タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

⑥一枚目のアルバムの7曲め…「アカイツキ」のちょっとバカな物語


アカイツキ/きしもとタロー(ミヤコオチ) The Red Moon/Kishimoto Taro (Miyako-Ochi:New style Quena) - composed in 1997

 

小学校の時、「小説を書く」という授業があった。最終的には自分で表紙を付けて原稿用紙を綴じた後、冊子で提出する事になっていたが、あくまで授業なんだし、時間内で提出できるボリュームの物語を書けばいいものを、僕は書き終えるのに数ヶ月はかかるであろう壮大な一大巨編にとりかかってしまった。当然のことながら、締め切り日に提出できたのは大巨編の冒頭部分のみ。本編が始まる前のプロローグだけで既に提出分のページ数を超えていた。

「紅い月が輝く夜に、それまで存在すら知られていなかった世界各地の古代都市の遺跡や遺物が、海底から、そして連なる山脈の尾根や地底から、月の引力に導かれるようにして次々に姿をあらわす」…その「次々と姿をあらわす古代都市の遺跡や遺物の数々」のシーンだけで、既にテンションがマックスに上昇した僕の文章は、友人たちにも先生にも意味不明のシロモノだったらしく、発表でさわりを読み上げた際には教室が静まり返り、読み終わると先生が困惑の表情を浮かべていた。「えっと、あちこちに話が飛び過ぎてて、意味がよく分からない…これは何の話??短くできなかったの?」

え、あちこち?短く?地球規模に話を展開したら、いきなりの拒絶反応か。ダメだ!この連中には壮大な考古学ロマンが通じない。地球文明が・これまでの歴史がひっくり返るような物語なのに、今まさに月の正体が明らかになり、様々な超古代文明が実はつながっていたという、人類史を塗り替える事実が明らかになる物語なのに(注:小学生の妄想)。「それからどうなるの!?」という声や、「もっと読みたい!」という声が上がるかと思いきや、友人たちは全く無反応。授業であることも無視し、思いつくままに好きなものを書こうとした結果とは言え、虚しさが胸をよぎった。思い返すに僕は、この頃からあまり変わっていないのかも。

さて97年作曲のこのアカイツキは、そんな子供の頃の妄想のために作った、という訳ではない。この曲では南米の縦笛Quena(ケーナ)を基に僕自身が開発した竹笛ミヤコオチを使用している。子供の頃は後先考えずに何かを始めてしまうものだけど、僕はよく発作的に着想を得て、昼夜問わず色んなタイプの笛を作っては、試行錯誤を重ねてきた。家族にとっては大迷惑である。

ミヤコオチはそんな試行錯誤が生み出した笛の一つで、吹き口は昔のケーナのような四角い切込み型、表に6つ・裏に1つの指孔を持ち、左手の人差し指は指孔ではなく笛を保持し、指から歌口に向かって一定の圧力を加えた状態で演奏する。南米音楽と日本音楽とアイルランド音楽等の技術をミックスしたような奏法で演奏するので、少なくともそれらの素養がないとこんな風には吹かないだろうし、通常ケーナと呼ばれている笛を演奏する人で、こんな曲を演奏する人も演奏したがる人もいないだろう。

僕は都節という日本の旋法で幾つも曲を作ってきたが、その旋法の中の二つの音に、それぞれから落っこちた音を二つ付け加えるとハーモニック・マイナーの音階になる。この都節とハーモニック・マイナーに、何か文化的な親和性というか歴史的つながりのようなものを感じ、それら両方の旋法をベースにして作ったのがこのミヤコオチだ。何のこっちゃ、と思われるかも知れない…僕の中にある関心事や知識のおよそ8割位は、他の人にとってほぼ意味不明であろうことは、さすがに僕自身(これまでの人生で)自覚できている。

子供の頃から僕は月の光に興味津々だったけれど、それはある意味「怖いもの見たさ」のような感覚だったと思う。中でも紅い月は「極めてヤバいパワー」を放っているから、それで上記のような物語を小学生の時に思いついたのだと思う。青い月の夜は、どこか静かで澄んだような気持ちにもなるけれど、紅い月が浮かぶ夜は、自分の中の「うねり」のようなものが形を成していくような錯覚が起こる。月からの「視線」を感じてこちらも見返すと、自分の奥底にある得体の知れないものが、自分の及び知らぬところで呼応し始めるような、奇妙な感覚を覚えることがある。どこか怖くもあるけれど、そうしてついつい眺めてしまうのは、もしかしたら自分の内にある何かがそこに映し出されているから…なのかも知れない。

そう言えば僕は笛を作り始めた頃から、笛という楽器にある種の「恐いもの見たさ」を満たしてくれる力のようなものを求めていた。大きな音であるとか、キツい音というようなことではなく、もっと特殊な波長というか振動というか…人間以外のものが至近距離から声をかけてくるような、自分の中の「人間じゃないもの」を呼び起こす呪文のような音。静かで容赦のない「揺さぶり」のようなもの。たぶん僕は笛と言う楽器に、そんな「揺れ・揺さぶりのようなもの」をずっと求めている。

笛を吹いている人は世の中に沢山いるし、笛の音が好きな人も沢山いるだろうけれど…この楽器に求めているものや、この楽器の音色に対して持っているイメージ・こだわっているポイント等は、当然人によって異なってはいる。しかし僕の場合は、特に異質な方かも知れない。もちろん人から注文を受けて笛を作る時や、人に笛を教える時なんかは、自分自身の好みやこだわりは脇に置いてはいるけれど(そうしないと仕事にならない)。

僕は子供の頃から、耳に入る様々な笛の音色や演奏を具現化すべく、次々に笛を試作し演奏してきたから…たいていの笛の音色や演奏スタイルは「過去に一度は通過している」。つまり多くの人が好むような音色を出したり、そういう音色に合致した技術で演奏することは、正直それほど難しくはない。でも「自分が」そういう音色や演奏に魅力を感じているかと言うと、僕は上記のような「揺さぶり」を持っていないものは物足りなく感じたり、幼いものや無害なもののように感じて、それほど関心が持てなかったり、場合によっては無反応にもなってしまったりするから…。

じゃあ、害があるようなものが好きなの?と言われると、それはもしかしたらそうなのかも知れない。やさしいけれどグサッとか、静かだけど激しいとか、柔らかいのにコワいみたいな…もともと人間が「都合よく」自然に求めているようなファンタジー的イメージ世界はあまり好きではないし、むしろそういう人間的な思惑の世界観に、横槍を入れてくるような、不意打ちをくらわしてくるような、少々ヤバい系のエネルギーというか…そういう響きや歌いまわしを持ち得ていなかったら「笛である意味」って限りなく薄くなってしまうんじゃないか、とまで思っている。そして年齢を重ねるごとに、そのような偏愛的傾向?は強まって来てる気がする。ちょっとマズいな。

そうはいってもこの曲も随分昔の曲だから、改めて聴くと自分でも幼いなぁとか若いなぁとか、拙いなぁと感じてしまったりもする。自分が求めているものが変化していくことって、本当に興味深い。

ところでこの曲、「あるところ」でBGMとして使用されていたことがある。「この曲をぜひ、使わせてください」と言われて、「ドウゾ~♫」と言ったっきりなんだけど…曲がかかってる現場には、結局一度も行けなかった。ナマで見ておきたかったな~。

 

プロレスの選手が、リングに上がる時のBGMだった(笑)

