タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

平成最後の、冬至祭(12/22)

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今年の冬至祭の精霊たち

 

 毎年、僕の住む地域在住の友人隣人たちだけで、密やかに行っている冬至祭。今回の冬至(12/22)が、平成最後の冬至祭となった。

 

冬が多少なりとも厳しいところに暮らしていると、年の瀬が近づくにつれ、日暮れが早くなり、夜の闇が長くなってゆくことに、はっきりとした実感がある。それがこの冬至の日を境に反転し、陽は次第に力を取り戻し、昼間が長くなってゆく訳だが…こういう環境に暮らしている恩恵の一つとも言えるだろう、この冬至の日を過ぎると「春が確実に近づいて来ている」ということに、リアルなワクワク感を覚える。

 

冬至祭では、思い思いの精霊に扮したメンバーが、希望する友人隣人宅をまわってゆく。この京北冬至祭は、各家庭を聖地化するお祭りでもあるからだ。

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こんな風に、精霊たちが(竹の音具を鳴らしながら)お家に入ってくる

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コワいのか、カワイイのか、わからない精霊たち

 

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森の精霊は、木や草で覆われている

 冬至の到来を知らせる音具を鳴らしながら家に入り、鹿の骨笛を吹いて日頃恩恵を受けている自然環境に皆で感謝を捧げた後、旧年の出来事とこれから迎える新しい年への想いを書いてもらった紙を家人に読み上げてもらい、その家の人々のために皆で「祈り」ながら、その紙を燃やしてしまう。紙が灰になったところで、精霊メンバーによって冬至笛が一斉に鳴らされ、家がその音で満ちたら、精霊と家人は太陽を象った祭壇の周りに集まり、そこで輪踊りが始まる。

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太陽を象った円い板の周りに、精霊たちが集まる

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家人の旧年を振り返り、願いを書いた紙を燃やす

心配されていた雨も昼から上がり、山國には爽やかな空気が漂っていた。毎年のことだけれど、同じ地域の友人たちとの有り難きつながり、豊かな時間…今年も楽しかった&美味しかった。一緒にこの特別な日を過ごしてくれた人々に、感謝!

 

  *********毎年、投稿している説明から(一部改訂)*********

 

冬至祭は春を「招く」祭で、新しい太陽の誕生日でもあります。そして古来より、「見えている世界」と「見えない世界」をつなぐ祭り…それらの「かかわり」を、毎年改めて「つくる」ための祭でもありました。

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冬至笛の音が家中に満ちると、輪踊りが始まる

見えない世界というのは何も、形而上的なものだけを指している訳じゃありません。「旧暦の霜月という呼び名は、霜突きという儀式から来た」というのは民俗学者折口信夫説ですが、各地に残るシモツキ祭に見られる地面を突く動作は、霜に覆われた大地を突いて、新たに誕生する太陽の光を地に招き入れ、大地に春を呼ぶための儀礼とも考えられてきました。これが行われる日というのが、太陽の力が最も衰え、夜が最長になる霜月の果ての日、「冬至」の日。

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輪の中心…太陽の祭壇では、鳥獣霊が杖を突きながら舞う

凍てつく土の下の見えない世界で「殖(ふ)ゆ」るものたちの存在を感じ、そこに通り道を開き、天からのエネルギーをつなぐ。つまり、世界と世界の「境界」に住まう人間が媒介者となって、「天・地の間のエネルギーの流れに、自らも関わろうとする祭」でもあるんですね。「霜月(旧暦11月に霜がおりる)」の果て…「しき・はて」る時期の事を、この国では「しはす」と呼んできた、という説もあります。

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他の精霊たちは、冬至笛を奏でながら、周囲を回る

さて今の社会は、「欲求や願い」と「祈り」とを、ゴチャ混ぜにしてしまった社会で、ある意味それによって「祈りの本質を見失なっている社会」とも言えます。

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冬至笛(上)と、鹿の骨笛(下)。冬至笛は片手で吹ける。

また、スピリチュアルという言葉が流行ってからというもの、形而上的なものごとに関心を持つ人が増えた一方で、安易に「それっぽい気分」に浸ってしまう風潮も広まってしまいました。パワーを頂くとか、運気を引き寄せるとか…安直な「頂戴病」ばかりが助長されてしまいがちです(現代社会を生きる人々は享受主義に陥っているので、頂戴病は助長されやすく、とりあえず今欲しいものが享受させられていたら、多くの事に疑問が湧かない状態になりやすいです)。

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精霊が家にやって来る際に鳴らされる、冬至来訪を告げる音具

