」と、事前にラジオ局の方が心配そうにメールを送ってきた。もちろん、誤植じゃない。世の中には、いろんな幸福論というものが溢れていて、本屋に行けば何冊も同様の本が目につくんだけれど…僕はそれらを目にする度に、ちょっと残念な気持ちになる。多くの人が「しあわせ」と「幸福」を、同じような意味で使っているけれど、ホントはそれぞれ別の意味を持っている。
ノコギリと包丁を、同じ切る道具だと思って混同して使ったら、どうなるだろう?言葉ってパワーのある音だ。多くの人は、無意識に音を発している。その音を使って自分が思考できていると思い込んでしまう。その思考を、音や記号で言い表せていると思い込んでしまう。そして音や記号で互いにやり取りができていると思い込んでしまう。まるで、音を鳴らしあっているだけで、合奏できていると思い込んでしまうみたいに、まるで楽譜が音楽をそのまま書き表せていると思い込んでしまうみたいに。

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木々のたわみが、冬の雪の重さを表している。そう思ってここに立っていると、真っ白に彩られた季節の光景が浮かび上がって来る。

森にたちこめる霧を眺めながら、久しぶりに昔(今となっては前世のようだけど)に書いた「空のささやき、鳥のうた」という本(2009年から書き始め2014年に発表、CD2枚で計16曲の作曲作品付き)のことを思い出した。そもそもこのラジオ出演、「その本について話して下さい」という依頼だったんだけど…結局それを断って、上記のことだけ話した(笑)この本はもう残り少なくなっていて、再販する予定もないから。前世みたいということは、作品作るごとに、いっぺんづつ死んでるのかも(笑)

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存在の重さを感じることって、特別なことなんだなぁと改めて思った。この日は、倒木に目が吸い寄せられてしまう。

その本に付けたCDの1曲目が「霧の中を」だったので、雨の後に霧に覆われた森は、10年ほど前に降ってきたビジョンを、鮮烈に蘇らせてくれた。
 
 「僕たちは霧の中、
木々のように立ち尽くし、だまって世界を眺めている。
ふいに風が吹き、霧の中で幻を見せていた光が、彼方を照らすと
そのとき僕たちは、知ることになる。
世界は、霧の向こうに拡がっていたことを。
僕たちを、取り囲んでいるように見えていた世界は、
僕たちの心の中で、閉じていただけだった。
僕たちは駆け出す、かすかに残る霧の中を。」
 

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まるで太古の昔の儀礼跡のような倒木。やっぱりこの日は、倒木から目が離せられない。もしかしたら、これはホントに、一種の儀礼かまじないのようなものなのかも知れない。

結局この曲、人前では作品お披露目のコンサートなんかで、二度ほどしか演奏していなかったんじゃないかな…。霧に包まれて、時折雨が降っていた森は、昼を回っても冷たい風が吹いていて、油断して薄着していた僕には少々寒かったけれど(笑)、やはり森には時々入って行かないといけないな、と思った。
 
相変わらず、世の中は霧に覆われているし、僕の中にも、霧はまだ漂っている。でも、香りや音には、昔よりもずっと敏感になっているような気がした。

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う~ん、カワイイ…一生懸命、木を登ってく山のカエル。

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足元には、夥しい数の栃の実が落ちている。当たったら痛そうだけれど、これがボトボトと落ちて来る時の音を、いつかゆっくり聞いてみたい。

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栃の木にまとわりつく、蔓。その蔓も時代を経て太くなり、苔むして謎の生命感を放っている。たまらない…

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…これは凄い。もう何が何だか分からない共生ゾーンになっていて、小宇宙感に圧倒される…

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その高さ、35メートル超。樹齢、謎。これが今回の目玉…芦生の大桂。 100年前の写真を見ても、今の姿とほぼ変わらないそうだ。どうなっている、この樹は??複雑に絡み合って伸びた幹、重力が関係ないかのようにひろがった幹のような枝。 辺りには、何とも形容しがたい「香り」が漂っている。 この樹に魅せられて(憑りつかれて)描き続けている豊島さんは「醤油みたいな…みたらし団子みたいな香り」と言っていたが、確かに。何か知っているような、懐かしいような、でも得体の知れないような、ホントに形容しがたい香り。すごいパワーが満ち溢れている!

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実はここに案内してくれた豊島さんとの縁をつないでくれたのは、宗教学者鎌田東二さんなんだけど、鎌田さんはこの大桂を見た時、「あ…ここには、いる」って言ってたそうだ。確かに…。きっと、夜や、誰もいない時に、樹の近くで息を潜めてじっとしていたら、姿を現わしてくれるような気がする。

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倒木のかけらの小宇宙。こんなのが辺りにいっぱい転がっているから、大桂のある岸辺は山の中の銀河って感じだ。

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雨の後だからかな、小さい奴らが元気そうに見える。

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芦生の小宇宙…こんな生え方するの???っていうくらい、何だか等間隔に並んだキノコたち。何なんだ、この子たちは??(笑)












 

秋はアキ、しかしアクナキ日々

秋。コーヒーが美味い…からだに沁みる。虫たちが家の中にまで入って来て、妙なる声を響かせる。やたらに可愛いトカゲやヤモリたちがトテトテと走り回ってる。しみじみと、アレコレ想い返す日々。
この山里で暮らし始める時、「力仕事も多いし、いろんなことに時間と体力をとられる」とか「移動も大変だし街も遠い、かえって音楽がしにくくなる」と言われたことがあった。確かにやることは常に多いし、時間もかかる。外の作業で、手がだるくなっていることも多いし、草刈りなんかはキリがないから、時々気が遠くなったりもする(笑) 

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今年は草刈りの合間に忘れずに収穫…実は裏庭の草むらでニョキニョキ育っている
でも心配されていた事より、むしろ別のことがこの歳月で加速中。草刈りも料理もお喋りも、お茶飲んでボーッとしている時も昼寝の時も、経験的には音楽やっているのとほぼ同じになってしまって(比喩だとか理想、口先の哲学もどき、格好だけの芸術論なんかじゃなくて…身体的な実感)、これでどうなるかというと、当然ながらある意味「音楽的経験が足りてしまっている」訳だから、人前に出て演奏したいなんて欲求が(以前に増して)湧かなくなって来る。これは立場的に生活的にヤバい状況とも言える。 
また一方で、今まで音楽として聴いていたものが幾つも、音楽としての認識・興味対象から外れてしまった。もちろんそれらを否定している訳でもなく、人がやってる分には楽しそうだし、微笑ましく見えるんだけど…ちょうど知らない人たちが世間話をしている位にしか見えなかったり、何とも反応しようのない独り言に聴こえてしまったりもする。たぶん今の僕にとっては「ヒト以外」が発してる音の方がスゴ過ぎて、魅力的なのかも知れない。また、何気なくヒトが発している音や声の方が、音楽以上に音楽過ぎて、僕は常に足りてしまっているのだろう。これもある意味ヤバい状態と言える。 
そして、今までの活動や今まで作って来たもの…それらがほぼ前世の記憶のようになり、自分の作った曲でもリアルに「これ、誰が作ったの?」って感じで(昔からそういう傾向があったけど)、純粋に今なら「どこかの誰かが作った曲」として演奏してしまう。CDなんかも自分のものとして世の中に発信する意欲がイマイチ湧いてこない。まぁまぁ、ヤバい。これが他人の状況だったら、心を込めて厳重注意する(笑) 