⑤二枚目のアルバムの冒頭曲、「ホシノウエデ」

「はぁ、どこの星から来たの?」「ほんとに宇宙人なんだから」…大人になるにつれ、度々そんな風に言われるようになった僕は、確かに小学生の頃、学校や世の中に居心地の悪さを感じるあまり、よく独りで校庭のジャングルジムの上から辺りをぼんやり眺めては「なんでこんなトコに来ちゃったのかな~」と考え込んだりしていた。民族博物館の資料やラジオ等を通して、世界各地の伝承音楽を片っ端から聴いていた中高生の頃には「ここを離れる前に、出来るだけ触れて記憶しておかねば。いつかなくなってしまうから」という、奇妙な焦燥感を抱いていたことも思い出す。
誕生日を迎えた後の最初のアップは、この「ホシノウエデ」。一枚目二枚目のアルバムの収録曲はほぼ90年代の初期作品だけど、この曲だけが2005年の作品。二枚目のアルバムを録音する直前に作った曲で、10分ほどの間に思いつくままにまとめた短い旋律と、繰り返しだけのシンプルな構成、単純な和声進行と5拍子…一度も人前で演奏しないまま収録し、その後もほとんど人前で演奏しなかった、小さな曲。
この曲の解説には、こんな文章を書いていた。“手をつないで輪になって踊る…この曲はそんな輪舞の曲として作った。僕たちはどんなに親しい間柄でも、互いの事をほんの一部しか知らない。ふと目にした何でもない風景、自分だけが知っている出来事や経験、記憶のそこかしこに結晶化した、言葉にできない想いの数々。この世を去る時、自分だけが抱きかかえて持ってゆくような、そんな「時間の集積」が、僕たち一人一人を形作っている。僕たち人間は、人の形を借りた「時のかたまり」だ。人と人が手をつないで踊る時、そんな時のかたまりと時のかたまりが「人の形を通して、つながっている」ようにも見える。別々にあるかのように思える一人一人の物語は、どこかでつながっている。そのことを僕たちは知っているから、手をつないで踊るのかも知れない。「時」と「時」が手をつなぐ…この星の上で。”
昔から僕は、この「時」という言葉に強いこだわりを持っていた。トキという音そのものに、どこか神秘的なものを感じていた。世の中の多くの人は何気なく使っているかも知れないけれど、「時」は時間や時刻といった言葉とは少々イメージが異なっている。「時間」は元々時と時の間(幅)を表す言葉だし、「時刻」はその時間を一定の目盛りで刻んだ言葉。一方「時」は、長さも重さも変幻自在で伸び縮みもする。経験や想いなど様々なものごとを含みやすい言葉で、記憶や場面のような意味合いを持つこともある。
僕たちはこの「時」や、その間や幅である「時間」、それらを「味わうこと」でこの現象世界を生きているとも言える。たとえば一枚の絵にも、画家がキャンバスに向かっていた時間が封じ込められているし、その絵を描くまでの経験や記憶、その時々の想いも絵のそこかしこには封じ込められている。それが写真であっても、彫刻であっても、料理であっても、誰かが鳴らした楽器の一音であっても…形になって表れたものや、形にして表されたものは、それ自身の内に幾つもの時を封じ込めている。
野菜一つでも、収穫されるまでの時間をその内に秘めているし、太陽や土、水や風、他の植物や虫や動物たち、育てたヒトの手やそのヒトの想いなど…様々な関り合いの記憶もそこには封印されている。そんなことに想い馳せるまでもなく、ただ食えばいいじゃないかという人もいるだろうけれど、想い馳せる人々がどれくらい深くその味を味わうかは想像もつかないと思う。
絵を描いたことのある人なら自然に目の前の絵の中に、畑をやったことのある人なら自然に目の前の野菜の内に、「時や時間の所在」を感じることだろう。しかし楽器を作ったことのない人や、陶器を作ったことのない人は、それらの中にどれくらいの時や時間が凝縮されているか想像もつきにくいかも知れない。ましてやそれがモノではなく、演奏だとかアイディアのような「形がないもの」だったら、その背後にどれくらいの時や時間が連なっているのか、イメージすらできない人も多いだろう。
時や時間の所在に「敏感」な人は、必ず何らかの経験や知識を人並み以上に持っている。それはつまり、これまでの人生で、「自分の中にも」幾つもの時を生み出してきた、ということでもある。それは一言で言うと「立ち止まった回数」のようなものだ。
味わうって、「読みとる」ということにも近い。これはただパッと反応するようなことじゃなくて、立ち止まってジッと見るようなこと。今の社会はピンからキリまでの情報に溢れていて、それで思考が振り回されてしまう人も多いから、多くの人が情報や知識を「表面的には求めながらも、どこかで恐れ、避けてもいる」。また「パッと見てパッと反応するのが、感じるということ」と勘違いしたり、「考えたらダメなんだ」と思い込んでしまって、普段から思考すること自体を避けてしまっている人も少なくない。好きだとか嫌いだとか、分かるとか分からないとか…パッと反応することばかりに埋没して、立ち止まることには反射的に不安を覚えてしまう人も多いのかも知れない。
残念なことだけれど、効率主義と損得勘定が蔓延する今の世の中では、立ち止まることも、時間をかけて何かを眺めることも、一つの問いを持ち続けることも、奨励されてはいない。子供たちは次から次へとけしかけられて、やらされて、どこか追い立てられてもいる。「得たいものを得るための時間・周囲の理解や同意や評価や共感が得られるような時間」以外の時間は、まるで無駄で無意味な時間であるかのように思い込まされたら…人間はどこかに向かって忙しく通り過ぎるだけのような人生しか歩めなくなる。
「それどころじゃないからね」「食べていかなあかんから」「仕方ない」「忙しい」「みんな、そうだから」というような、長年月をかけて教え込まれた呪文を周囲の人と唱和しながら、道端や足元に咲いている花にも「気付かないように・見ないように・立ち止まらないように」して通り過ぎるようになると、誰かに出会っても「実は出会えていない」ような状態、そこにいても「実はそこにいることも出来ていない」ような状態になってしまう。これって、話しかけられていても気が付かない、どこに自分がいるかもホントは知覚・認識できていない、催眠状態のようなものだ。
それが人であっても、人の言葉や行動であっても、人が作ったものや表したもの、山や川や海や木々であっても、食べ物であっても…目の前のものを「味わう」ためには、その前で「立ち止まってみる」ことが必要で、実は立ち止まることというのは、「自分の中に時を生み出す」ということでもある。これはとても面白いことなんだけど…世界を観察することで、世界が生まれるというか、自分の中に世界が生まれるから、自分が見えてくるというか…「目の前のものの中に時や時間の所在を感じ、その時や時間のページを開こうとすることで(つまり、味わおうとしたり、読み取ろうとしたりすることで)、人間は自分の中にも、新しい時を生み出す」ということ。これはどういうことかと言うと、「味わっているものが多い人ほど、その人自身もまた味わい深い人になる」ということなんだけど、このことを知らない人は意外に多い気がする。
僕たちは本当の意味で、お互いの前で「立ち止まって」、その時にしかない「時」を生み出すことが出来ているんだろうか。誰かが何気なく口にした言葉や、何気なくした行動にも、その向こう側には幾つもの時が封印されている。目にした一瞬、耳にした一瞬に、その向こう側に長~い時間や幾つもの時の所在を「感じる」こと、それが「時の封印を解く」ということの第一歩と言える。
これは僕のイメージだけど、目の前の人の背後に、大きな部屋のような空間のような、一種の拡がりがあって(背後という位置表現は便宜上のものだけど)…そこには分厚い書物や太い巻き物が山積みになっている。その所在を感じた瞬間に、それらは「手の届かないところではなくなる」。どういうことかと言うと、感じるということは「心がそちらに動く・拡がる」ということでもあって、それは「距離を消す」というはたらきを持っているからだ。
本当の意味でその人の前に立てるなら・本当の意味でその人に出会えているなら、普段は手が届かないような向こう側の奥底の方に山積みにされた書物のページが、すぐ目の前で開き、自分の中の書物に書かれたものと相手の書物に書かれたものが、「かってに話し始める」ようなことが起こる。そこでお互いにとって、まさに新しい世界が開闢(かいびゃく)することもある。
これを僕は「ヒトとヒトは、互いの中にある時を運び、出会わせている」というような言い方で表現している。人はヒトの形をしているけれど…人は「自分が」思考し行動していると思い込んでいるけれど…本当は人はヒト以上のもので、そんな「ヒト以上のもの」同士が、ヒトの形を通して、大きな想いのようなものを、この星の上で形にしていっている。まぁ、そんなことを僕はずっと想像してきた。
なので、自分で曲を作っていながらも、それは作っているのかどうかさだかではないと心のどこかでは思っているし、誰かと出会って話していても、出会って話しているだけとは限らない、と心のどこかで思っている。こういう話をしても、ピンと来ない人には意味不明かも知れないけれど。
そう言えば僕は、人間が何か別の生命体に見えていることが度々ある。なので、目の前の人を「しげしげと眺めてしまう」ことがある。単なるヤバいヤツになりかねないんだけど…たぶん僕の中に、まだ人間になり切れていない部分があるのかも知れない。僕は人間にもミュージシャンにも、成り損なった生命体なのかも知れない。
昔、人形でおままごとをやった経験のある人は分かると思うけれど、子供たちは手に持った人形の「キャラに入り込んで」やり取りをしているけれど、本当のやり取りは、背後にいる子供たち同士がしている。おままごとの間は基本的に子供たちは互いの人形に意識を向けているが、時折相手から思わぬセリフが飛び出したり、思わぬストーリー展開になったりすると、思わず人形を手にした友達の方を見てしまう。そんな経験をお持ちの方もおられるのではないだろうか。
人形があれば、おままごとに参加できる。そこでは、子供たちの暮らしや環境、経験や想いが映し出されている(おままごとのセットは、まさにウツシヨだ)。それと同時に、普段は具現化できていないことや将来の夢、それから普通なら経験し難いことまで…おままごとの中でなら「やっていい」訳だから、そんな経験し難いことまでも友達と一緒に経験できる「おままごとの空間や時間」は、子供たちの成長にとっておそらくかけがえのないものなんだろう。
僕は今の現実の社会を、普段の生活を、そんな風に見ているようなところがあるのだと思う。「時のかたまり」と言ってもいいし、見えているそのヒト以上の「何か」と言ってもいいんだけど、それは固定されて枠で囲まれたような存在じゃなくて、「生き交える無数のものたちが、ある形を成している、瞬間的な状態」っていうイメージかな。それがヒトの身体を「手に」して、時空を超えた?おままごとをしている。
数年前から、自分が住んでいる京北というところで、世界各地(東欧やコーカサスなどが多い)の「手をつないで輪になって踊るダンス」を体験できる催しや講習会を続けているが、僕自身は昔から何でも独りでやりたがる方で、群れることは基本的に苦手で、集団というものをいつも避けていた方だった(笑)なのに、どういう訳か、学生の頃から「なぜ人間が集まると輪を形成するのか・なぜその輪の形態が様々なのか・なぜ手をつなぐのか・肌と肌が触れた時に本当は何が起こっているのか」というようなことに興味があって、卒論でもそういうテーマを挙げていたし、今はこんな企画を定期的に立ててもいる。全く不思議だ。
人が集まって、輪になって踊っている時、おそらく踊っている本人たちが楽しいとか、そういうことだけじゃなくて…何か僕たち自身が認識出来ていない「それ以上のこと」が起こっている気がする。僕たちがつなげているように見えるものは、実は僕たちがつなげている訳じゃないのかも知れない。僕たちがつながっているように見えていても、本当はそれ以上のものがつながっているのかも知れない。僕たちが出会っていても、本当は僕たち以上のものが出会っているのかも知れない。そしてそれは、本当は出会いではなくて…「再会」なのかも知れない。
同じ時代に生まれ、同じ地域で暮らし、同じ学校や同じ家で暮らす者たちは、同じ時間の中にいるように見えるのに、どうして別々の肉体の中で、別々の経験と記憶を重ね、別々の想いを抱き別々の「時」を過ごしながら、「世界や時を分散させている」んだろう…僕はそれがずっと不思議だった。
このホシの上で、同じ時に居合わせたヒトとヒトが、お互いの前で本当に立ち止まって、そこで一緒に互いの中の「時」を開き合い、そこに新たな「時」を生み出せるなら、ココにやってきた理由は今よりもずっと、見えてくるような気がする。
 

④最初のCDの5曲目「アキニナレバ」の、ちょっと不思議な物語


アキニナレバ / きしもとタロー(ケーナ) When Autumn Comes / Kishimoto Taro (Quena) - composed in 1994

