タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 きっと 「音楽的に生きる」ってこと

梅雨の我が家と、7月の演奏会『時をこえる音楽の旅』のお知らせ

f:id:KishimotoTaro:20180616182144j:plain

※先だって京北・大野で行われたジャズ・ライブKAYABUKI Noteで使った、作りたてのQuena2種。ボリビア在住の杉山氏に譲ってもらった、キルキと呼ばれる鮫肌の材で製作したもの。なかなか良い。


夏至が近づき、夕暮れまでの時間が長くなった。雨が続いているから、その中の晴れ間には草を刈ったり、苗を植えたりして、外に出ることも多い。あちらこちらにハーブが植わっているので、名も知らない草たちの香りを含め、敷地内は匂いの万華鏡のようになる。

 

そんな匂いにつられてか…このところネットのくぐり方を覚えてしまった小鹿が、明るいうちから頻繁に我が家にやってくる。気配を感じて見に行くと、草むらの向こうから首を出して傾げていたりする。もちろん、畑のものをかじられても困るので、いつもの通り追い出そうとするのだが、軽やかに四本足でハーブの上を飛び回るので、出口まで誘導するのが一苦労である。ネットを締め直してると、池の近くから鳴き声をあげて僕を呼ぶ。…どういうつもりなんだろ。

 

あの子たちが来てるということは、間違いなくヤマビルが庭に潜んでいる。ヤマビルの認知世界は哺乳類の発する二酸化炭素や体温、微細な振動によって構成されているので、あれこれ防御をしていても彼らはこちらを認知し、ニョキニョキやって来る。雨上りにはトノサマガエルたちが歩くごとに飛び回り、何とも可愛いのだが、この子たちが沢山いるということは、ニョロニョロたちも沢山やって来る。

 

しかし最近の困り者は、何と言ってもハクビシンたちだ。かつて、タヌキやアナグマたちが我が家の軒下に住み始めた際は、絶え間ない床振動作戦と、縄張り主張威嚇作戦によって引っ越し頂いた訳だが、僕は元々イヌ科であるタヌキLoveなので、実は周囲をうろつかれてもそれ程いやではなかった。イタチ科のアナグマも、留守中の我が家の庭に穴を掘りまくった訳だが、まぁ憎めないヤツらではある。しかし、ジャコウネコ科のハクビシンたちは、このところ決まって我が家の玄関に狙いを定め、糞をする。つまり、巣を作っている訳だ。追いかけても素早く木だの柱だのに登って行ってしまうので、なかなかに厄介なのである。

 

ところで…長い間、僕が違和感を覚えてきたことがある。大半の時間を、実際には自然から離れた人工物の中で暮らしている人間が、「自然を謳った音楽作品」を演奏したりする時に漂わせてしまう、一種のウソっぽさというか、空々しさのようなもの。どうしてそういうものが漂ってしまうのかというと、それは「そこで描かれているもの(求められているもの)が、人間に都合よく描かれた、幻想(ファンタジー)としての自然だから」じゃないかな、と思う。

 

人間に癒しやエネルギーを与えてくれる、都合の良い対象として描かれた自然、ある意味「向こう側にあるもの」としての、架空の自然(具体的なイメージだと、ジブリ・アニメなんかで描かれる自然や、大きめの森林公園みたいなイメージなのかも)。そのような「夢見がちな都市人間の作り出す自然像」の中では、面倒くさいものや気持ち悪いもの、近寄り難いものや理解し難いもの、そして人間などお構いなしに変化する、人智を超えた、ワイルドでパワフルなものの姿が描かれることは、あまりない。

 

人間にとって時には厄介な自然の姿や、時折牙をむく凶暴な自然の姿が、音楽作品の中で描かれていることは、まずない。そういうのは作品にもなりにくいのだろうし、この社会では商品にもなりにくい。享受主義でバーチャルな現代社会だから、それも当然かも知れない。