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音楽好きならご存知の人も多いだろう…1991年公開の映画「めぐり逢う朝」と、その原作本。特に小説の方は、音楽に関しての示唆に富んだ対話が素敵で、お薦め。
ちなみに「ヤバい」は結構古い言葉で、厄場から来ているが、いよいよ僕も本格的に、危うい業の渦の中に身体ごと浸かってしまったのかも。思っていたよりも平和で居心地が良いから、理性の声もどんどん届きにくくなってきた。逆に言うとこの歳でここに飛び込むことが出来て、良かったのかも? 
ところで、秋の語源を「赤」からだとか、「明らか」からだとか、「飽きる」からだとか、世間では(豆知識やネットなどの軽めの情報として)幾つかの説が挙げられているけれど…更にそれらにも源がある。 
エネルギーが「みちる」状態を表す「ア」と、エネルギーが「あらわれる(顕現する)」状態を表す「カ」、それらのコンビネーションとしての古き音…「アカ・アキ・アク・アケ」たち。漢字の概念に惑わされては、音が本来表していた世界観が細分化して狭まり、本質的な理解が損なわれてしまいやすい。あきる、なんて漢字があてはめられると、現代では「もういいや・充分」的なイメージになってしまう(笑)それじゃ、そこから「あきなふ→あきない(商い)」といった言葉にもイメージが拡がりにくいだろう。 
色にせよ状態にせよ、収穫だとか暮らしに関わるあれこれにせよ、僕らの使う秋という言葉は、アキという音から生れている。言葉はまずは文字ではなく、音でとらえることが大事なんじゃないかな、と思う。今の日本人って文字的に日本語を喋ってるから、たぶん音的に喋ってた人たちと思考の構造が根本的に異なっている。ちなみに古来からオリエント諸地域ではアの音は重視されていたというから、ア音重視の渡来氏族たちは(現在の)オリエント乾燥地域が先住の地ではなかったか・もしくはその文化を継承する人々ではなかったのか、なんていう研究もある。こういうのはオモシロイね。 
さて、そっちに話が行くと長いので、話を戻すけど…Blulという笛の修行がようやく次の段階に進みそうになってきた。この歳になって完全な初心者状態となったことで、自分の身体感覚が大きく変容しつつある。最も大きな気付きは「今まで自分が、笛をちゃんと練習したことが(本当は)なかった」ってことだけど、この歳になって、気付くことじゃないだろって感じだ(笑)それもあって、この笛には運命を感じている。 

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アルメニアの斜め型笛Blulの吹き口。習得は困難な楽器だけれど、会得すれば今まで演奏してきた笛で出来ること、その大半がこれ一本で出来てしまう位のポテンシャルがある。
そもそも、一番最初に演奏するようになったQuenaという笛は、まずは竹を切って自分で作って始めたんだけど、その後、当時東京に単身赴任していた父が現地のものを入手してきてくれたことで本格的に取り組み始めた経緯がある。その父が2018年の頭に亡くなって、その後に訪れたアルメニアでこの笛に出会った。考えてみれば不思議なタイミングだった。父はQuenaを演奏する僕を知っているが、Blulを演奏する僕を知らない。
積み上げることって、探ることって、先が見えないことって、もどかしいけど、楽しいもんだなぁ。正解を見せてくれる先生が横にいないということも、僕にはピッタリ。今後どうなるのか、全く分からない。 
秋は大好きだけれど、自分の中では、あくなきものが動き続けている。

今年の「共生の技法」授業が終了

春から夏にかけて受け持っている阪大での授業「共生の技法」が終了…今年はオンライン授業で、30名余りの学生さんとのZoom授業&メール文通が4ヶ月続き、やり取りはA4用紙にして600ページを超えた。軽く何冊かの本になる量(笑)

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一ヶ月ほど前になるけれど、ダンサーさんとの舞台…久しぶりの即興音楽

メールでのやり取りは、長文のものや個人的で繊細な内容のものもあり、全員分の返事にはとんでもなく時間がかかったけれど(まだ残ってる)、感性豊かな学生さんが多くて、僕自身も言葉や表現・問いかけの修練になり、良い経験をさせてもらった。以前FBでの投稿で、この授業の内容に興味を持ってくれた方々も多かったが、今回も最後の課題の学生さんたちの回答が一つ一つ素敵で…ここで紹介できないのが残念に思う。

 

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◆最後の課題、こんな感じ。

 

①共生社会・多文化共生世界を実現するためには、どんなことが必要だと、あなたは考えますか?幾つ挙げてもらっても構いませんので、現時点で思いつくアイディアを聞かせて下さい。

②共生社会・多文化共生世界の実現を阻むものは、どんなことだと、あなたは考えますか?幾つ挙げてもらっても構いませんので、現時点でのあなたの意見を聞かせて下さい。

③今のあなたが、「生まれたばかりのあなた」の養育を任されたら…あなたは、自分自身をどのように育てたいと考えますか?

④今のあなたが「生まれたばかりの両親」の養育を任されたら…あなたは、自分の両親をどんな風に育てたいと考えますか?

⑤あなたが「今の自分がイメージする、最高の状態」にあるならば、あなたは社会で・周囲の人間関係の中で、どのような「はたらき」を担うと考えますか?

⑥あなたが現在「そうなれないでいる」「そうなれないような気がする」ならば、それは何故だと考えますか?あなたが「そうなる」ことを阻んでいるものがあるとしたら、それは何でしょう?

 

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…特に④かな。20代の若い人々が、どんな風に親の世代を眺め、社会の大人を眺め、そしてどんな風に大人に疑問を持ち、そして愛情を抱いてくれているのか、ホントは皆さんに知って欲しい。
⑤や⑥からは、今の社会や教育が若い人の心の内に何を引き起こしているのかが浮かび上がって来る。授業では、「思い込みの解除」や「自分育て」など、幾つかのテーマでいろいろな話をしているので、質問はそれらを踏まえたものになっている。

 

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このところ昼間っからやって来る鹿ども。「キライじゃないよね?」って目で見つめてくる…

もちろん、この授業…「ヒトは何故うたい、おどるのか」という副題がついているので、音楽や踊りに関しても色んな話をしている。でもこの国に暮らす大半の人は、音楽と言えば商業音楽や教育を通したイメージしか持っていないし、音楽という言葉についても(たとえば、いつから使われているか・元々この字を何と読んでいたのか・ミュージックと音楽はどう違うのか・なぜ音を「おと」というのか・楽と「たのしい」はどう違うのか…等など)、今の教育は根元のところを何も教えてないから、音楽という言葉自体が指す意味も小さく狭くなっているし、社会で共有されてる固定観念はかなりある。

 

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この時期、アゲハやクマンバチがどんどんやって来ては仲良く?蜜を分け合っている

なので、僕のやることはまず「信念体系を、ひっくり返す」作業。思い込みを解除するためには、まず思い込みに気付いてもらわなくちゃけない。でもやはり思い込みは「それが思い込みと気付きにくいからこそ、思い込み」とも言える(笑)なので多少、学生さんの顔からハテナがいっぱい飛び出すのが見える中、話さなくちゃいけないこともある。

 

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今年は初めてキャベツを植えた。青虫の襲来には悩まされたが、見事8つも結球。美味い!

Zoom授業に先立って、自分を観察してもらうためのアンケートや、映像を使った動画鑑賞会も行った。今年紹介した映像は、エストニアの「歌を共有する社会」、アイルランド移民の歌、チリの新しい民衆歌、アルメニアのダンス・ムーブメント、パラグアイのスラムで生まれた廃品楽器オーケストラ、ロシアの「古い歌に目覚めた若者たち」、口笛で会話する世界各地の村、ウイグルの伝統的な祭・風習、ナーガ族の仕事歌、タゴールの詩と歌の文化、旧ユーゴ全域で歌われるロマ(ジプシー)の歌、グルジェフのムーブメント、などなど…。

 

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長い梅雨でジャングル化した畑だが、かろうじて収穫。ハクビシン&カラスに大分やられたけど。

頭が柔らかい人は、そこからいっぱい感じ取ろうとして半ば言葉を失っていくし、頭が固い人は、今の自分が持ち得ている情報と思い込みで、分析を試み言葉を並べようとする。初めて出会うものに対して、自分の中で何が起こっているか、気が付いている人は、そういない。

 

 

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芽が出て干からびてたアンデス系芋を適当に植えたら…やはり「芋は裏切らない」!

