※夏至祭エントランスに立てられた、天地の塔。やって来た人がハーブや野草を摘んで、飾りつける。
夜が最も長くなる冬至と、昼が最も長くなる夏至の日は、古来地球上で生きる者たちにとって、特に重要な日だった。しかし現在の日本列島で、これらの日に祭が行われている地域は極めて少ない。
「家庭料理を作る…くらいの軽やかさで、様々な人が自分で音楽を作ったり、自由に踊ったりできる社会」「それぞれの家庭料理を持ち寄る…くらいの感覚で、互いの表現を持ち寄って、それらを互いに味わい合えるような社会」の実現をテーマに発足した、京北村民歌舞プロジェクト。「一から民族音楽を作ろう♪」みたいなノリでスタートした、大真面目な遊びのプロジェクト(体験型文化人類学?)で、冬至祭と夏至祭はその一環として毎年行なっているお祭。音楽文化と祭(祈り)は、深いところでリンクしているから。
※日が暮れてから行われる「しあわせの輪くぐり」の輪。笛の音楽と共に、天地の塔前の火を二人でくぐる。よく考えたら、古事記の中の話みたい。昼間にこうして皆で飾り付けをする。
冬至は、「新しい太陽の誕生日」であり、見えている世界と見えていない世界のつながりを取り戻す祭り…エネルギーを通す儀の日でもあった。だから冬至祭では、思い思いの精霊に扮した人々が笛や太鼓を鳴らし、踊りながら各家庭をまわって、それぞれの住みかを聖地化するお祈りをしてゆく。対して夏至は、「太陽の力が極まる日」であり、生を謳歌する祭…生物の中や間で、エネルギーを巡らせる儀の日でもあった。だから夏至祭では、男女和合を一つのシンボルとして、天と地球、(誰もが内に持っている)女性と男性、昼と夜の融合を祈って、結婚パーティーのようなものを行う。
※明るいうちには、お茶会が行われ、日が暮れてからは、持ち寄りの食事会が行われる。夏至の日は太陽の力が強く、出来るだけこの日のハーブを使って料理をすることが、夏至祭食事会のテーマ。
※持ち寄られるのは、もちろん手作り料理の数々。地元野菜や鹿肉料理等、毎年クオリティが高くなっていってる気もする。この写真はまだ置き始め。
※この日我が家は、鹿&羊のフェンネル入りシチューと、親鶏の山椒風味中華スープ、フェンネル入りのシェーファーズパイと、オレガノ入りタワー・サラダ、それから我が家のブルーベリー、ジューンベリー、近所のランさんから頂き物のブラックベリーを使ったサフト(ワインやソーダで割って飲む)を提供。
毎年夏至祭は、我が家で行っている。冬至祭と同じく、参加できるのは同じ地域に住む人々のみ。外から人を集めたり、外部の人に何かを見せたり、ということは一切ない。祭って本来「閉じたもの」で、地域民によるデートというか…ホームパーティーのようなもの。文化的に考えると…閉じ方を知る者、閉じたものの意味を知る者だけが、本当の意味で開くこともできるのではないか、と思う。
※手に持っているのは、「ウツシダマ」。一年間にあったこと、とりわけ嫌だったこと、辛かったこと悲しかったこと、反省していることや後悔していること、謝りたいことや積もり積もった恨みつらみなど(笑)…手放したいことを思い浮かべながら、ワラの縄をクルクルと巻いてゆく。
※そのワラの玉にハーブや花を摘んで挿してゆく。そうやって、めいめいの「ウツシダマ」が完成する。かわいく作るのがポイント!