精神的に苦しかった時に作った曲が、何故かその後リクエストが多くて演奏回数を重ねていく…なんてことが不思議とある。もちろん曲を作る(何かしらのエネルギーと向き合って形にする)ことで、僕自身はもう次の状態になっているから、演奏する度に苦しかったことを思い出す…なんてことはないし、むしろその逆で、回数を重ねるたびに自分の中では何かが形になり、堆積し沈殿し、落ち着いていくのを感じていたりもする。 そんな作品の中で、これまで最もリクエストが多かったのがこの「アキニナレバ」。1994年の作品で、解説文にはこんなことを書いていた。
“木々の葉が色づく。その時僕たちは「何に」美しさを感じているのだろう。変化はこの世界の在りようそのもので、「変化そのものになっているからこそ」、生命は輝くのかも知れない。 しかし人間は、時として変化を恐れる。この変化の世界に在りながら、僕たちはしばしばこの世界を、時の流れを、変化を、在るままに受け止められずにいる。自分でありながら自分の在りようを受け入れられないかのように。”
僕は子供の頃、兵庫県のとある田舎に住んでいた。付近には茅葺もまだチラホラ残っていたし、ぐるり視界には田んぼが広がり、学校の隣にある広い敷地では筆筒の竹をカラカラと転がしながら乾かしていて、その音が小学校の校庭に響いて聞こえていた。通学路は時折あぜ道に外れ、学校までは子供の足で一時間位、途中すぐに川へ降りて行ける箇所が幾つもあって、登下校中はそこらへんを野犬が歩いていた。友達の中には、冷蔵庫がない家や、吊り橋を渡って行くような集落に住んでる子もいたし、着物を着たお婆さんがいつもその辺を歩いていた。
こう書くと、牧歌的で平和なイメージを持たれるかも知れないが、多くの人々はどこか保守的で、外から移り住んだ人はまだ少なく、あちこちに軋轢が生じていた。その中に被差別部落と呼ばれた地域があったり、朝鮮出身の人々が暮らしている地域があったり、孤児院があったりして、幼いながらも社会の理不尽、そういったものに対する憤りややるせなさを感じるには充分の環境だった。
ともあれそんな訳で、僕の音楽には原風景として山村や農村がある。ちょっと怖いけど心安らぐ森や林、そして今では危ないと敬遠される暗闇、そしてそこに暮らす人々が抱え持つ影の部分が、僕の音楽のイメージには潜んでいるような気がする。子供の頃の僕はアウトドア派でもなかったけれど、それでも季節の移り変わりや野山の様相、田舎に住む人々の心の様相は、多くの影響を僕にもたらした。
そしてその頃、僕はいつも自分の周囲に自分以外の「何者か」の存在を感じていた。その何者かは最初「目」に近くて、部屋にいても外にいても、常に何かの視線を感じる。どこから自分を見てるんだろうと、僕は部屋の壁や天井、家の隅々や周囲の木々や建造物など、あらゆるところを探し回った。その視線を確かめるために、「この辺かな」というところに目玉のシールを貼って、それを改めて眺めてみて、確認したりもしていた。
その目は僕を見てるだけで、特に何もしてくれない。どんなにしんどい時でも、「ただ」見ている。もちろん、見られててイヤな時もあるんだけれど、次第に慣れてきて、それはもう僕たちのような「反応や評価や判断」といったものをしない(そしてそのかわり、助けもしてくれない)、よくわからない者の目なんだと理解するようになった。そして「目」の次は「手」だ。手と言っても、物理的な感じの手ではなくて、形のない手というのかな。
その手は、意外な瞬間に「はたらきかけてくる」。そしてどうもこちらの準備というか、あちらとの信頼関係というのか、何かの条件が揃った時なのかも知れないが、こうしたいというような想いも特にない時、力が抜けて思惑が消えている時なんかに、自分の力や想いだけでは起こり得なかったようなことが、そして自分で望んでいた訳でもないけれど振り返ってみれば求めていたかもしれないようなことが、身のまわりや自分の身に、起こる。「そう運ばれる・そう導かれる」という感じのやつだ。
先だって久しぶりに学生さんと会って、「他力」について話していた。今の社会は、明治以降の近代的な思考パターンに則って物事を捉えている人が多いから、自力は「他人を頼らない・自分以外の助けをあてにしないこと」で、他力は「他人を頼ること・自分以外の助けをあてにすること」みたいな、単純な思い込みを持っている人が多い。実際に、他力とは何を指しているのか、本願って何のことなのか、法然親鸞はどういう時代にあって、どのような思想転換を起こそうとしていたのか、知っている人は少ない。また、自力本願などという言葉が本来仏教にはなかったことを知らない人も多い。知らずに、周りの人たちが使うようにして使っている。
自分だとか、自力だとか、自立だとか、自信だとか…こういった言葉を「近代西洋的な概念の借用」によって使っているうちに、物事を単純な線引きで捉えようとしてしまい、思考パターンが単純化してしまっている人は多いように思う。
たとえば一つの現象は、様々な「はたらき」が合わさることで生じている。自分が変化することは、変化しようとする「自ら(みずから)の」はたらきと、変化へ導く幾つもの「自ずから(おのずから)の」はたらきが合わさって、自分が変化「することになった」というわけ。では、そのような「はたらき」の邂逅は、どんな風にして起こっているのか。これは昔から、僕の大きな関心事だ。
僕たちは秋の黄葉・紅葉を眺めて「きれいだな~」って感じるけれど、あれってなんでそう感じるんだろう。単純に黄色や赤の色?それともいっせいに色が変化するという現象に対して?夏の緑だって綺麗なのに、秋の黄葉・紅葉の時期は多くの人にとって、どこか特別だ。 ちなみに、物体は光の中のある部分は吸収し、ある部分は反射する。その反射した部分の光…つまり跳ね返された光を人間は「その物体の色」として認識してるから、つまり葉っぱそのものは(緑色を吸収しないで跳ね返すから)緑色に見えているけど、ホントは?緑色じゃないとも言える。緑色が人間に与えている恩恵は計り知れないけれど、そういった関係は、どっちのはたらきで成り立ってきたのだろう。どっちのはたらきかけから生じていったのだろう。という風に、「どっち」とか考えているうちは、恐らく浅慮な答しか出て来ないだろう。
そして秋になって葉っぱが色を変えるのは、単に「段々枯れていってる」からだけじゃない。実は冬に向かって太陽光線が弱くなり、気温が下がり、これから水分を節約しないといけない状況を迎えると、木は葉から枝にクロロフィルを分解し移行させ、光エネルギーが過剰にならないよう、つまり光合成を効率よく維持するために色を変え、最終的には葉へのエネルギーを止めて足元に落とす。「そうなってきたから、こうしようかな」とかじゃない。「こうしてるんだから、そうなってよ」とかでもない(意味、伝わるかな)。
時が訪れた際に、躊躇なく変化を迎えられるのは、実は既に、「常に変化してきているから」だ。変化していないように見える時でも、変化し続けている。そしてその変化を自ら感じ、その変化を自ずから知らされているからこその、ある種の「信頼関係」のようなものがこの現象世界にはあって、だからこそ「待っている訳ではなく、待っている」んじゃないかなと思う。ここに自力や他力の線はない。そこに人間が線を引くとしたら、恐らく浅慮な思い込みしか、生み出されないだろう。
というようなことを考えながら、なかなか変化できないでいる自分に対して暗澹たる想いを抱き、そして暗澹たる想いに沈む自分に対して何故?と自問を繰り返していた時に作ったのが、この旋律。
そう言えば昔から、どういう訳か「悩み事あまりなさそう」「いつも自信ありげ」「楽観的で元気」「裕福で生活に困ってなさそう」等と、周囲の人から思われやすかった。何故だろう、顔か雰囲気か、はたまた言動か??それは分からないけれど、人って基本的には勝手なものだし、事実を知ろうとするより、手元の少ない情報で勝手な物語を作ってしまうものだ。そしてそれを、ついつい(無責任にも)共有したがるもの。基本的には、他人からの誤解や曲解、思い込みも「悪意はない」として放っておくしかない(場合によっては、悪意も少しはあるかも知れないけどww)
でも、そもそも僕の事実を「知らなくていい人たち」は、僕が「近しい関係」を築く必要が、本当はない人たちがほとんど。そして「近しい関係」になったら、誤解や曲解は「自ずと」、生じにくくはなる。誤解とか不理解、そして認識されないことや評価されないことって、人間が一番苦しむこと…って言ってる人もいたけれど、人知れず咲いては散っていく花だってあるし(本当は大半がそう)、誤解されている動物や植物だってこの世にはいっぱいある。
とは言え、「いる」だけでそこに「清々しく、いられる」…というような境地には、なかなか届かない、人間としての自分もある。でも、そういうところに向き合っていたいという想いがあるから、こうして常に「問いかけ」が、どこからかともなく、もたらされるとも言えるんだろう。
ところで蛇足ながら「秋」という言葉は、ついつい収穫のイメージから「飽くほどに」の飽きが語源、と思ってる人も多いけれど、日本語全てを農耕と結びつけるのは無理があるし(近代の悪い癖)、飽くにも更に元の語源がある。赤、明、開などの文字が当てられていることでもわかるように、「ア+カ行」の言葉には元々「エネルギーが満ちている」というような共通のイメージがあったらしい(アはエネルギーや根源的な力のイメージで、カ行の音は顕現を表す音だったという説がある)。そう思って秋を眺めてみると、人生における秋は、なかなか良いものだということがわかる。