今年も、感じることや知ること、考えることや表すこと、分かるということや信じるという言葉の意味、それらが表そうとしている意識のはたらきについて、ビジュアル的に解説しながら、僕は僕の方で、学生さんたちの世代が何を求めているのか、時代がこれからどういう方向に向かおうとしているのかを感じ取るための時間にもなった。

 

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蕗が群生したので収穫。今年は何故か植えてもいないのに赤紫蘇も群生…恵み、スゴイ

個人的には、最後の課題なのに質問書いて送ってくる人や、どこに行けば話が聞けるのか尋ねてくる人や、来年も受講したいという人たちや、またメールしますとシレッと書いてくる人がいたりするのが、ちょっと嬉しかった。みんな、いい人生を送れますように。

2020年 夏至祭

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夏至祭の「しあわせの輪くぐり」の輪。茅の輪じゃないのです(笑)

 

夏至冬至の日は、仕事を入れないと決めて、はや5年。夏至祭の朝は、家の土間の掃き掃除から。

この日一日は、飾り付けも、天地の塔の花綸回しも、ウツシダマも、輪くぐりも、何気ない大人のお喋りも、持ち寄りパーティーも、子供たちが走り回るのも…一つ一つが聖なる儀式になっていく。

 

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我が家の庭でウツシダマつくりに励む地域の人々

 

聖なるの「聖」は、「ひじり」と読むけど、これは元々「日を知る」の意。

古来からの特別な日を、お祭りの日を、平日だとか休日だとかで日をずらすのは、本来ならおかしな話。この夏至祭は、冬至祭と同じく必ず夏至当日に行われる。

それにしても、今年の夏至祭は何だかすごかった。372年ぶりっていうけど、夏至の日に日蝕をこうしてこの人たちと見上げることが出来るのって、これっきりなんだな。

 

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食の儀…持ち寄りパーティーに、ハーブを使った手作り料理が並ぶ

 

一年に一度、同じ日に近隣の友人知人が集い続けることって、時の流れの中の定点観測みたいなところがあって、お互いの歩みがどこかでつながっていて、知らないうちにお互いの中に積み重なっていくことに、改めて気付かされる。

 

この地にやって来た人たちが、こうして集うごとに、大きな家族になっていく感じっていうのかなぁ。この日を特別に日にしてくれた、すべてに感謝。

 

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日が暮れたら始まる、「しあわせの輪くぐり」

 

 ※夏至祭・冬至祭の詳細については、「過去の投稿」ご参照。これは地域住民しか参加できない「閉じた祭」です。

 

 

 

【2020夏至祭 写真を幾つか】

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夏至祭会場…前日にみんなで設置した輪と天地の塔は、花やハーブで飾られる

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天地の塔の花輪は水平方向にこうして回せる…螺旋の動きは天と地に向かい両極を結ぶ

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我が家の池はモリアオガエルの卵だらけ(笑)子供たちはずっと、池で遊んでいる

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ウツシダマを作る皆さん…まずは藁を丸め、そこに日々の暗い気持ちを移してしまう

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それを花や薬草で可愛く飾り、明るいエネルギーに変換させて燃やす

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春先には咲き乱れていたタイムも今は緑一色、庭のあちこちで甘い香りを放っている

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しあわせの輪の前で家族写真

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ウツシダマの儀式はそれぞれが自由に過ごすお祈りの時間

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家に入ると、持ち寄りパーティーが始まる

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全て手作り…ハーブや花を使った料理が中心なので、カラフル♫

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子供たちだって手作り…全部自分たちで食べちゃうだろうけど(笑)

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食卓に色んな手が伸びてる風景って、やっぱりいいもんだなぁ

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こうしてみんなで食べてると、ホントに、みんなで大きな家族になってる感じ

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今年の持ち寄りメニュー…絶対全種類食べられない…(笑)

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美容師さんに習って、女の子たちは髪を結いあい

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アッという間に妖精たちになっていく

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そして、いよいよ「しあわせの輪くぐり」が始まる

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一年に一度の、結び直し

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子供たちは、大人になってもこの日を覚えてるかなぁ

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しあわせの輪くぐりで演奏される二連笛の旋律は、最初の年に突然その場で生まれた

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二日後に集まって、後片づけ…来年の準備もかねて、輪が外される

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もちろん、集まったついでにお茶会とランチ会













































 

「自粛」という言葉に、振り回されないで

◆自粛と言われて、しんどい思いをしてる人たち、まずは「自重」と言い直してみて(意味は自分で調べてね)。


◆アーティストはそもそも、夥(おびただ)しい思想的ウィルスを保有しているもの。まずは自分から生み出される「それら」と共生し得る身体的知性を自分で磨き、整えておくことが肝要じゃないかと思う。今回の騒ぎ如きで、被害者のような気持ちには陥らないで欲しい。「決してコントロールされない」側の人間であるという、誇りと気概を持ちませんか。それらを持てないでいるならば、この機にそれらを熟成させることはできないだろうか。

 

※この冒頭要点で、「何だこれ意味不明」と思った人は、この後を読んでもチンプンカンプンだと思うので、スルーをおススメする

 

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最近の我が家は、朝昼ご飯とお茶はここ。今は最高の季節なので、ずっと庭にいたくもなるが、自然は待ってくれない…庭や畑の草刈りはまさに終わらない作業。

 

今、我が家はタイムの花で一面ピンクに染まっている。そしてタイムに群がるミツバチの羽音が、地面にヴーヴーと響き渡り、アゲハやモンシロ、クマンバチたちがランデヴーのように飛びまわっている。できればずっと庭にいたくなる、いわば最高の季節だけど…草刈りや畑仕事は、待ってはくれない。起床→水浴び→修行(笛)→料理→草刈り→修行→料理→近所におでかけ→草刈り→修行→畑→料理→修行→沈没(就寝)…そんな日々。これってもしかして、ここに移り住んだ頃と何も変わってないのか?過去の投稿を見たら、やっぱり同じことが書いてある。

 

そうか、思い出した。僕はもう2009年頃から、自ら望んで、自重期間に入ってたんだった。自重というのは、世間と絡み過ぎないよう、人前に出ることに精を出さないよう、そこで何かを得ようとしないよう、何かを分かってるような気にならないよう、という自重。元々、音楽って自分にとっては「修養」だったなぁ~と思い出したから、修養らしく音楽をやっていこうと思ったら、暮らしが勝手にそうなってしまったというだけのことなんだけれど…。だって、人前に立ちたいと思って音楽を始めた訳ではなかったし、そもそも拍手もお金も、他者の反応も、音楽を手にした時に、自分は特に求めてもいなかったものばかりだ。

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我が家のハーブ園はフェンネルに半分くらい支配されている…大事にしてたら増え過ぎた(笑)デカくなると、とんでもなくデカくなるので、もう誰か何とかして(笑)

 

自重期間に入ってすぐに体験したのは、水木しげるの作品に描かれているような「キキキキキッ」という、朗らかな笑いが自然に生まれ出てくることだった(笑)。それから4年程かけて、墜落しない程度の仕事だけしながら、どうにも売りにくい本を書きCDを作り、その後むしろ自重期間を延長しようとするかのように、この地に引っ越してきた。