※願いを込めるのでもいい。近所のジョンさんのウツシダマは、デカかった!(笑)
※日本列島には古来、感情や想念をものに移して、自分から放つ、という知恵がある。自分の内で生み出したエネルギーを、持ち続けるのではなく、浄化して巡らせるというアイディアだ。代表的なものが石で、手に取った石に様々な想いをうつし、手の温度と同じくらいになったところで、自然に浄化してくれる川に向かって放つというやり方だ。
現在の社会は、「祭」をただの集客・収益目的のイベントのようにしか捉えられなくなっているし、閉じることによって育まれる力に関して、ちょっと無関心すぎる。また、願うことと混同することで、多くの人が「祈り」を見失っているし、宗教に関する拒絶感から「儀式」の持つ機能も見失ってしまっている。そのおかげで、それらはいつの間にか人々の間でショーと化してしまい、人々を「見る側と見られる側」「与える側と与えられる側」「特別な人間とフツーの人々」に分離する罠と化してしまった。幻想は、思わぬところで再生産され続けている。僕らみたいに舞台に立つ仕事をする人間は、もう少しその辺の事に関して、ちゃんと考えた方がいいんじゃないかなぁ。
※ウツシダマに気持ちを込めると、それを火に投入する。あとは火が回って灰になるのを見届ける。
※これがやってみると、なかなか楽しい。丁寧に作ったものを、火の中に入れて燃やしてしまう…この意味が頭でわからなくても、感性や、身体が「知る」ことは大きい。
※祈りって、ゆだねることや、まかせることも含んでいる。人間の想い描く「願い」は、昔流に言うと行者の「はからい」であって、それは祈りではなかった。ウツシダマは、とてもシンプルで小さな遊びだけれど、古来あそびこそが神事であったことを思い起こさせてくれる。
本当は、誰でもつながってるんだし、つながれる。誰でも感じることができるんだし、聞くことができるし、表すことも、流れを起こすことも、巡らせることも、整えることも、できる。鳥の声に耳を澄ませて、草むらに入って、野の花を摘んで、その香りを嗅いで、何かに添えて、美しいものを作ろうとするだけで、それは一つの表現行為となり、宣言となってゆく。つながることへの、表現と宣言。そういうのを、身体的に、行動的に、確かめられる祭がいいなと思う。宗教なんて、関係なくてもいい。体系づけられた宗教なんかが登場する前の、地球人感覚でいい。
※「しあわせの輪くぐり」の輪。骨組みは藤の蔓。何でもない、野の花や野草、山に生えてる草木が、どれだけパワフルなものなのか、感じさせてくれる。
地球の上で暮らす以上、自然のサイクルをどこかで感じながら生きることは重要だ。感じるからこそ自らの分を知ることができるし、自分の分を知るからこそ、生きていることに感謝せずにはいられなくなる。祭って、感謝の表現の一つとも言えるけれど、人間をとりまく自然のサイクルに積極的に関わろうとする行為でもあるし、サイクルに波長を合わせることで、自らもそこに力を加えようとする、いわば人間なりの表現の一つと言うこともできる。
この特別な日を「どのように過ごすのか・誰と過ごすのか」って、それ自体が表現だと思うし、そうした選択も、一つのアート的行為と言えるんじゃないかと思っている。僕はこの日に、家族や、同じ地域に縁あって集まった人々と過ごすと決めて、そうしているし、住んでいる場所を離れて何かを得るために行動するような日にはしたくないと思って、仕事は入れないようにしている。「そういう風にすると決める」ことは、それ自体が一種の儀式とも言えるし、生き方の宣言とも言える。そんな小さな宣言の一つ一つが、日々の暮らしを清々しいものにしてくれる。
誰もが自由に、そんな宣言ができるような世の中になったらいいなと思う。これでいいんだと「自分に言い聞かせ」たり、仕方ないじゃんと「自分を納得させる」のではなく。夏至や冬至といった時の節目は、同じ地球上で生きているなら、元より共有しているはずの瞬間だ。できれば沢山の人々が、自分が日々暮らしている地にいて、その場を改めて味わう日にすればいいのに…とも思う。居場所を創造する力って、そうやって育まれてゆくものだから。それって、かつては誰もが心のどこかで知っている、知恵でもあった。
※陽が高いうちに、みんなでブルーベリー摘み。今年は思い切って枝を払ったので、なりがいい。子供たちもつまみながら、摘んでゆく。
とは言えこの現代社会では、「今既にそこで動いている社会のサイクル」というものもあるし(たとえば七曜・月火水木金土日とか、五十日とかww)、それに合わせざるを得ない暮らしが、この社会の大半を占めてはいるかも知れない。それら「当たり前のもののようにして、そこにある」社会のサイクルは、実は少し調べてみれば分かることだけど、発祥から一般化への経緯に至るまで、様々な意味で、どこか奇妙なものが多い。奇妙だけれど、みんなそれに疑問を抱かず、それに沿って生きているんだから、自分だって外れる訳にはいかないじゃん、そんなことしたらココにいられなくなるじゃん、とそれぞれが自分に言い聞かせ、疑問も抱かないように留意している。
でも近い将来、そういう空気も、変わってくるんじゃないかなぁと思っている。それらは、時代が抱く壮大な妄想であって、多くの人の思い込みによって、支え続けられている…というだけのものだから。僕らの時代だって、この子たちの時代だって、そういったものから解放されて(自らを解き放って)、新たしい時を刻んでゆける可能性に満ちている。
※作業してたら、子供たちがどんどんブルーベリーを運んでくる
※奇跡的に描かれた、煙と風景の、大きなハート❤…見えますか?
「変化」は、ゆっくりでもいい。出来るだけ、沢山の人が、無理なく、取り残されることなく、一緒に変化させていける方がいいから。それには、こうして小さな表現行為を重ねて、日々暮らしている場所でひそやかな宣言を「続ける」ことも、大事なんじゃないかな、と思っている。
※前日までの雨がウソのように、陽が射していた。天地の塔が光る。
僕にとっては、こういうお祭するのも、音楽やってるのと変わらない感覚。今年も、集まって一緒に時間を過ごしてくれた地元の皆さんに、感謝したい。
※洋子さん力作…ブラックベリーやジューンベリー、ブルーベリーのサフト(煮詰めて甘いジュースにしたもの)をエールで割ると抜群に美味かった!今度はこれで一杯やる会でもしようかな。