③最初のCDの4曲目「マナツノカゲ」の、ちょっとロックな物語

もう、お気づきだと思うけど…僕の最初のアルバムには「春夏秋冬」、それぞれの季節名をタイトルにした曲が入っていて、このところ週末ごとにそれらの動画をアップしている(今回遅れたけれど)。次に紹介するこのマナツノカゲは、その中で最も人気のなかった曲で…(笑)実は1997年に作ってから人前で演奏した記憶もあまりない曲。もしかすると意識的に避けていたのかも知れない。なにしろ僕はこの曲を聴くと、世間の潮流から大きく外れていった10~20代の頃の、小恥ずかしい出来事の数々を思い出してしまうから。
昔から僕は、年齢がずっと上の人たちと親しくなりやすかった。同学年の連中とは話も合わないし、好みも合いにくい。音楽の好みも、ずっと上の世代の人々との方が合いやすかった。昔の歌には、風情があったし、世代を選ばない普遍性があったように思う。それはまだ芸術や文芸が、本当の意味で暮らしに近いところにあった証拠じゃないかと思う。
抒情歌と呼ばれる音楽が沢山作られた時代や、フォーク(日本のフォーク)の時代には、春夏秋冬をうたった歌や、風土や郷土をうたった歌が数多くあった。愛着あるものが近くにあり、それらに対する想いを多くの人々がまだ共有していたからじゃないだろうか。
そんな抒情歌やフォークの時代もやがて過ぎ去り、「しらけ」という言葉が蔓延し始めると、抒情的な旋律も、熱を持った歌も、世の中から次第に姿を消していった。社会や政治に疑問を持つことは段々流行らなくなってきて、テレビ礼賛と市場経済の暴走に拍車がかかり、人々の関心は都市型の暮らしと、そこで回っているカネに集中した。「稼げない生き方なんて、もう流行らない」「乗っかれるところに乗っかって、得るものをバッチリ得る方が賢い」てな感じで、認知や評価・カネに代わらないようなものは、限りなく無意味であるかのように人々は言い始めた。あさましいことが小賢しいことが、利己的であることが効率主義であることが、もはやクールであるかのように置き換えられていく時代が始まった訳だ。
大学進学率が上がり、受験勉強、就職活動…それなりの人生を歩もうとするならば、選択肢は他にないと言わんばかりの画一的な価値観の蔓延で、メディアや教育の現場は、確実にどこか「おかしく」なり始めていた。田舎では過疎が進み、乱開発が繰り広げられた。都市文明と市場経済の「大はしゃぎ」と、地域社会の崩壊・自然環境の破壊という影の過程は、まさに同時進行だった。
その後、校内暴力や非行が社会現象のようになり、ツッパリがイケてる・カッコいいみたいな雰囲気が漂い始めると、テレビやラジオからは「大人は分かってくれない・教科書は何も教えてくれない」といった、学校や社会への文句、若者の嘆きと幼稚な反抗の歌が流れ出すようになっていた。もちろん、共感を呼びカネになるから、業界はこれらを商品化する訳で (当時僕はそういう歌を「泣き言ソング」と呼んでいた)、大多数の共感を呼ぶ限り、不安も不満も儲けのタネとして煽られる。不良ぶった歌や、幼稚な恋愛の歌、都会的なアヴァンチュールの歌、ノリで作ったようなアイドル・ソングが、ファッションとしてトレンドとして、ドッと世の中に溢れ出した時代だ。
音楽業界にはニューミュージックという、極めてテキトーなジャンル名が登場し(笑)、レンタルショップの服で着飾ったようなサウンドが世の中の主流になってしまった(もちろんこのジャンルに含まれる音楽を否定している訳ではない)。いよいよ時代は、個々人の利益追求とその競争を最優先させるようにして暴走を激化し、この空気感はその後バブルがはじけるまで膨張し続ける。
小学4年で学校に絶望していた僕は、その後軍国主義の名残のような雰囲気が漂う男子校に進み、極左極右の両翼の教師に囲まれながら、そんな社会への疑問をため込んでいた。何かが、狂っているんじゃないか、いやそもそも世界はずっと狂っていたのか、ではいつからこんなに狂った状態のままなんだ。
僕ははしゃぎ回る世の中にも馴染めず、下らない価値観を押し付けて来る学校にも馴染めず、テレビやラジオから流れるニューミュージックとやらにもさほど興味を持てず、誰と共有するでもない自分の世界を独り模索していた。
高校を卒業したら、まずは「宙ぶらりん」になろうと僕は決めていた。小学生の頃から雲水や修行僧に憧れていたから当然と言えば当然なんだけど…生まれてこのかた、常にどこかに所属し、帰属させられてきたから、そのおかげで帰る場所と寝る場所はあるものの、何に対しても感覚的に「身一つの状態で対峙できていない」という違和感のようなものがあって、これは当時の僕にとってかなり「気持ちの悪い」ことだった。もちろんまだ一人で生きていけるような力を持ち得ている訳でもないし、家族を不安のどん底に陥れる覚悟もある訳ではなかったけれど(とはいえ両親を随分、絶望に追い込んでしまったが)、一旦自分自身を何らかの形で「社会的思い込みの外側」に置いてみないといかんなぁと思っていた訳だ。
と言っても、やってたのは大したことではない。中高生の時に独りで山の中をほっつき歩いていたのと変わらないんだけど、まずは「先ほど地球に降り立った宇宙人のように」、人間の文明、構造物、街、そういったものを改めて「肌で」感じてみようとした(文字通り)。真夜中にパンツ一丁で外へ飛び出し(一応最悪の事態を想定してパンツだけは脱がなかった)、自転車で様々なところを訪ね回ったのも、この第一次宙ぶらりんの頃。昼間に車が行き交うアスファルトの上や、線路のレールの上で寝てみたり(何度か怖い経験をしている)、学校や施設などを訪れて(侵入し)そこらで寝てみるとか、あらゆるところを触りまくるとか、勝手にその辺で一人お茶会をするとかして、その格好のまま闇の中を放浪…みたいなことを度々繰り返しながら、高校卒業後の僕は16歳の頃に見た白昼夢(過去の投稿で紹介したビジョン)の映画化を目論んだりしていた。たぶんその時、僕を暗闇で目撃した人は、ブリーフをはいたグレイか何かだと思ったに違いない。
その後、急に思い立って大学に入ったものの、世の中はバブル時代に入りつつあり、就職も空前の売り手市場だったが、僕はそんな社会を「狂っている」と感じていたし、銀行システムは近く破綻し、法律も形骸化し、貨幣経済は遅かれ早かれ崩壊するだろう、なんて当時から言ってたくらいだから(もちろんこれは一部の友人たちから大批判を浴びた)、就職活動に精を出して内定の数を競い合ってる同学年の動向には興味すら持てず、独り異質な世界に向かっていた(つまり第二次宙ぶらりん期に突入した訳だ)。それよりも色んなアルバイトをしながら、社会の異なる層に生息している人間を色々見てみたい、等と思っていた。ちなみに最初はそんなアルバイトの一つが、音楽でもあった。
そんな訳で僕は、バブルの恩恵に与ったことがない。高校卒業時の将来は白紙だったが、大学卒業時も将来は白紙、もちろん音楽家になるなんて決めてもいなかったし、バブルの頃はとにかく世の中につながるつもりがなかったから、ひたすら日銭を稼ぐ程度のことしかせずに趣味に邁進していた。卒業後一年経った頃、同学年の連中はまだろくに働けていなかったはずなのにガッツリ給料をもらって暮らしていたにも関わらず、久しぶりに会ったら「いやぁ、入ってみたら思ってた感じと違ったから、もう会社かえよっかな~」なんて宣っているものだから、この人たちは一体どうしちゃったんだろうと思っていた。
僕はその頃、深夜の梅田東通り商店街で、笛を片手に終電逃したサラリーマンたちにキャンディ・キャンディ歌わせたり、ペルーのダンス曲でルンペンたちを踊らせたり、地元ヤクザの襲撃を交わしたり、警備員たちの追撃から逃げたりしていた。あの頃はいろんな事件があったなぁ~。後に音楽の活動を本格的に始めた頃、ホールでコンサートをしながら当時のことを思い返した時は、ちょっとめまいがした(笑)
さて、冒頭で書いたようにある時代以降、この国では春夏秋冬をうたう曲が急速に減り、サクラやらクリスマスやら、ステレオタイプな季節ネタの商品だけが、しかるべきタイミングに生産され店頭に並ぶ状態になってしまったが、僕のアルバムにある春夏秋冬タイトルの曲は(フユノダンスやハルノヒの物語で説明したように)、それぞれの季節を絵的に描こうとした訳ではない。季節って、人生における様々なタイミングの象徴でもあって、僕にとってのマナツは10代から20代にかけての、想いだけ前のめりだった時期のような気がする。
社会はギラギラした欲求を渦巻かせて熱中症のようにどんどんおかしくなっていたし、時代が落とす影はどんどん濃くなっていたし、僕自身は「こんな社会には最低限しか付き合えない」「学校には、下らない思い込みを押し付けられて、自分の時間を浪費させられた」と感じつつ、自分の時間を取り戻そうとしていた。でも実際には、身体的にはエネルギーが満ち溢れているのに、どうしようもない位に世間知らずで、知識もさほどなく、バカバカしいことで更に時間を浪費しながら、ただたださまよっていただけなのかも知れない。
この曲を聴いて「東南アジア・ロックって感じ」と言った人がいる。確かに音階的には東南アジア的な要素もある。アイリッシュ的な旋律が日本の陰音階に変化し、それが東南アジア的な音階に変化する…といったヘンテコな曲だけど、どういう訳か日本の音階をキャッチする人は少ないみたい。
それにしてもロックか…エレキ使ってたらロックとか、ドラムセットで8ビート系鳴らしてたらロックとか、それくらいの「何となく」なイメージでしかロックを捉えてない人が多いのが最近のこの国だけど、そもそもロックとポップスって大きく隔たったものだって認識している人は、今どれくらいいるんだろう。ちなみに僕は10代の頃、パンクやハードやプログレも随分聴いていた。怪しげなレコード屋に通っては、インディーズ系も漁って聴いていたし。ただ、パキスタンスーフィズム系音楽やガムラン音楽なんかと同じ感覚でロックも聞いてたから、他の人とは聴き方が違うかも知れないけれど。
個人的には、ただ「大人に対する若者の叫び」のようなものは、ロックと思って聞くことが出来ない。もしそれがロックならば、ロックは子供の音楽ということになってしまう。プロテストソングでもなく、風刺も怒りも哀しみもない、ただの8ビートの、ホレたハレたの歌は10代ターゲットのポップスと言った方がいい(でもホントはカーペンターズ位のクオリティじゃないとポップスとは呼びたくない)。
よく分からんこと言ってるな、と思われるかも知れないけれど、基本的な段階から電気の力を借りて(〇電様から電気を送って頂いて)、指でつまみを回して音色作って音量上げただけなのに、爆音ライブとか言って盛り上がってるのを見てしまうと、ロックどころか、いきがった先進国の現代っ子って自己紹介してるみたいやんか、と思ってしまう。僕は中学高校、軍隊式トレーニングと体罰で部員が次々に泣きながら逃げ出す暴力ブラスバンドにいて「校庭の向こうの体育館の窓ガラスを、最大音量で割れ!割るまで戻って来るな!」というような、意味不明の理不尽が吹き荒れる中で生音・爆音を追求してたから(笑)つまみ回してインスタントに大音量で浸ってる連中を見ると、ちょっと待てや、ロックなん?そのマインドは?と少々心萎えてしまったりする。
僕にとってのロックのイメージは、もしかしたら徒手空拳ということなのかも?ならば、生音勝負の路上で爆音出すために息圧と腹筋鍛えてたあの頃の僕は、それなりにロックだったのかも知れない(僕は路上演奏で電気引っ張ってやってる連中は、そもそもまともなミュージシャンと認める事が出来ないww 肉声で人の足止めてた、昔の路上歌うたいのトンガリとパッションを拝ませてやりたい)。そしてバブリーな世の中の旨味も吸わずに、灼熱の砂浜で鉄材かついで死にかけたり、ヤクザのシマで投げ銭稼いでたあの頃の僕は、確かに(ちょっとは)心のどこかでロックを目指していたのかも知れない。
まぁ僕の「夏の想い出」回顧…みたいな曲なのかも知れないな。やっぱり恥ずかしくて人前であんまり演奏しなかったのかも。