で、低空飛行というものには極めて深遠で微細なバランス感覚が必要なのだと、改めて確認した。時折ビョーンと流れに乗ってトンビの如く上空に行きたくなることや、適当なところでそっと着陸して羽を休めたくなることもあるが、生きる秘訣というか、醍醐味というものは、そういうことではないみたいだな、と分かってきた。

 

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チューリップは特に好きではなかったが、ここに来てから好きになった。ポンと膨らみポワッと咲いてパララッと散るのがいい。

 

世間では目下「押しつけ自粛」が大流行だけど、元々自重&修養生活にあった僕は、もはや自重することがフツーになってて、自重が続いてるのか押し付け自粛を被ってるのかも、分からなくなってた。つまり、自重していることすら忘れていた。

 

しかし、降って湧いたような状況下で、思いもしていなかった困難や苦痛を味っている人が沢山、世の中にいることは分かっている。寂しさや、それまで避けていたはずの孤独や孤立と直面し、何かを「待っている」ような気持ちになってしまっても、仕方ないかも知れない。僕はそういう、今回のことで精神的・経済的な苦難に直面している沢山の人たちが、これまでの生活で「そこまで、世間としっかり関わってきた」ということに…「現代社会の価値観と、がっぷり四つで歩んできた」ということに、むしろ感銘を受け、そして心のどこかで深くリスペクトしている。

 

でも、「ものごとが分かってない連中」に、安易な言葉を押し付けられて、その言葉に心のありようまでコントロールされないよう、気を付けた方がいい。自粛なんてのは、人々を悪者にするかのような言葉だ(社会から見れば・第三者から見れば、自分の方に罪や落ち度がある…として、自分で自分に罰や制限を与えようというニュアンスを含む)。「自粛要請」なんて訳の分からない言葉を国が発してしまったら、フツーに働き稼ぎ、人と関わり人とつながりながら国民生活をすること自体が、罪だと言わんばかりになる。

 

罪の自覚が出来ぬ者たちには、正義を振りかざし鉄槌を与えて良い…という歪んだ単純思考の人々が、悪者探しよろしく、勘違いな愚行に及び社会を跋扈(ばっこ)してしまうのは、少し考えたら分かることじゃないかな。これは今の日本社会が、判断の場が情報発信の場が、基本的に、文化に関しても歴史に関しても無知な者たちによって占拠されているからだ。

 

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ごちゃごちゃ干しと、グルグル干しと、まっすぐ干し、味が変わるのかどうか実験中(笑)

 

「まだ見えないことが多すぎるので、もう少し見えてくるまで、自重してください」「お互いに自重しませんか」と、まずは呼びかけるべきだった。自重とは何かを説明すべきだった。情報を共有し信頼関係を築こうとすべきだった。言葉や対処の端々に、信頼関係ではなく、制御し操ることで社会を築こうとしていることが、表れている。

 

 

自粛なんて言葉を押し付けられて、いま気分が落ち込んでしまっている人々は、ただ真面目にはたらいて生きていた人々や、言葉に対して直感的なものを持っている人たちだと思う。政治家やメディアだけでなく、言論者であるという顔をしている人々までが、右に倣えして「自粛」という言葉を行き交わせるものだから、これはウィルスよりも厄介なことになっている。誰も自重と言い直さないし、自制や自律という言葉も、ほぼ使おうとしていない。与えられた言葉で思考する…これは残念ながら。「コントロールされる側にいる」ということだ。

 

だから、この信頼関係のない、国や行政の押し付け自粛モードでしんどくなっている人たちは、せめて「自粛」という言葉ではなく、「自重」という言葉を使うようにして「自分自身の力と思考」を取り戻して欲しい。お互いを思いやったり、自分自身が安易な過ちを犯さないために、自分に出来る範囲で賢明になろうというのであれば、自重でいい。そしてそれは「させられる」ものじゃない。そしてそれらが現在の時点で、本当に必要なのか、実際どの程度必要なのか、改めて問い直せるようになれば、と思う。

 

 

しかし実際、自重には体力もいる。多少の計画性も必要だし、そして基本的な身体的知性が不可欠だ。気持ちだけでは、容易に「墜落」する。だから助け合わないと…これはある意味、全ての人がアーティストになれるための、機会でもあるんじゃないかな。助け合うためには、まずは自分の在り方を確固としたものにしようとしなくちゃ。そこから、互いの不安を取り除いて行くようにしていかないとね。

 

不安を軸にした判断は、大概誤っている。これはそれこそ、歴史を見れば明らかだ。

 

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キウイが芸術的に絡む。この時期の葉っぱは本当に美しい。

 

さて、僕はそもそも、思想も情報も、そして音楽も…世間でいうところのウィルスのようなものだと昔から思ってきた。それらは、ある特定の人間から生み出されたとも言えるし、そうではないとも言えるものだ。思想や情報、そして音楽も、発せられ、外を飛び回って、戻ってくる頃には、随分「なり」が変容していたりする。

 

たとえばある曲が、国外のどこかで流行したりカバーされたりしてるうちに、えらく様相が変わってしまった…みたいなことってあるよね。それを聴いて、その曲の作者や、その国の人たちはどういう反応をするだろう。オモシロ~イとか、愉快だね、と感じる人もいれば、不快に感じ、受け入れられなくて拒否反応を示す人もいるかも知れない。タイミングも重要だ。たとえば過度にエレクトリックに加工なんかされたのを聞かされたりしたら、こんなの「いやだ」と思うタイミングもあるかも知れないし、「へぇ、こんな風にもなるんだ。これもありかもね!」と思えるタイミングもあるかも知れない。

 

「元は自分のところから旅だったものが、戻ってきた時、生命は変容を促される」。思想にせよ情報にせよ、そして音楽にせよ、それは起こり得る。むしろ、それによって生命はどこかへ向かおうとしている。巨大な生命のダイナミズム、その「はたらき」から見た時、重要なのは、その仕組みを知っておくことと、そのはたらきを知っておくこと、そして「そこに自ら意味を与えるだけの、身体的な知性を身につけておくこと」だ。

 

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これは、ポポの花。アンティークな色調がたまらない。

 

身体的な知性に関しては長くなるので、今は触れない。でも、ここまで読んでピンとくる人は、頭で考えようとしなくても、もう身体のどこかで共鳴しているんだと思う。「それ」のことだ。

 

僕は小学生の頃から、思想的ウィルスを沢山、保有している。情報的なウィルスもかなり蓄えている方かもしれない。自分自身が、それらにやられてしまうかも、と感じたこともある。免疫のない人や、準備が整っていない人に感染しないよう、気を付けてもいる。それに加えて、世界各地の様々な音楽文化に興味を持ってきたから、いろんなものを触ってきて、たぶん全身常在菌まみれだ。ウィルス記憶もかなり蓄えられているかもしれない。それらの「せめぎ合い」を、自分の内で感じることもある。しかし、この同居や共生を感じられているとき、僕は生きている実感を味わってもいる。

 

という訳で、今日も草刈りと畑と修行に精を出したいと思う。

 

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先日は、近所の友人たちで集まって今年の味噌作りをした。薪で炊く大豆は格別…たぶん、かなり美味しいのが仕込めた。

 

今年も大学での講義、始まる

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投稿内容とは関係ないけど、先日美山の友人の所でタイミングよく藍の花を見せてもらった。香りは凄いが…とにかく美しい。

 

大阪大学で受け持っている授業「共生の技法」が、今年も始まった…といってもこのコロナ騒ぎで今は対面授業が行えないので、少なくとも4月の間は学生さんたちとメールのやり取りで授業を進めることになった。つまり、33人と文通(笑)

 

昨年から「手をつないで輪になって踊る」踊りの実習も授業に加わっているけれど、モロに「濃厚接触を薦める」内容なので(笑)、これはコロナ騒ぎが収束するまで、しばらくお預けになる。楽しみにしてくれてた学生さんたちも多いんだけど。