 

同じような場所で、同じような暮らしをしている者同士の間では、世界観や価値観は共有されやすい。同じような視野の者同士の間では、思想も幻想も共有されやすい。だからファンタジーを共有する者同士の間で、需要と供給が成り立つ例は多い。成り立っているうちは、疑問も湧きにくい。それがいいとか悪いとかいう話じゃない。人間には、そういうところがある…ということだし、もちろん僕だって現代を生きる人間だから、こういった現象が世の中を覆っていることは、よくよく理解している。

何故、僕はそういうのに馴染めず、違和感を覚えてしまうのか。そういうのに真実味を感じられなくて、いちいち気持ちが萎えてしまったりするのか。おそらく、僕は、厄介でワイルドで人間の都合を意に介さない自然の諸々に、どこかで愛着があるからだ。

 

人間の作った都市・街・居住区というものは、地球上にポンと置かれたコロニーのようなもので、そこからは人間や人間の作ったもの以外(現在、自然・天然と呼んでいるもの)が、一旦可能な限り外に追い出されている。まぁまぁ徹底して締め出したくせに、それじゃ寂しいからと言って、自分たちが制御しやすそうなものだけを選んで、ちょこっと戻している。そういう都合の良い発想が、力の行使が、この人間の居住世界を形作っている。農村・山村だって、そういう感覚が根底にはあると思う。

 

でも農村・山村では、人工世界とそうでない世界がすぐ近くで接しているし、混じって未分化な部分も多い。人間以外の世界が常に近くにあり、人間世界を眺めている視線がそこかしこにある。その間で行き交っている生命が常にあって、その間で絶え間のないせめぎ合いがある。そういった、間(はざま)に身を置いて、双方を眺めようとしていたら、僕たちは常に「人間というもの」に向き合わされ、気付かされることになる。

 

僕のような感覚の人間は、もしかしたら、こういう所だからこそ、自分が音楽だと感じられるような音楽が「できている」のかも知れない。自分が愛着を感じているのは、自分たち人間が作り出す幻想の方ではないと、確かめることが出来るから。

 

ところで、「出来る」「出来た」という言葉は、近代以降は「可能(~ができる)や完成(できた~!)を表す言葉」としか使われていないが…本来の意味はもちろん、そうではない。文字そのままの意味で、「出来る」とは元々「出(い)で・来る」という意味だ。

 

どこから、どこに向かって「出で来る」のか。

何かに関する可能や、何かの完成を形作っているのは、僕たちが普段安易に使っている「自分」などという、(自分ではないと思われるものを排除し、区切って名付けて居座っている)小さな地点ではないのだろう。自分と自分でないものは本来未分化なものでもあり、そのような拡がりを持つ認知状態の内から「出で来る」ものを、いつもキャッチできる自分でありたいとも思う。

f:id:KishimotoTaro:20180616183202j:plain

※5月25日の公演用に製作した、アルメニアの縦笛シュヴィ。下記の演奏会でも使用する予定。僕がこのところ注目している、アルメニアクレタ島モルドヴァのチャンゴ―音楽には、共通しているものがあるような気がしている。


さて、肝心の演奏会のお知らせ…でも、実はもう残席はあまりないので、もしご興味をお持ちで、ご都合よい方がおられましたら、早めにお問い合わせを!
※ブログ公開後の6月16日夜に、予約は定員に達し、締め切りました。キャンセル待ちご希望の方は、ご一報下さい

f:id:KishimotoTaro:20180616183649j:plain

※この写真は、ウズベキスタンのモスクの内側の壁。描かれているデザインはキリスト教由来のもの。オアシス国家であるウズベキスタンサマルカンドには、狭い地域に少なくとも21種類の宗教施設があるそうだが、それぞれの内に、異なる宗教由来のものが共存し融け合っていることが少なくないという。もちろん、言うまでもなくこういう現象は音楽にも頻繁に見られる。