②最初のCDの表題曲「ハルノヒ」の物語

小学校の時、坂本九の映画「泣きながら笑う日」を観に行った。一部の地域でしか上映されなかった映画で、しかも彼の遺作となってしまった映画だけど、観たことのある人はどれくらいいるだろう。小学生の僕は、「泣きながら笑うって、どういうこと?」と不思議に思いながら、この映画を観たのを覚えている。そして最後のシーンで、このタイトルの意味を子供ながらに理解した。音楽に限らず僕にとって心惹かれる表現というのは、この映画のタイトルに象徴されるような、分けることのできないエネルギーが混ざり合い絡み合い、融け合って一つになって表されているものだ。
好き嫌いでものごとを分ける癖がつくと、視野は極度に狭まるし、自分自身をより知ることは難しくなってしまうだろう。同じく自分の感情を喜怒哀楽に分ける癖がつくと、逆に自身の感情を見失いやすくなる。今は、人間の機械化・器物化が進みやすい時代だ。二項対立的に物事を振り分け、分けられないものを分ける癖がついてしまうと(分けることができると思い込むと)、その人はあっという間に「反応と反射」しかできなくなる。これは極めて自覚しにくい罠で、自分は思考できている・判断できていると「思い込んでしまう」ばかりか、そのことを指摘されても(機械のようになっているから)「そんなはずはない、と反応するだけ」になってしまう。良い悪い、好き嫌い、正しい間違い…対義語に見えるものは全てこの罠を含んでいる。
近頃は「おこる」ことや「いかり」を抱くことを、過度に避けようとしてしまう人が増えた。もちろん平和的であるのはいいことだが、怒りを「悪い」感情と決めつけ、この感情が生じること自体を恐れて、観念的に避けようとするために、かえって不自然な思考状態に陥ってしまう人は少なくない。間違いを犯したくない、ことを荒立てたくない、自分を制御したい、いい人でいたいといった想いは、裏を返せば自己防衛でもあり、知らないうちに自己矛盾を引き起こしてしまっている。
そう言えば、昭和生まれの人はとかく「怒りやすくて」、コワいイメージの人が多いと、平成生まれの人から思われやすい…と聞いたことがあるけれど、ホントかな(笑)でも確かに子供の頃は、怒っている人をもっと沢山、目にしていたような気もする。まぁでも荒波や突風だって自然の様相そのものなんだから、人がそうであってもそれはそれで自然で、過度に制御しようとする欲求の方が、どこかおかしいのかも知れない。野坂昭如大島渚をブン殴った時は笑ったなぁ~。
「怒る」は元々「起る」と同根の言葉で、そこには本来ネガティブな意味などない。「いかり」も「いかり肩」というような言葉がある通り、角張るとか、尖るとか立つといった意味の言葉だ。氷だって凍って結晶化したら尖る。水晶だって尖ってる。エネルギーの波が起こったり、その波が鋭角に立つようなことは、それ自体「良いも悪いもない」。漢字の持つ印象や概念にあまりにも左右されている気もするが、言葉に対する思い込みは、その社会に生きる人々がどのような思い込みを抱いて、それにどのように囚われているかを如実に表している。
そういえば僕は若い頃、よく「尖っている」とか「いつも怒っている」と言われていた。別に怒っていないのにそんな風に言われたりするので、ある日意を決して友人に「なんでそんな風に見えるのかな」と尋ねてみた。すると、「目がデカいからそう見えるんちゃう?」「一生懸命喋り過ぎてるからじゃない?」「基本的に勢いがあり過ぎるんちゃう?」と言われた。それ以来ちょっと気を付けるようにはなったんだけど、考えてみれば目が小さくなる訳じゃないし、そんな器用に自分の勢いを調整できる訳でもないから、たぶん状況はあまり変わってもいないかも。
ところで、人間には「静かな怒り」というものがある。英語の「怒る」は、かつては「悲しむ」を意味する単語だったらしいが、実際ある種の怒りや、ある域を超えた怒りは、しばしば「かなしみ」を伴う。かなしいとは「~しかねる」、つまり「想いや力の及ばないこと・届かないこと」を表した言葉と言われるが、そのかなしみも限りなく深く大きくなると、「いかり」はある種の「いのり」に姿を変えてゆく。そのような体験がある人も、きっといるんじゃないだろうか。
昔、小学校のバス旅行で歌の順番が回ってきた際に、大声で「山谷ブルース」を歌って同級生たちから白い目で見られた僕は、当然のことながらその後趣味を世界規模に拡げ、中学生くらいになるとラジオを通して日本や各国のフォーク…特にチリのヌエバ・カンシオンを愛聴するようになっていた。中でも反戦歌や反体制的な歌、政治的な内容の歌に傾倒していたから、当然のことながら街やテレビで耳にする「流行り歌」の大半に僕は興味が持てず、それどころか「別にこんなの、作らなくても良かったんじゃないの」とさえ思っていた。
歌わずにはいられなかった・歌ってなかったら死んでたかも…というような「必然性」を感じさせる歌と、そうでない歌(たとえば「自分でもオリジナル作ってみよう~♫」程度で作られた歌や、商品として小器用に作られた歌など)は、同じカテゴリーに入れるのに少々抵抗を感じる。それらが一緒に並んでいるようなCDコーナーを見る度に、この世界の多様性の不思議と、人間の所業のデリカシーの無さというか浅慮に、いちいち気が遠くなっていた。
それにしても(たとえば有名なところで言うと)ピート・シーガーの「花はどこへ行った」にせよ、ボブ・ディランの「風に吹かれて」にせよ、ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」にせよ…ハードな時代に多くの人々に共有された反戦歌やプロテストソングは、どうしてこうも曲調が叙情的で、歌語りが静かなのか。実際に悲劇がすぐ傍らにあった時代の歌ほど、旋律が素朴で優しい。言葉も決して直接的ではない。We Shall Overcomeにしても、旋律そのものは抒情的だ。銃弾に倒れたビクトルの歌は、何故こうも柔らかく優しいのか。
ロックやヒップ・ホップ等の、直接的な歌詞や、勇ましくて半ば攻撃的なシャウトやサウンドは、逆に実際の戦争や圧倒的な悲劇からは遠く離れた場で発せられ、そこで共有されているものが多い。この違いを皆さんは、どう感じるだろう。僕は、大音量系の勇ましいビートやシャウトに彩られた音楽、つまり「怒りを発散し、アピールする音楽」に、安全地帯にいる人間の匂いを感じることもある。勇ましいことを言って悦に入るタカ派の政治家は言うまでもない。場合によっては、個人的なフラストレーションの吐露を、社会に対しての怒りで覆い隠しているようなものだって少なくない。ある程度大人数の人々と共有し盛り上がることができれば、とりあえず充たされてしまうような…そんな刹那的なエネルギーの波、小さな怒りしか感じられないことも多々ある。
怒りの度合いを、他人と比べることは出来ない。「普段から群の中にいる人々」は、互いにそれを「分かりやすい記号にして」表し、確かめようとする。「大きくあらわになっている」怒りほど、大きいものだと多くの人は思い込んでしまう。僕は、そんな「記号化された怒り」よりも、それが怒りなのかどうなのか、もはや分からないものになっている表現に心惹かれる。一人で静かな怒りを湛(たた)えている人間から生み出された言葉や旋律に、祈りに似たものを感じる。
さて、前置きがいつも通り長くなったけれど(笑)…最初のアルバムの表題曲「ハルノヒ」は1993年の作品で、これは漢字にすると「春の陽」つまり春の太陽の光のこと。といっても、春に作った曲でもないし、春という季節を絵的に描こうとした訳でもなかった。というよりも、僕の作品のタイトルの大半は、何かのたとえでしかなかったりする。
「花が咲く」というのは、「ハナ(先端)が、サケル(裂ける)」ということで、言うなれば茎の先端が裂け、それまで姿を見せなかった生命の本質が、色となり形となり表れること。冬/ふゆ(殖ゆ)の間に、見えない土の中で静かに「殖(ふ)えていた」エネルギーが暖かい光を受けて振動を上げ、土や植物をふくれあがらせると、充満したそれらの表面がハル(張る・腫れる・晴れる)季節がやってくる。それぞれの先端が割れ、内なるものがあらわになると同時に、プチプチとかパシッとかいう笑い声(割れて出でる声)が、そこら中に響き渡る。笑うと割れるは、元は同じ言葉だ。
われる(割れる)、さける(裂ける)…それは万物を「ほどく」ことでもあって、しめつけていたのがゆるめられ、いっぱいにまで「張っていた」ところに亀裂が走り、閉じられていたものが開き、隠れていたものがあらわになり、新芽が顔を出す季節、それが春だ。つまりあちこちで、「種明かし」が「おこる」。
人間は辛い時ほど、そのさなかにその経験の意味や理由を知りたいと願う。何故こんなことになってしまったのか、何故こんな目に合うのか、何のためにこんな経験をせねばならないのか、この今にどんな意味や理由があるというのか、といった具合に。しかし、それらの種明かしはずっと後だ。
また、人に言えない想いや、表に表せない想いほど、自分の中で静かにふえては拡がる。それらは表に表されているもの以上にその人の真実となっているが、「外に表されない限り」、人から見えていないもの・見ようとされていないものは、自分以外にとっては「無いにも等しいもの」なのかも知れない。もちろん、それらが実際に無い訳ではないが、僕たちは本質的にどれほど親しくても、互いを全て知り得る訳ではない。つまり、自分の真実を本当の意味で知ってもらうことは不可能だ。
この現象世界はそういうところで、ここにある大半のものはそういう状態にある。形にして表されているものごと、知り得ているものごと、それらはほんの一部でしかない。見えないからこそ、人は勝手なストーリーを描く。本質的に知り得ないからこそ、人はそれ以上見ようとしていない。
しかし誰もが、何かに受け入れられたいと願っている。知って欲しい、分かって欲しい、そんな叫びを内に秘めている。その大半が放置されたこの社会で、そんな願いの数々は土の中で拡がり、殖え続けている。
僕たちは、「種明かし」を互いに目にすることはできるだろうか。巻物を固く閉じていた紐がほどかれ、拡げられ、内に膨れ上がったエネルギーがはじけ、それまで見えていなかったもの、形となっていなかったものが、姿を表す時、思い込みや価値観に亀裂が入り、装いが崩れ、仮面がはがされ、嘘がさらされ、隠していたものが勢いよく互いの間に飛び出す時、万物が割れる音や裂ける音が悲鳴に聞こえるだろうか、それとも産声や笑い声に聞こえるだろうか。亀裂の音が響き渡る中で、祈りのような優しい旋律を歌うことはできるだろうか。
この曲も思えば長らく、人前で演奏していない。優しいメロディですね、と言われたことがあるけど、僕の中では、土中の闇で拡がる静かな怒りと、無いもののようにされながら在り続けた広大なかなしみが、この曲の軸になっている。春の光を、優しい光ということも出来るだろう。暖かい光ということも出来る。しかしそれは、割れて、裂ける時を「容赦なく迎えさせる」光でもあり、だからこそその奥底に「肯定と否定という二項対立を消し去るほどの圧倒的肯定」を持った光だ。
僕がこの曲を作った時は、僕が一番尖っていた時期なんじゃないかなと思う。自分の愚かさに対しても、無力さに対しても、世の中の理不尽や、日々のやるせなさに対しても、自分の中にはいつも大きな波が「おこっていて」、その脈動は冷え切って結晶化し、針や棘のように尖っていた。いかりとかなしみの差が、ぼんやりしていた。
僕はたぶん、人に届けるためだとか、聴かせるために曲を書いたりして来ていない。振り返ると、それがよく分かる。自分の中のエネルギーに、自分が向かう先を指し示すために、音楽をしてきたんだろうなぁ。