 

授業でどんなことやってるのか、毎年興味を持ってくれる方も多いので…学生さんとのやり取りはもちろん、ここではお見せできないけれど、最初のオリエンテーションで、僕から学生さんたちに配るイントロダクションだけ、チョコっと紹介。

長いので、興味のある方だけどうぞ。

 

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ジューンベリーがようやく開花。昨年はヒヨドリの襲来で一粒も口に入らなかった…が、今年はそうはいかない。

 

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この授業には、「ヒトはなぜ、歌い踊るのか」という副題がついています。もちろん授業では、皆さんが想像されるように、世界各地の音楽や踊りの文化、その背景にある世界観やものの考え方について、紹介したりもします。しかしそれは単に、「皆さんにそういった文化を知ってもらう」ためではありません。皆さんに、「人間と人間の関りとは何か」「文化とは何か」について考えてもらうため、ひいては「人間の創造性とは何か」「しあわせとは何か」について考えてもらうためです。

 

つまりこの授業は、皆さんが「普段の自分の感性や思考」を見つめ直し、人間について・社会について・人と人の関りについて、そして皆さんの内にある「創造性」と「しあわせ」について考える機会となることを目指しています。

 

そのためにはまず、成績とか単位とか…そういった、本当はどうでもいいこと(笑)は、しばらく脇に置いて、この授業を「トークショー」か何かだと思って、毎回気軽に楽しんでいただけたらと思います。

 

さて…皆さんは「ミュージック」という言葉と、「音楽」という言葉が、元は同じ意味でなかったのはご存知でしょうか。なぜ音を「おと」と言うのか、なぜ「音」という文字がこのような形をしているのか、考えたことはあるでしょうか。

 

多くの人は、言葉の本来の意味…「その言葉が元々何を指そうとしていたか」を知らないまま、ただ使っています。言葉という「音」や文字という「形」が、何を表そうとしていたのかを知るよりも先に、その言葉がどんな時・どんな風に使われているか、どんな効果があるのかを知り、周囲の人々と同じような「やり取り」が出来たら、「それ以上は知ろうとすることなく、ただ使いながら生きている」訳です。

 

「よく知っている訳ではない言葉」で、自分の思考を形作り、誰かと意思の疎通をし、関りをつくっている。これは、調律されていない楽器・よく知らない楽器を、ただ皆と同じように、「とりあえず鳴らしながら、自分なりに奏で、そしてそれを使って誰かと合奏しようとしている」ようなものです。

 

これはもちろん、オンガクやオトなどの言葉に限ったことではありません。皆さんにとって、生きていく上で重要な幾つもの言葉…自分・生きる・暮らす・はたらく・関わる・感じる・考える・喜ぶ・悲しむ・個性・豊か・しあわせ…皆さんはそれらの言葉について、どれくらいの知識があるでしょうか。それらについて考えているつもりでも、実は「そうではない何か」について考えてしまっているとしたら、どうでしょう。

 

また、現在の日本ではほとんどの人が「商業と教育を通して」、音楽と呼ぶものに出会います。世の中にあふれる音楽の大半は、商業(貨幣経済、近代的な枠組みの中で作られた)音楽です。アートや芸術・芸能と呼ばれるものも、たいていは商業の枠組みの中で作られています。皆さんも、音楽と言えば「買ったり、ダウンロードできる」形に作られた「商品」や、「録音されたもの・録音できるもの」を思い浮かべる人が大半ではないでしょうか。

 

また、皆さんがもし音楽をやってみたいと思うなら、ほとんどの場合「習い事(先生や先輩などを通して)」や「買い物(楽器や教則本の購入)」を通して、始めることになるでしょう。音楽と呼ばれる文化は、貨幣経済や商業、教育や習い事、それどころかアートや芸術という概念が生まれるよりも遥か昔から、人類と共にあったにも関わらず…。「音楽は自己表現だ」という言い回しも世間にありますが、自己や表現という概念は、いつ誕生したのでしょう。それは、音楽と同じくらい古くからあると、皆さんは思っていますか。

 

そう考えると、私たちは普段まるで「それについて知っているかのように」、音楽について考え、音楽について語ってしまうものですが、果たして本当に私たちは、「音楽と呼ぶものに、出会ったことがあるのか」分からなくなりますね。私たちの「音楽体験」は、少なくとも近代以前の人々の「音楽体験」とは、異なるのかも知れません。

 

多くの人々は、「知らないもの」に対してまるで「知っているかのような錯覚を抱き」、それについて考えようとしてしまいます。そうして実は、考えようとしていたものごととは、「別のものごと」について、考えてしまっていることが多いのです。周囲の人の大半がそうであるならば、そのことを自覚するのも難しい。だからこそ、私たちの世界・社会・人間関係、そして私たちの思考は、今でも「問題を生産し続けている」とも言えます。

 

この授業のテーマの一つに、「思い込みを捨てる」というのがあります。皆さんは、自分自身にどんな「思い込み」があるのか、日々自分の思考や感情を観察していますか。

 

皆さんはこれからの人生で、誰か(他者)との共生関係、自分自身との共生関係、環境との共生関係、様々な知識や情報との共生関係を築いていくことになります。そこで最も大きな障壁となるのが「思い込み」です。「思い込み」は、「早合点」という厄介な癖ももたらし、新たな情報や知識の遮断、情報の安易な書き換えや置き換え、そして思考停止を招きます。特に現代人は、何かと忙しすぎるので(笑)…常に「潜在的に」思考停止したがっています。

 

一口に「思い込み」といっても、「個人的な思い込み」もあれば、「ある社会や特定の集団・組織が抱いている思い込み」、「その時代特有の思い込み」等もあります。人間は生まれた時から、親・兄弟姉妹・先生・周囲の大人・知人友人たちによって、「既に自分たちの間で共有されていた思い込み」を、「それを良かれとして」彼らに書き込まれながら、歳を重ねていきます。

 

そもそも社会(人間の集団)は、仲間を増やすために「思い込みを共有させたがる」ものです。個人も、「社会と同じ思い込み」を共有していた方が、何かと生きやすい。周囲の人々とも仲間になりやすいし、居場所も与えられやすい。理解もされやすいし、評価も与えられやすい。いちいち考えなくて済むし、ものごとを選択しやすくなり、行動もとりやすくなる。

 

「カシコク生きよう・効率よく生きよう」と思えば思うほど、そこにある「思い込み」を共有することになってしまいます。それが家庭であっても、学校であっても、サークルであっても、会社であっても。そして自分自身でも、書き込まれたものの上からなぞるようにして、思い込みを強化していきます。

 

しかし皆さんには、ここで大切なことを知っておいて欲しいと思います。世の中は「AはBである」ということを、教えたがるものですが、「AはBである」というようなことをいっぱい覚えることが、「大人になる」ということではありません。ましてや、それが「人間として成熟する」ということに、つながる訳ではありません。むしろ、逆だと言った方がいいでしょう。

 

よく「オープンになる」とか「心を開く」というような言葉がありますが、それは世の中に溢れている「AはBだよね」というようなものごとに対して、「ホントは、そうじゃないかも…」と、心のどこかで思えるような余白・隙間を自分の内側につくっておくことを言います。ひらくと、ひろげるは、同じ音から生れた言葉ですからね。

 

社会の中の、ある集団と「思い込みを共有しようとする」ことは、言うなれば「その集団に合わせよう」という意識の表れですが…その背景には必ず「それによって、社会・集団から多く(承認や評価や理解・愛情、貨幣などなど)を得よう」という思考・思惑が隠れています。

 

たとえ能動的に見える人でも、本人が能動的だと思い込んでいても…実はそういう思考・思惑を抱いている人は「極めて受動的」な思考の持ち主であることがほとんどです。ゲットしたい!という想いの高さが行動に表れ、それが能動的に見えるだけで。