加えて、本来は全ての人の内に在ったはずの「祈りの文化・祈りの力」は、ある時代以降「特別な者であるかのように振舞う」一部の人に委ねられるようになってしまい、それが結果的に、人々を「トクベツなヒトと、フツーのヒトタチ」に分けてしまいました。そして更にそのことが、多くの人々が生来兼ね備えていた創造性を奪い、一方で社会の階層化を助長し、権威主義的発想を根深く植え付けてきてしまいました。特別な者のように振舞う人間を、無疑問に崇めてしまったり、そこから何かを頂戴しよう、という精神に陥りやすいのです。

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紙を燃やす際に精霊たちによって鳴らされる、冬至

そして更に現代では、社会はすっかり商業中心に傾いており、祈りもショーの一つのようになっています。鍛錬・修練なくとも「~ぽく見せれる」演技者・模倣者による現代版祈りとも言えるものが、精神的探究や儀礼等に免疫のなかった世代の人々にとっての、目新しい演目に成りえる訳です。 

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儀礼後に太陽の祭壇に集まり、みんなでミカンを食べる

でも本当は、一部の人ではなく、一人ひとりがつながる力を持っているし、一人ひとりが祈りとは何かを考えたり、実際に祈ったりすることの方が重要ですね。 

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次々に出来てくる料理を、子供たちがつまむ

また今の社会は、フェスやイベントを「祭」と混同しており、「多くの人間が外からやってきて金銭をもたらし、内外の、より多くの人々の話題に上る」ことを「成功」と見なしています。そのため、集客や経済効果を目指すことに発想・思考が偏ってしまい、気が付かないうちに、全てを商品のように変容させてしまう発想に、多くの人が陥っています。だからこそ、この国の文化は今、「本質的な力を失いつつある」のではないでしょうか。

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基本的に一品以上持ち寄りで、皆がそれぞれ何かを作ってくる

祭には元来、デートのような側面もありました。デートは人に見せるためのものでもないし、本来は部外者に絡んできて欲しいものでもないですね。参加者が増えた方がいい、なんてこともないし、むしろ出来れば二人っきりの方がいいでしょう。
言わば、環境や暮らしを共にする人々同士のデート、地域住民という名の大家族のクローズド・パーティー…古来からの祭りの多くが、基本的に「部外者立ち入り禁止」になっているのには、宗教的な理由だけでなく、機能的な理由もあったんですね。

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沢山の料理を味見しながら、何度も乾杯し、あの話この話で夜が更けてゆく

そもそも、冠婚葬祭(結婚式やお葬式)に、不特定多数の観客や部外者を集めて、見世物にしたり、収益を上げようとしたり、それによって成功だとか失敗だとかという人はいませんから、言うまでもないことなのですが…。つまり、今のこの国の祭の大半は、祭と言えるものではなくなっているのかも知れません。

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一年の様々な出来事や想いが、共有されてゆくのが嬉しい

 「閉じたもの」「秘めたるもの」であるが故に、本質的な力を発揮するものって、あるんですね。そういう、古い暮らしの中にあった知恵の多くが、この拡大主義・自己拡張妄想が蔓延っている現代社会では、どこか見失われがちなのかも知れません。

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祭壇に子供たちが上がって、踊ってゆく

また、近くに住んでいても、それなりに親しくしていても、僕たちが互いに知らないこと・分かってはいないことは、とても多いですね。これもまた、互いにとっての「見えない世界」…祭とは、時と場を共有することにより、そんな互いの内に在る「見えない世界」同士がつながり、ある意味人々が大きな家族になるための装置でもありました。

音は、そんな様々な見えない世界から「訪れるもの(オト=オトズレ)」として、祭で鳴らされてきたんですね。芸術だとか自己表現だとかいう前に、そういうところから音楽文化を知っていくことも、大切な気がします。

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子供たちのカワイイ踊りに、鍋パーティーは最高潮!

京北冬至祭(&夏至祭)は、「音楽を家庭料理位の感覚で、全ての人がつくったり楽しんだり出来る社会を創造しよう」というテーマで始められた、京北村民歌舞プロジェクトの一環の行事。人類史をさかのぼって、文化の誕生を追体験しよう、という壮大な?大人の遊び(いわば体験型文化人類学)ですが、あくまでユル~く楽しくがモットー。

上記にあったような理由で、地域民しか参加できない祭になっており、儀礼や音楽や踊りは、なるだけ参加者みんなでやります。観客がいらない祭なんです。見られるためのものでも、見せるためのものでもないから…。

参加も自由で、あまり広く告知もしていません。こうして地域民のみで、つながってる人たちの間で、秘かに続けられているものに、年月をかけて、ゆっくりと宿ってくるものが見たいのです。

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皆さんの地域でも、友人たち家族と一緒に、冬至夏至の日に祭りをしてみませんか。