①最初のアルバムの冒頭曲「フユノダンス」


フユノダンス / きしもとタロー(ケーナ) Winter Snow Dance/Kishimoto Taro (Quena) - composed in 1995

最初のCDの冒頭曲「フユノダンス」の物語(縮めたけど長い)

先日、闘病中の母が突拍子もなく昔のアルバムを取り出してきたら、そこには10代20代頃の僕の写真があった。それらを見て、これまで感じたことのない衝撃を覚えた。自分である実感がとんでもなく薄く(もちろん記憶が全くない訳じゃないが)、まるで自分によく似た他人の写真を見せられているような、もしくは知りもしない前世の話を聞かされたみたいな感覚がして、過去の自分と今の自分に、ある種の「連続性の無さ」を見出して愕然としてしまったのだ。昔の写真を見て、ここまで違和感や衝撃を感じたことは、これまでなかった。

さて、僕はこれまでにCDを何枚か出してはいるが、その全ては自分の作曲作品で、それ以外の既存の楽曲、南米系やアイリッシュ系、その他様々な地域の音楽…つまり最も曲数が多い、自分が学んできた音楽の数々は、これまでCD化してきていない(その理由はここでは長くなるので、触れないが)。

作曲作品の場合、湧いてくるイメージを形にしてしまったら、もう自分としてはほぼやるべきことを終えてしまったような感覚が僕にはあって、自分で演奏していても、もはや自分が作ったものなのかどうかよく分からなくなっていることが多々ある。考えてみれば、これまで色んな所で演奏してきたのに、それらの大半の記憶が飛んでて「あれ?ここって演奏に来たことがある…」というようなことが、僕の場合ホントに頻繁に起こる。これは単に、記憶力に問題があるということなのかも知れないが。

ご存知の方もおられるが、僕は音楽活動を始めて15年近くレコードやCDといった「自分の録音物」を作って来なかった。録音物って、営業資料でもあり物販商品でもあるから、僕のような音楽家には必要不可欠とも言えるものなんだけど、まともな資料になるものを作らないまま、ずっと長い間仕事を受け続けていたということだ。フツーに考えると、音源サンプルつまりパッケージ化した「持ち運びできるもの」がないと、どこかで使ってもらうとか、それによって広く知ってもらうなんてのも無理だから、仕事にならない(仕事が来ない)。極端に言うとこれは「僕の音楽を聴いてもらう・知ってもらうには、僕の演奏会に来てもらう他ない」ということなんだけど、よく知りもしない音楽家の、内容も分からない演奏会にいきなりわざわざ足を運ぶ人なんて、そういない。

だから、「それにも関わらず」僕の演奏会に「来ることになった」人たち、僕の音楽を直接「聴くことになった」人たちに対して、いつも「何でここに来ることになったんだろう?何で僕の演奏を聴くことになったんだろう?この人たちは~」なんてことを考えながら、客席を眺めている…僕の音楽活動は長い間、一言で言ってしまえば、そういうものだったような気もする。人生が墜落しなくて良かった。

そういう人たちの前で何度か演奏して、「それっきり」になっている作曲作品が、僕にはどれくらいあるだろう。まぁ数える気にもならないし、実際はっきり覚えてもいない。そんな様子を目の当たりにした様々な方々から「録音物をちゃんとそれらしく作れ」とか「もっとネームバリューのある共演陣で脇を固めろ」とか「ちゃんと皆の知ってる有名曲をやれ」とか「ターゲットを考えて見せ方も考えろ」とか「ちゃんと営業回ってしっかり宣伝しろ」とか「コネをつかめ」とか「いい加減東京へ出ろ」とか(笑)、いろんな助言を頂いてもきたんだけど、そういう助言を下さる方々と僕とでは世界観が離れ過ぎているし、そもそも僕は基本的に人の言うこと聞かないタチだから、助言をもらう度に、だいたい逆のことをやって来てしまった。たぶん、本当に心配してくれてたのに。

だから僕が「自分の作品を録音して形にしよう」と思い立ったことは、自分としては大変革だった(これが言いたかったのか)。でも、録音はしたものの、僕は自分の作品全てを著作権登録するつもりはなかったし(その辺のことも長くなるのでここでは触れない)、販路もろくに考えてなかったから、まぁ形にしたというだけなのかも知れない。今、僕の周りにいる人で、僕の作品群をちゃんと聴いたことのある人は少ない。イベントなどで耳にすることはあっても、僕の音楽作品はあまり知らない、という人との付き合いの方が、圧倒的に多い。僕はそういう音楽家なんだろう。

ともあれ、そうして最初に作ったCDが「ハルノヒ」で、これには1993年から1997年までの作品が収められている。このところ僕は大きな分岐点を迎えているので(そういう気になってるだけかも知れないけど)、この初期収録作品を超カンタンな写真動画の形で全アップすることにした。本当は映像を作るのも好きな方なので(実は高校の時、映画製作研究会の会長もしてたww)、映像としてのイメージがある曲もあるんだけど、やりだすとキリがない性格なので、最初から自分を牽制しておくことに。

さて、このCD「ハルノヒ」の冒頭にあるのがこの曲「フユノダンス」なんだけど、これはホントに浮かぶまま五線紙にダーッと書いてしまっただけの曲で、それだけにタイトルが付けにくかった。でもこの曲を最初のアルバムの冒頭にすることは、自分の作品を録音しようと思い立った時から決めていた。

ちょうどこの曲が出来た頃…世の中は第一次「癒し」ブームに入った時代で、これはマーケティングによって作り出された人為的な「ファッション」でもあった。この社会は長~く享受主義に浸りきって来たから、必然的に「闇と病み」を抱え込みつつあった。そんな世の中の風潮や需要に「ちゃっかり乗っかって」、ちゃんと医療を学んだ訳でもなく、治療者としての修行を積んだ訳でもないインスタントな「ポッと出」の人々が、拙い演奏でも、中身がない音でも、「心地良く並べりゃ」「〇×っぽいものに仕立て上げれば」、認めてもらえる時代・商売ができる時代が到来していたという訳だ。耳心地良い音を並べるだけで、「人様を癒すことが出来る」と豪語できる人々が世間に溢れ出したんだけど、医者と違って責任ないし、薬事法違反で摘発もされないから、自説を振り回してやりたい放題という訳だ。このような状況を背景に、器楽音楽の総BGM化が加速し、流し聞き出来る音楽の方が重宝され、ガッツリ聴き込むような音楽は世の中から極端に減っていった。

僕はと言えば…80年代からシャーマニズムだとか、当時の海外における音楽療法の研究だとか、いにしえの神秘主義者たちの音の秘儀だとかにご執心だったので(笑)、この無責任で幻想的でイージーでインスタントな癒しブームにはホントに辟易していた。どんなに稚拙なものでも、修練を積まないものでも、癒しの一言を添えさえすればそれなりの需要がある。商品として、そこそこ売れてしまう。だから、内容がお粗末でも容易に胸を張れる。たぎるような情念も持たず、時の凝縮も感じさせず、発酵したような匂いも放たない、必然性の薄い「音楽のようなもの」が、あっという間に巷を席巻した。「っぽいもの」の方が「モロのやつ」よりも仕事になるのがこの日本社会だけど、まぁこの「癒しブーム」で、それに更に拍車がかかったと言えるのかも知れない。

そしてどういう訳か、インスタントな人ほど、フワっとした服着たり目を細めたりして、聖人面したがる。自分が「与える側なんだ」という顔を、何故かしたがる。実際喋ってみると、内容は薄くて、ちゃんとした知識も経験も「言う程じゃないじゃん」という人々が、瞳孔が開いたままのような取り巻きを従えて業界を闊歩してたりするので、いよいよこの国も末期症状に入ったかと、20代の僕は半ば途方に暮れていた。僕がコンサートで「癒し、癒し…おお、いやしい」という短編の載ったチラシを配って、毒に馴染んでいないお客さんたちの眉間にしわを刻んだのもこの頃である。