 

受動的な思考・発想の状態…それこそが「創造的であること」から、一番遠い状態です。

 

皆さんには授業を通して、これまで自分自身に「書き込まれてきたもの」や、自分自身で「書き込んできたもの」を改めて見つめ直し、それらが本当に自分の人生に必要なものなのか、これからの自分にとって本当に有効にはたらくものなのか、「能動的に」考えてみて欲しいと思います。何故かと言いますと、今は「時代が大きく変わろうとしている時」で、多くの人々が迷っている時だからです。生き方や、ものごとの価値観、何が豊かで何がしあわせなのか…これまでのように、「AはBなんでしょ」というところで、「思考停止」してはいられなくなってきます。

 

皆さんの「しあわせ」は、皆さんのこれからの「創造性」にかかっています。その扉を開くことが、この授業の目的とも言えます。大きく開けずとも、隙間くらいでも、構いません。まぁ、この授業をとったということは、皆さんの中にそういう直感や、欲求が既にあったということだと思っています。

 

自分自身に対して好奇心をはたらかせ、この授業を受けたことも含めて、今までの自分の歩みを信頼し、これから夏までの間この授業を楽しんでください。よい発見がいっぱい、もたらされますように。

 

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イントロダクションの後に、最初の課題(幾つかの質問事項が並んでる)に回答してもらい、それからやり取りが始まる。面白い回答が集まるから、本当はここからがオモシロイ。

それにしてもとりあえず一ヶ月とは言え、33人と文通か。生まれてはじめての経験かも。

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草刈りをしていると、カヤの中からカヤネズミたちの作ったカヤ玉が幾つも出てくる。

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今年は畑の周りを整備したので、いつもより元気よく咲いている。

 

35年前に見たビジョン

今から35年ほど前、僕は突如、あるビジョンに「憑りつかれた」。ビジョンというか…実はそれは「ある瞬間のビジョン」であって、そのシーンに至るまでは長い物語があるのだが…僕はその物語を、映画にしなくては!と思い立ち、毎日学校で(授業の間中)、ノートのあちこちに構想を描くようになった。特に高校2年生の頃、僕の頭の中はその物語の空想・妄想でいっぱいだった。それくらいに、そのビジョンは「衝撃的」だったのだ。

 

物語は、こうだ。

 

ある若い文化人類学者が、フィールドワークに訪れた奥地の少数民族の村で、その地域の人々の会話の中に「意味をなさない規則的な音」があることに気付く。それは一種の「まじない」のようなものとして、会話の中に挟まれていたのだが、その音について調べているうちに、それらが元は「別の文明」由来の言語だったのではないか、と彼は考えるようになった。


その確証を得るべく、古い宗教施設を訪ねた彼は、村の古老からそれらの音・単語についての聞き取り調査を始めることにしたのだが、そこで思いもよらず、古老から「ある不思議な物語」を聞かされることになる。


その物語は、はるか昔の出来事のようであるのに、その人類学者に対して「その時、お前は」「そして、お前は」という風に、常に「二人称で語られる」物語だったのだ。人類学者はとまどいながら、「それは誰の話ですか?」「どこの話ですか?」「なぜ私が登場するのです?」と尋ねるが、古老は一向にこたえようとしない。


ところが次第に物語が進むにつれて、人類学者は「まるでそれが、自分が実際に経験したことであるかのような」錯覚と共に、それがはるか昔の誰かの経験なのか、それともかつて自分が実際に経験したことなのか、更にはこれから自分が経験することなのかさえも、分からなくなってしまう。その物語は、「異なる【層】をつなぎ、意識を連れ出す」呪文でもあったのだ。

 

過去とも未来とも分からない、とある世界…大陸の中央にパータスと呼ばれる高原地域があり、多くの少数民族が各々の国を持ち、互いにせめぎ合いながら暮らしていた。それらの民族の間には、ある共通する神話、「二つ目の太陽」に関する伝説が、異なる宗教を通し、それぞれの形で語り継がれていた。「天空に二つの目の太陽が輝く時、人々はもはや光を受けず、ただ光の内に時を過ごす」。
 
そんなパータスの小さな国に、戦乱で両親を失い、行くあてもなく軍隊に入った一人の少年がいた。彼は隣国の民族紛争の中で、敵対する地域の村に攻め入り、同盟国の上官の命令で、とある少女を捕らえることになる。彼女はアルスーヤンと呼ばれるシャーマンとして生まれた者で、アルスーヤンは祭礼や儀式・治療や呪術といったいわゆる通常のシャーマンの役割ではなく、「ある特定の技術」を受け継いでいく役割だけを担っていた。
 
その技術は一見すると舞踊のようにも見える動き・一種の作法のようなもので、「時が到来した瞬間にのみ、その意味を表す」と言われていた。しかし日常的には人々の役に立つ訳でもないものだったので、アルスーヤンはその地域では長らく地位の低いシャーマンとされていた。しかしその役割の謎故に、将来脅威に成り得るやも知れぬとして、彼女は異国の宗教的指導者たちに捕らえられたのであった。軍人として落ちこぼれであった少年は、少女が捕らえられた僧院の見張り兵となるが、次第にそのアルスーヤンの「技術」が一体何なのか、強い関心を抱くようになる。しかし唯一の生き残りである当の少女自身が、その技術の「意味」を知らされてはいなかった。そこで少年は、彼女を脱出させ、パータス高原の果ての国にいるという「いにしえの智慧の守り手」たちに引き合わせるために、旅に出る決意をする。脱出を助けた若い一人の僧が、少年にそっと告げた。「まず最初に、お前たちの導き手となるであろう男を探せ。彼は“言い直す男”と呼ばれている。」
 
“言い直す男”は、少年の国からほど近い隣国にいると聞いた。二人は隣国に逃げ延び、“言い直す男”を探すが、戦乱の渦は次第に周辺諸国に及ぼうとしていた。その頃から高原全土には薄っすらとした靄のようなものが漂うようになり、それが太陽からの光を遮るかのようにして、各地の都市を薄暗くしていた。人々はこれらの変化・変動に不安を抱き、様々な預言者の登場も相次ぐ中で、次第に互いへの恐怖と猜疑心にさいなまれるようになっていた。アルスーヤンの少女は、「靄のように見えるのは、ヒトによって形を与えられた、エネルギーだ」と少年に告げる。そしてそのエネルギーに、ヒトの内にあるエネルギーが共鳴することによって、それぞれの内でも同様のエネルギーが形を成し、それらは次第に大きくなり、やがてはそのヒトの思考を支配し、靄は世界を覆う一つの大きな霧、太陽の光を遮る広範な煙になっていくのだ、と。
 
「互いに恐怖を抱き、傷つけあうことは、無意味だ。本質的なエネルギーは、消えるどころか、さらに世界を覆い始め、ヒトを通して形を得ては、むしろ拡大していく。霧の中でこそ、暗躍する者がいる。霧を晴らす、風を起こせ。」
 
隣国で、戦乱を回避しようとする地下組織の人々と知り合った二人は、そのグループを率いる若い男が、不思議な交渉術で人々をまとめていくのを見た。彼こそが“言い直す男”であり、“言い直す”というのは、その地域で古くから伝わる、言葉によって「思考をひっくり返す技法」のことであった。「ヒトの存在自体が、壁のようになり、風を遮ることがある。だからヒトを、風を起こす一枚一枚の羽に、そして風を通す一本一本の管に、変えていくんだ。管には、連なって風の振動を大きくする役目がある。そういう小さな小さな【準備】が、これからやってくる【瞬間】を招くんだ。僕たちがやっていること、それは世界の響きを変えることなんだよ。」
 