ところが、である。僕のように「自分で作った竹の笛を使って、作曲作品を演奏している」なんて人間を見ると、世間の人は自動的・反射的に「ああ、癒し系ですね!」と、ひとまとめにしてくるのである。イヤ!やめて!と思っても、皆さん笑顔でレッテルを貼って来るので、何とも恐ろしい世の中だ。とりわけ癒し系の人々は、時間を積まなくては人前に立てないような伝統音楽には、ほぼ取り組むことがない(そんなことよりも、早く人前に立って、現時点の自分がやりやすいことをやって、迅速に認められ愛され、拍手とお金を頂戴して自信を持ち、居場所や立ち位置を確保したいと願っている人が多い)。だから下手に「オリジナル曲のCDです」なんて言うと、あっという間にヒーリング・コーナーの棚に並べられたりする。僕は当時「抒情歌」的な音楽の復活をテーマにして、シンプルで分かりやすい旋律の音楽を探求していたから、収録曲も牧歌的な旋律の曲が多かった。それも手伝ってよけいに「そっち系」と思われてしまう訳だ。これにはまいった。

音楽なんて原初から、言うまでもなく癒しでもあったんだから、わざわざそれを付加価値のようにして貼り付けるのは、ある意味歴史的異常事態とも言える。第一、ガンガンのロックで癒される人もいるし、無音で癒される人だっている。でも癒し系を標榜するものは大概、シンセでブワ~とか、弦でポロポロンとか、笛でポポ~とした、害のない「類型的な音作り」のものばかり。誤解のないように言うと、そういうサウンドを全て否定している訳でも全くないし、むしろ個人的には好きなものもあったりする。まぁ、多くの人には同じように聞こえるのかも知れないけれど…僕は要するに「ほら、お求めのアレ系ですよ」的な商品が放つ、「そう作ろうとして作ったもの」から滲み出す匂いが苦手なのだ。これらの音楽を「healing」と呼んではいけない。「soothing」位でいい。

とまぁ、こんな僕なのに…重い腰をあげて作ったCDが、店に行ったらヒーリング・コーナーや癒し系の所に並べられているではないか!僕の音楽を聴いて、結果的に癒された人がいるのは別にいいんだけど、そこを目指して僕が録音物作ってるなんて誤解されたら、耐えられない。「ちょっとちょっと!どこに置いてくれよるんですかっ!」と、罪のない店の兄さん姉さんたちをつかまえて何度やり合ったことだろう…まぁ僕のようなアウトローのCDは取扱自体が奇跡なので、どんなコーナーでも置いてくれるだけマシなのかも知れないが。

僕は「自然」をテーマにした曲で、フワ~ッとした害のないサウンドを聴くと、なんか窓ガラスから自然公園を眺めてるような、都市文明的な生活者の匂いを感じてしまうことが多い。自然を、人間が疲れた時に「何かを与えてくれる、都合の良いもの」であるかのように描くことに、田舎や農村をアミューズメント・パークのようにしてしまう近代人のご都合主義と同じものを感じ、違和感や危機感を覚える。自然・天然て、そういうもんじゃない。全てをなぎ倒し、流し去ってしまうような、荒々しい、そして扱いにくい音で、自然天然を描こうとする音楽が、そして自然に対する畏怖と愛着の同居や、そのせめぎ合いが滲み出るような音楽が、あまりにも少なくなった気がする。

20代前半のある時、僕は山の中で圧倒的な吹雪の光景に出くわし、その荒ぶれた容赦のないパワーに、何故か心洗われた。それから4年か5年の歳月が過ぎ、その情景と自分の中のエネルギーというか、内側の情景のようなものが重なって融けたのを感じた時、ある種の調和が訪れたような気がした。自分に叩きつけて来るものと、同じエネルギーを自分の内に感じ、その邂逅に救われたのである。

「笛のアルバムの一曲目としては、意外でした」「冒頭曲、これじゃなかった方が売れたろうに」「いやぁ、笛のイメージ崩されました」「ケーナと思って聞いたら、思ってたのと違った」「一曲目がちょっと攻撃的じゃないですか」「アルバムの冒頭は、安心感のある曲にして欲しい」「一曲目のテンポが速いのは笛のアルバムらしくない」などなど、この曲を冒頭にしたことに関して、色んな意見を頂いたんだけど…それらは予想通りの反応でもあったので、ある意味「そうだろうなぁ」と納得した。いや、むしろそう反応されることを前提にして、冒頭をこの曲にしたんだ。ちなみにこれでも録音用に(多少聴きやすいように)おとなしいテンポにはしたし、本当はもっと荒々しく、ぶっ飛ばした感じで演奏したい位なんだけど。

さて、この曲の録音日のこと。やけにその日はケーナが良く鳴ってて、「いやぁ~今日が録音日だってこと、この笛もわかってるのかなぁ」なんて呑気なことを言ってたんだけど、録音中にその笛が突然「パキャッ!」と音を立てて割れて潰れた。あわてて、ひしゃげ割れた笛をセロハンテープでつなげ、形状をかろうじて復活させて最後まで演奏したのがこの録音だ。つまりは、ギリギリの延命処置による演奏。そしてこの笛は、その録音で長い役目を終えた(画像に映っている笛は、その後に作った二代目)。

こんなことがあったので、今でも笛がやけに良く鳴る日は、「おぬしまさか…このまま逝ってしまう気じゃ…」と心配になったりもする。その楽器が持つ最上の響きと崩壊は、こんなにも近い。この絶妙のバランスの上に、求めている音があった。壊れないようにするって、強くするって、それは一体何なんだろう。死の直前の輝きというものは、確かにあるのかも知れない。

それから僕は、壊れるか壊れないか、墜落するかしないか、あちらとこちらの境の上のような、接点のような、膜の上を這うということを、模索しながら暮らしている気がする。鳴りきるかもしくは完全に消えてしまうかの瀬戸際のような音の鳴りに心惹かれ続けている。焼き物もそういうのに惹かれるし、こういうことって恐らく、根底でつながっているんだな。

改めて僕の作品は、僕自身が見つけたものの軌跡でしかないんだな、と思う。もう、自分が作った曲という意識も薄れているんだけど、こういう曲がどこかで自分の記憶や体験を、今の僕につなぎとめてもいる。

 

2021年大晦日から元旦

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冬至を節目にしている僕にとって、冬至後の10日間は旧年のオマケという感じがしないでもない。これでも昔は毎年のように、年越しの演奏仕事やカウントダウン系イベントの仕事も受けていたことがあるんだけど、それも遠い昔のこと。今は全くそんな気にもなれない。
元々、自分の中には世間的な年末年始観があまりなかったような気もするが、それでも大晦日と元旦を節目に、こういったFBのような場で色んな人がそれぞれ旧年を振り返り、出会いや経験への感謝の言葉や新年への想いを書き綴られているのを眺めるのはとても楽しい。皆さんにとって良い年となるよう、願わずにはいられない。
僕たちは毎年、大晦日の夜には近くの山の常照皇寺に除夜の鐘をつきに行くのだけれど、今年はそれも中止になっていたようで…そんなことも全く知らず、凍てついた雪をジャクジャクと割りながら山道をかけ登って行くと、いつもと違って明かりもわずかなお寺の入り口には、同じく何も知らずにやって来た数人の人影が立ち尽くし、締め切られたお堂の中から村の役員の方だけでつく鐘の音が空しく響いていた。
暗がりの中にいたのは、近所のムーちゃんとイトちゃん、それから見知らぬ海外の人ふたり。「残念、いつもはみんなで鐘をついて、その後は寺の中でお茶がふるまわれるんだけど。」
仕方なく僕たち6人は、懐中電灯片手に真っ暗闇の山道を降りて行ったんだけど、ふもとまで降りたところで何となく気になって「ところでふたりはどこから来たの?」と尋ねてみた。すると海外からのふたりは「ブルガリアエストニアから…仕事で日本に来たんです」と言うではないか。ちょうど11月のイベント「ツクル森」で、ブルガリアエストニアの音楽を演奏していた僕たちにとって、これはちょっとドンピシャ過ぎやしない?(笑)
「せっかくだから、みんなでうちに寄って、これからお茶しようか?」
そんなこんなで、除夜の鐘の中止を知らずに山の上に集まった6人は、どういう巡り合わせかそのまま我が家で深夜の新年お茶会をすることになった。もちろん僕たちはブルガリアエストニアの曲を演奏したんだけれど…2021年最初の演奏が、こんな風に幕開けるとは思いもしなかった。
このところ確かに、以前にも増してこういうことが頻繁に起きている。様々なことが加速しているような実感もある。世界が、いろんな人たちが、新しい方向へと舵を切れるように。祈り新たにしたい。

2020年冬至祭

2020年12月21日冬至

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2020年の精霊たち

たのしかった…今年の冬至は、知らない間に門をくぐっていたような不思議な感覚がした。で、その夜は燃え尽きて(笑)、次の日は昼近くまで布団の中にくるまっていた。冬至明けの太陽は、いつもながら気持ちがいい。冬至を境に、本当に太陽の光が変わったような気もしてくる。そして、(自分自身を含めて)世の中の人がもっと清々しく生きることが出来るようにならないかなと、いつもながら夢想する。

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こんな感じで、冬至の精霊たちが各家庭にやってくる
毎年この冬至祭について投稿しているけれど、この祭は地域住民しか参加できない「閉じた祭」で、言うなれば地域住民だけのパーティーかデートのようなものだ。パーティーやデートに、多くの人を呼ぼうとか、多くの人に見せようとか、それによって収益を上げよう…なんて考える人はいないだろう。もはやそれはパーティーやデートじゃない。実は今この国で行われている祭は、祭のように見えて実は祭ではない。

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精霊たちが笛と鳴り物を鳴らしながら、家に入って来る
集客を伸ばすこと・収益上げること・より広く知られること、それらを地域や暮らしの「活性」化と捉えることの危うさや、そのことが生み出している落とし穴…その本質について気付いている人は意外と少ない気がする。閉じることによって、開く知恵というものがある。しかしそういったものへの知見は、今の社会では見失われがちだ。また今の日本は「願いと祈りを混同した社会」で、それは「祈りを見失った社会」ということでもある。だからそういう意味でも、僕はこの冬至祭は本当の意味での祭になっていると思っている。

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太陽を象った座の脇で、鹿の骨笛が演奏される。日頃命を頂いている森羅万象への感謝と鎮魂の儀式。

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家人の書いた、一年を振り返って想うことと・来年への願いや想いが読み上げられる。音にすることで、願いや感謝がその場にいる皆で共有される。

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感謝と願いの紙が、燃やされる

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燃やすことで、これらは純粋なエネルギーに変えられて、あちらに送られる

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これは、自分のことではなくお互いのことを祈る祭で、それぞれの家・家庭を聖地化する祭。

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祈りの儀が終わると、場を浄める冬至笛が精霊たちによって吹き鳴らされる

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精霊たちが太陽の座に集まると、輪踊りが始まる

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太陽の輪踊りは、最高潮になるまで続く

僕は音楽に目覚めた頃から文化人類学や神話学、考古学の本を愛読していたが、実は民族学民俗学的なフィールドワークをしている多くの人間が、「自らの社会が失ったものに憧れ、それらを探して彷徨っている人間」「かつて足下にあったはずのものを失った社会に生きる人間」でもある、ということが気になっていた。だからこそ、長年民族音楽と呼ばれるもの(僕は地域的音楽というようにしている)に関わってきた人間としては、自身の知見を通して一から地域に文化を創造すること、つまり「フィールドワークされる側」になるようなことが、本当は究極的な到達点じゃないかとも思ってきた。

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2020年の精霊たち

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精霊のセレモニーが全て終わると、我が家で食の儀が始まる

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持ち寄りパーティーはいつもながらクオリティが高い!なんで皆、こんなに美味いの??

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毎年、全種類食べられない…
等など、多少ディープなことは考えていても、それをユル~くやるのがむしろ一番大切でもあって、パーティーやデートは気張ると野暮だし、肩の力が抜けていて、それでいてワクワクやドキドキがある方が素敵だ。今年もユル~く集まって、そして真剣に家々を巡り、友人たちの家のためにお祈りし、それぞれの家が聖地になるよう祭をした。それにしても、持ち寄りパーティーのクオリティの高さにはいつも驚かされる。

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冬至明け、22日の太陽。この日を境に陽の感じが変わる。
僕は自分が暮らしている土地や、そこに暮らす友人たちに、愛着と誇りを感じている。

鳥獣慰霊祭

ツクル森が終わって、まだその報告もここでは出来てないけど…
その数日後、スマホが伊根の漁港の定置網船の傍から日本海の底に消え、何故か二日続けてカモメに糞をしこたまかけられた僕は、その後夕暮れの田舎道でチビ黒猫を拾い、そしてその後日には放置したままになっていた我が家の畑の安納芋を掘り出し、更に昨日は一年ぶりに、僕が今最も大事にしたいと思っている演奏の一つに行ってきた。飛ぶように日々が過ぎていたけれど、ともあれその演奏のご報告だけを。 

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舞台となった大黒山北寺本堂。柔らかな顔の大国さんが鎮座している。
久しぶりに本職(と言えるのか?)、ケーナの演奏依頼。と言っても実際にはフツーのケーナは使ってなくて、ほとんどチョケーラと呼ばれる笛を使ったが、ケーナやチョケーラといった笛は僕にとってはまさに息を吐くのに等しい笛で、今は人前で演奏する事が限りなく少ない。あまりにも自分にとってフツー過ぎて、これで舞台に立っていいの?って思ってしまう。で、自分からこれで人前に出ようとか、仕事をしていこうとすることが、どうしても今の僕には出来ない。何か、変にずるいような気がしてしまうからだ。でも世の中のミュージシャンはむしろ、そういう楽器&音楽で日々舞台に立ってる訳だから、僕の頭がどこかおかしいのだろう(笑)

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本堂の前には狛犬が。神仏習合的なこの本堂は不思議な可愛らしさがある。
「鳥獣慰霊祭」、これは害獣とされて処分されている、アライグマやハクビシン等のための、鎮魂の儀礼だ。企画されている川道さんは関西野生生物研究所代表で、エゾシマリスの研究家(ご主人はムササビの研究家)。本来なら他の誰よりも野生の小動物たちを愛している人々が、その生態を熟知しているからこそ、こういった対策に当たらなければならない現実がある。そのご心痛は、想像に難くない。

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お客で来てた洋子さんに最後だけ参加してもらう。小さきものたちに想いを込めて。オーブが飛び交う(笑)
地元で催している冬至祭でも、鳥獣慰霊の儀礼を入れている僕としては(というか笛の演奏家としては)どんな舞台よりも、ある意味人前でやる演奏よりも、根源的な意味があると感じている。
ところで、慰霊の会場となっている大原の大黒山北寺は不思議な寺だ。本堂の大黒さんも何か特別な佇まいだし、その脇に置かれた巨大なヒスイも不思議なエネルギーを放っている。それらにお尻を向けて、演奏する訳なんだけれど(^-^;

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ものずごい存在感の、巨大ヒスイ…古代の水が閉じ込められていて、触ると水を感じる。
演奏を終えた後に、本堂の周りに清々しい空気が流れているのを感じるのが不思議だ。
精進を重ねようと思う。

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アルメニアのBlulも少しだけ演奏。QuenaやIrishFluteなんかに比べると、とんでもなくまだまだ不慣れな笛だけど、この笛の響きは今最も気に入っている。今はこの笛を練習していること自体、僕にとっては祈りになって来ている。


アルツァフ(ナゴルノ・カラバフ)で起こっていること


2018年アルメニア カラフンジ、ゲガルト、サナイン

 2年前の2018年夏、僕は初めてアルメニアを訪れた。エレヴァンの空港から、宿のスタッフが運転する車に乗せられて向かった先は、旧ソ連時代に建てられた古い建物で、僕たちは真っ暗闇の裏通りで荷物を降ろし、壊れかけのようなエレベーターに揺られて階上の部屋に着いた。
「安心してね、エレヴァンは世界で一番平和で安心な街だから」と、案内してくれた彼はWi-Fiをつなぎながら微笑んだ。
僕は数日後、そのことに納得し、そして実感した。
僕はこれまで、世界各地のいろんな社会・文化に興味を持ってきたが、「まともな人々がたくさん住んでいる国・地域は、必ずと言っていいほど、小さい」印象がある。大きな国になるのには、わけがあるし、大きな国にならないのにも、わけがある。奪われてきたものも大きいかも知れないが、小さいままで在り続けているからこそ、守られてきたものがある。それは人間性と言ってもいい気がする。
だから僕は、小さな国の文化や歴史に、心惹かれることが多いのかも知れない。
日本人は長らく戦争や紛争を経験していないから、対岸の火事のようにして眺めたり、双方がただ勝手な領土の取り合いをしてるだけのように思い込んだり、喧嘩両成敗的に上から目線で(どっちも悪いというような言い方で)断じて、背景や状況を深く知ろうとしない人も多い。
これまでの背景や、現在の状況を、より多くの人が知るだけで、これ以上の犠牲者が出ることを食い止めることが出来るかも知れないのに。
アルメニアの名前を口にしても、それってどこにあるの?という反応が多い日本では、ニュース自体が少なく、そして内容にも偏りがある。戦場となっているアルツァフは、ナゴルノ・カラバフと呼ばれているが、それはロシア語だ。それだけでも、この地域で何が起こってきたのか想像がつくだろう。アルメニア人の70%がアルメニア国内にいない。それだけでも、どのような歴史を歩んできたのか想像がつくと思う。
アルメニアでの思い出を挙げたら、きりがない。高校を卒業した頃に目にしたコミタスという映画は、アルメニアという国と20世紀初頭のジェノサイドについて知る、最初のきっかけとなった。もちろん、この国を代表する管楽器ドゥドゥクの音楽も知ってはいたが、2017年の冬に久しぶりにアルメニアの音楽を耳にした時、僕はこれまで感じたことのない引力のようなものを感じた。
2018年の初めに父が亡くなり、その直後にアルメニアの詩人
Armenuhi Sisyan
さんと知り合い、同時にアルメニアの音楽家
Levon Tevanyan
とやり取りをし始めた僕は、次第にアルメニアへの強い縁を感じるようになり、関心を抑えきれなくなっていたが…やはりとどめはその年の4月に起こった革命だった。
日本ではあまり報道されなかったこの革命、いろんな意味で特筆すべき変革だったように思う。それから毎日のように、コーカサスの山々の風景をネットで眺め、アルメニア民謡の数々を聴きながら、何が何でも、今のタイミングでこの地の空気を嗅ぎたい、と僕は思うようになっていた。
「今、アルメニアは希望に満ちている。新しい時代を迎えているんだ」「あなたがもし、ずっと前にこの国を訪れていたら、今この国に溢れている笑顔の数々を、見ることはなかったかも知れない」…アルメニアで若い人から聞かされた言葉に、なんとも心が揺さぶられた。
通りでは、度々すれ違う人と普通にあいさつを交わすようになっていた。お店に座ると「もしかして日本から来たの?中国の人とも韓国の人とも違う雰囲気だから、もしかして日本の人かと思って」と話しかけられた時には、少し驚いた。
ずっと参加したかった、Karinという民族舞踊の団体のワークショップに参加した時には、広場に溢れる若者たちが手をつないで輪になって踊る姿に、心ふるえた。
その時に、手をつないだかもしれない人たちが、この映像の中にいる人たちが、いま戦渦に巻き込まれている。トルコの支援、挑発的な声明の数々、イスラエルのドローン兵器、イランやクルディスタンからの傭兵…不穏な情報の数々に、市民の志願兵が続々と戦地に向かっている。本当に隣国の人々と戦いたい人など、いないだろう。
僕はこの2年、毎日アルメニアのブルールという笛を練習している。少しづつだけど…欠かさない。今はそれが、自分なりの祈りになっている。
エレヴァンの郊外にある、ジェノサイド・ミュージアムには大きな献花・献灯のためのモニュメントがある。そこを訪れた際、僕はそのモニュメントの片隅に座って、とても長い時間を過ごした。何と言うのか…現代の建造物なのに、古い神社と同じエネルギーのようなものを感じた。これには、本当に驚かされた。
この短い時間の中で、どれほどの祈りが、ここで積み重ねられたのか。古い神社が持ち得ているエネルギーと、同様のエネルギーを、どうやって、人々がこの場所に与えたのか。
今何が起こっているのか、多くの人に知って欲しいし、考える人が増えて欲しい。かけがえのないものが、世界のそこかしこに、ある。僕たちが生きている世界は、そういうところだ。


2018年アルメニア 踊る人々①



2018年アルメニア 踊る人々②