…さて、これでこの物語の前半部分なんだけど…高校生の僕にとってはあまりにも壮大な内容過ぎて、全貌を描くには、知識や経験が足りな過ぎた。高校卒業後、どこにも所属しない宙ぶらりんな生活の中で、昼夜を問わず毎日のようにその辺をウロウロしながら空想・妄想に勤しんでいた僕は、物語が自分の中で形を成すにつれて半ば途方に暮れ、それで大学に行って、民族学社会学、心理学や哲学・宗教学を勉強することにした。僕はこの物語の映画化を目論んで(笑)、大学に行ったと言っても差し支えない。
 
この物語には、歌やら舞いやらが多数登場する。だから、僕は10代の頃から「意識的に」世界中の音楽に触れようとしてきた。まぁそういうこともあって、結果的には音楽家みたいな活動に突入しちゃったんだけど…こういう話はキョトンとされることが多いので、あまり多くの人に語ってきてはいない。ともあれ、今の世の中の状態は、ちょうど僕が見た「ビジョン」につながる、上記の物語「シーアルの陽(ひ)」の、前半部分での出来事にすごく似ているところがある。なので、久しぶりに、10代の頃に僕を虜にしていた、この「空想・妄想」の物語を思い出していた。
 
いつか、この物語を形にする時が来るのかな。 

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世の中はいろいろと騒がしいが、我が家は待ち望んでいた春を迎えている

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3月以降の仕事がほぼ全て飛んで、草刈りに精を出せたからか…花が元気(笑)

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近所の友人宅に行くと、学校が休みになって子供たちも味噌作りしてた

 

ノルウェーの風 in 京北

ノルウェーの詩人・児童文学作家・映像作家のオドヴェイグさんご夫妻を迎えての数日。いやぁ、楽しかった…。僕の英語はつたないものだけれど、芭蕉由縁の伊賀や、奈良、京都、特に地元・京北でご一緒しながら、様々なことについて話した。感じることや、表現すること、それから行動することについて。

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ノルウェーの茅葺と日本の茅葺…親しみを感じるのは、意外なところから

共感するところがとても多くて、そして大いに学ばされた。オドヴェイグさんは、詩や文学、映像といった表現だけでなく、環境保全やその他様々な社会運動にも関わってきた人だから。

 

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我が家での朝ご飯。お二人ともチャーミング。

僕は昔から、音楽家の人と話している時よりも、別の表現をしている人と話している時の方が、人間の内奥に音楽の所在を感じることが多い。

今回のきっかけとなったのは、発足以来何かとご一緒させて頂いている国際詩人協会JUNPAの催しだった。その催しに合わせて来日していたオドヴェイグさん・ビョルンさんご夫妻は、その後しばらく日本に滞在するとのことだったので、直観的な思い付きから僕の地元・京北で、地域に住む人々を対象とした催しをやってみないかと持ち掛けてみたところ、オドヴェイグさんが快く了承してくれて、今回の催し「ノルウェーの風」が実現した。

 

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JUNPAの授賞式では、今回来日したユーリさん・オドヴェイグさん、お二人の詩人のために、エストニアノルウェーの音楽を演奏した。

 

僕は30年以上前からノルウェーを含む北欧の音楽は耳にしてきた(むしろ子供の頃から世界中の音楽を聴いてきた訳だけれど)。ノルウェーにはseljefløyte(セリエ・フレーテ)という笛があるけれど、これは「春の笛」で、そもそも、年がら年中演奏するような楽器ではない。季節や自然の流れと共にある楽器が通年で用いられるようになる時…文化に、人間の思考の中に、何が起こっているかを深く捉え考える人は、今の日本にはとても少ない。

 

オドヴェイグさんはハルダンゲル地方のご出身だが、この地方の名を聞くと音楽好きの方々が真っ先に思い浮かべるのが、Hardingfele(ハーディングフィーレ、もしくはハルダンゲル・ヴァイオリン)だろう。オドヴェイグさんの先祖は、この楽器を創始した一人だそうだ。普段から、映像作家の娘さんと様々な映像作品やドキュメンタリーも製作しているオドヴェイグさんは、近々Hardingfeleに関するドキュメンタリーも製作するご予定だとか。

 

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オドヴェイグさんの映画作品「紙飛行機」と「BikeBird」を上映

さて、去る2月29日に地元京北で催されたこの会は、地元京北の友人フェイランさんの会社Rootsが管理する古民家tehenで行われた。集まった人々は、主に近所に住む色んな世代の人々で、子どもやご年配を含んでおり、ポエトリー・リーディング(詩の朗読会)も、翻訳されていない外国語の映像作品を観るのも、生まれて初めてという人が多かった。

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オドヴェイグさんがご自身の写真で構成してくれたスライドショーで、ノルウェーの自然と暮らしを紹介…皆さんは興味津々

まず最初に、僕と洋子さんでノルウェーハリングと呼ばれるダンス曲を演奏。それから睡蓮という曲と、セリエフレーテの曲を。その後オドヴェイグさんご自身の写真によるスライドショーと、ノルウェーの暮らしのご紹介。これがとても良かった。多くの人々はノルウェーのことを知らない。しかし、オドヴェイグさん・ビョルンさんご夫妻が京北に来る途中の道で、山々を抜けていく道に「故郷のハルダンゲルみたい!」と喜ばれたように、京北とノルウェーの田舎はどこか共鳴するものがあるのか…参加された方々は皆、次々に映し出されるノルウェーの自然や田舎の風景に興味津々だった。

 

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ハリングほか、ノルウェーの音楽を三曲ほど演奏

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ノルウェー語と日本語による、詩の朗読

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NHK日本賞のファイナルノミネートを受けた「BikeBird」…名作です

 

その後、2019年NHKの海外短編映画の日本賞ファイナルノミネートを受けた作品「BikeBird」の上映。この映画はアフガニスタンからノルウェーにやって来た移民の女の子の話だが、長年移民問題にも関わってきたオドヴェイグさんの、人々に対するあたたかい目線が伺える、ストレートで感動的な話。
※BikeBirdあらすじ
【ザーラはアフガニスタンから戦火を逃れてノルウェーにやって来ました。通っている学校は遠くて、ノルウェーの友達はみんな自転車に乗っているものですから、ザーラはどうしても自分でも自転車に乗ってみたいのです。
しかし故郷のアフガニスタンでは、女の子が自転車に乗ることは「はしたない」と、後ろ指を指されることなのです。お母さんも許してくれないし、お父さんも絶対に許してくれません。
それどころか、アフガニスタンからノルウェーにやって来た人々は、いつノルウェーを追い出されるか分からない不安の中で暮らしています。ノルウェーで新しい生活に慣れたとしても、もしアフガニスタンに追い返されることになってしまったら、そのことでかえってザーラは傷つくことになるかも知れない。お母さんやお父さんは、そんな心配も抱えているのです。
しかし、ザーラはあきらめません。ある日、お兄さんがノルウェーの女の子とデートしているところを目撃したザーラは、ある作戦を思いつきます】


続けて、昔の作品だけどオドヴェイグさんが書いた児童文学を基にした映像作品「紙飛行機」。英語字幕なしの、原語ノルウェー語のみによる上映だったから、参加者の皆さん、特に子供たちはどうかなぁと思ってたけれど…言葉が分からないはずなのに、子どもたちは多くを受け取っていて、驚かされた。何となく泣いてる子供、自分も紙飛行機を折っている子供、静かに黙って見入っている子供。
何ていうのかな、こういうの。

 

※紙飛行機あらすじ

【一番の仲良しだった、ヤンとヨアキム。二人はいつも、一緒に遊んでいました。ヨアキムは紙飛行機を作るのが得意で、ヤンはヨアキムに紙飛行機のつくり方を教えてもらっていました。
ところがある日、ヨアキムは病院に運ばれていき、そして、そのまま帰ってこなかったのです。
幼稚園の先生は、ヨアキムがどんなにいい子だったかを忘れないでって言いました。でもヤンは納得できません。死んだら消えてしまうのか、それともどこかに行ってしまうのか。ヤンはぽっかり空いた心の穴を埋めようと、いろんな人に尋ねます。
お母さんに尋ねると、お母さんは「土を見て。私たちが死んだら土になるのよ。その土から新しい花や木が育ち、鳥だってその木に住めるようになるの。」と言いました。
友達はみんな「ヨアキムは天国に行ったんだ、神様の所にいるんだよ」と言います。おばあちゃんに尋ねたら、「天国は空の上にあるんだよ」と教えてくれました。でも、飛行機の上からそんなものは見えなかった…。
天国なんて、見えやしない。自分が死ぬまで、ヨアキムに会えないなんて、そんなの待てない。どうすればいいんだろう。ヤンは考えます。】

そういえば、僕たちが日本語で何気なく話している時に、日本語が分からないはずのオドヴェイグさんが瞬間に同じことを話しかけてきたりすることが、度々あった。感性が開いている人って、こういうもんなんだと再認識させられ

 

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買ってきたものは一つもなくて、全てが手作り料理なのが、京北パーティーの素敵なところ

その後、詩の朗読を経て、交流会・食事会へ。京北で行われるこういった催しでは、度々持ち寄りパーティー形式がとられている。買ってきたものなどではなく、それぞれが作ったものを持ち寄る。オドヴェイグさん&ビョルンさんも、そういう空気感というか文化というか…それがとても気に入られたようだった(僕自身、お二人にはこの空気を味わって欲しかった)。

 

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ビョルンさんによる「ノルウェーの歌を皆で歌おう」コーナー

それから改めて、詩の朗読と詩に映像を付けた作品の上映、そしてビョルンさんによるノルウェーの歌を一緒に歌おうコーナー。中でも、ノルウェーの人々の歴史を歌った歌(この地を故郷とすると決めた人々の、道のりの歌)は、内容も面白くて、大きな反響があった。何て盛沢山な企画だろう(笑)

 

   ※この日のために、土山亮子さんが訳してくれたこの歌は以下の通り

              「丘と⼭のあいだ」

           海の近く、丘と山のあいだに
           ノルウェー人は故郷を見つけた
           みずから地面を掘り、土台を築いて
           その上に家を建てた

           彼は岩で覆われた浜辺を見つめた
           それまでこの地に手をつけたものはいなかった
           「地面をならして、村を築こう
           そして我々がこの開拓地の主となるんだ」

           彼は荒れる海を見渡した
           上陸するのは危険なところだった
           しかし海の底には魚がたわむれていた
           このたわむれこそ彼の望む景色だった

           冬の間、時には思うこともあった
           「もっと暖かい地にいられたらなあ!」
           しかし春の太陽が丘の間にきらめく時
           故郷の浜辺を恋しく思った

           そして丘が庭々のように緑になり
           麦の穂先はすべて花で覆われ
           夜が昼のように明るくなる頃
           この地ほど美しい場所はどこにもなかった

 

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最終日お二人が宿泊した、近所のランさんちでの朝食

オドヴェイグさんの表現は、その全ての根底に、自身への問いかけと、人々への問いかけ、そして祈りがある。考えや、主張を、一方的に発しようとか、受け取らせようとするようなものではない。だからこそ、国籍にも世代にも関係なく、様々な人の心に響くのだろう。僕ははからずも、何度も涙ぐんでしまった。僕にしては珍しい。 

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イベント終了後、企画メンバー&フェイランさんちの一家

 驚いたことに、小さな子供たちの多くが集中力を切らさずに、映像に見入っていた。そして自分たちも紙飛行機を作り、耳にした詩を反復していた。また、多くの人が「自分も詩を書いてみたい」と言い、そして近所のおじさんまでが「オドヴェイグさんやビョルンさんと直接、話してみたい」と仰っていた。これはすごいことだと思った。 

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「日本に行ったら絶対芭蕉の生家を訪ねる!」と仰ってたオドヴェイグさん。芭蕉ミュージアム芭蕉になりきっておられます。

 

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奈良案内の際に同行してくれた、ノルウェー語堪能な土山亮子さんと

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お二人とも、お箸には果敢にチャレンジ

Hardingfeleは、旋律を演奏する弦以外に共鳴する弦が張られた弦楽器だ。旋律を奏でれば、楽器に張られた他の共鳴弦が響き、えもいわれぬような響きになる。オドヴェイグさん・ビョルンさんを囲んだ夜は、このtehenという古民家が、そんな楽器になったような夜だった。

 

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3月7日、「踊って旅する世界の国々」スペシャル企画!

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3月7日(土)!いよいよ。

 

2019年春からの講習会で登場した、アルメニアアルバニアルーマニアハンガリーブルガリアギリシャ、トルコ…などの国々の「手をつないで、輪になって踊る」ダンスが、一挙に体験できるスペシャル企画。

 

しかも地元京北の野菜を使った超美味しい「にじいろごはん」プレート付きで、スイーツや飲み物も並ぶ予定。海外でのダンスパーティーのように、生演奏で踊って、時折食べたり飲んだりしながら、楽しく過ごす時間。15時から19時まで、ゆるゆるとやる予定♫

 

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全く初めての人でも大丈夫!どのダンスも、改めて習うことが出来て、この日バッチリ覚えて帰れるはず。にじいろごはんプレートや、飲み物の準備もあるので、「参加できそうな方は、ぜひ早めにご連絡を」!

 

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さて。僕は子供の頃から世界各地の音楽に興味をもって演奏してきたけれど、その大半は、一部の人たちではなく、誰もが歌えるように生み出された民謡で、誰もが踊れるように生み出された舞曲だった。

 

多くの人が身体を動かし、大きな波をその場に生み出すために生まれた音楽を、人々の身体の動きから「切り離し」て、その楽曲だけを人前で演奏する文化・風習に、僕は昔から、どこか近代的で都市的で、ある意味「何かを踏み外してしまった」生き方・ものの考え方を感じてきた。

 

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もちろん、ダンスのために生まれた音楽を、楽曲だけで演奏することにも、意味や面白さはある。人前で演奏すること・舞台という装置上で演奏することによって、その場にいる人間を無自覚に「やる側と受ける側に分けてしまうこと」にも、この社会における意味や面白さがあることも、重々分かってはいる。

 

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しかしなんて言うのかな…それって、音楽文化そのものが、どこか寂し気であるようにも思える。もしかしたら、僕たちは生命について、根本的に、どこか勘違いしている。芸能に関して、何かとんでもない思い違いをしている。

 

引っこ抜いた花を、もとの土の上に返してやろう。僕にとっては、そんな企画でもある。

 

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日時…3月7日(土) 15時~19時

場所…あうる京北(京都府ゼミナールハウス)ホール
   京都市右京区京北下中町鳥谷2
   075-854-0216
   ※JR京都駅から、JRバスで終点「周山」まで、周山からバスがあります(お申込み)
   ※車だと、JR京都駅から約80分、JR二条から約60分、

    京都縦貫道「園部」インターから約30分

参加費…1500円(にじいろごはんの、素敵な軽食付き)
 ※お食事の準備がございますので、ご参加の方は
  なるべく早くお知らせください

講師…村澤由香里
生演奏…きしもとタロー(笛など)
    熊澤洋子(バイオリン、歌)
    江口喜代志(太鼓)
    榊間淳一(ギター)  ほか

アルメニアアルバニアハンガリールーマニアブルガリアギリシャ…いろんな国の音楽が飛び出します!