タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

あたらしいこと

(まだアップできていない旅の報告の、番外編みたいな内容だけど…)

f:id:KishimotoTaro:20190204180724j:plain

Blul(ブルール)…因みに布はグルジア(ジョージア)で入手した古布。

年末年始に、アルメニア(ハヤスタン)のブルールという笛を練習し始めた。昨年の春にシュヴィという笛を作って以来アルメニアの音楽を少しづつやり始めてはいたものの、自分がこのブルールにチャレンジすることになるとは正直思ってもみなかった。

 

ブルールは、トルコやブルガリアマケドニアアルバニアなど…世界各地で演奏されている「斜めに構えて音を鳴らす」笛と同系列の、木の笛。僕はこういった斜めタイプの笛の音楽を「中学生の頃から好んで聴いていた」にも関わらず、そして人から譲ってもらったり自分で入手したりして、「(ブルール以外の)実物を持っていた」にも関わらず…どういう訳か、これまで本格的に「自分でやってみよう」と思い立つことがなかった。

f:id:KishimotoTaro:20190204180938j:plain

ブルールを手に入れてすぐ、基本的な奏法をレヴォンに見せてもらう

目の前には音源も実物もあるのに、音を鳴らすことはあっても、運指だとか曲だとか奏法だとか、そこから先に突っ込もうとしなかった。好きなことや興味を持ったことに関しては、すぐに調べたりやってみたりする僕なのに、これはとても不思議なことだ!

 

このタイプの笛の鳴らし方・奏法が、既に僕が演奏している他の笛と比べて、大きく異なっていることも理由の一つなのかも知れない。南米のケーナアイルランドの木製フルートなどは、(多少異なるものの)発音時の口の形がそれほど大きく異なる訳ではない。しかし斜めタイプの笛は、口の形状や筋肉の方向がそれらと全く異なっている。舞台の上でこれらの笛を併用した場合、技術上の混乱が生じることは容易に想像できた。口の形だけでなく運指法も異なっているから、もしかしたら「このタイプの笛にだけは深入りしないよう」、入り口で自分に「待った」をかけていたのかも知れない。

 

そんな僕がこのブルールを「やってみよう」と思い立ったのは、他の斜めタイプの笛が使われているどの国の音楽よりも、アルメニアの音楽が放っている「何か特別な香り」に心惹かれていたからだろう。僕は昔から、何か「お誘い」のようなものを感じて、楽器や音楽を始めるタイプだったから。

 

そしてまた、素晴らしい演奏家と友人になったことも大きかった。アルメニアの笛演奏家・作曲家レヴォン・テバニャンの演奏は僕にとってはかなりツボだった。僕が(ジャンルを問わず)自分以外の笛演奏家に明確なシンパシーのようなものを感じたのは、本当に珍しいことだった。在命の笛演奏家の中では、今のところ唯一かも知れない(彼は卓越したピアノ奏者でもあるが)。

f:id:KishimotoTaro:20190204181107j:plain

レヴォン・テバニャンと。彼の演奏は本当にいい。

彼の演奏はブルールはもちろん、シュヴィという笛も別格にいい。僕はこれまで、「吹いたら鳴るタイプの笛(リコーダーやオカリナやティン・ウィッスルなど)に、楽器として「強烈に心がくすぐられた」ことがなかったように思う。たとえばティン・ウィッスルなどは、一時期まるで本業の如く演奏してきたけれど、むしろそれはその笛が使われている音楽の方に引っ張られて演奏していたような気もする。少し前から取り組んでいるモルドヴァ・スタイルのカヴァルや、アルメニアのシュヴィは、「吹いたら鳴るタイプ」の吹き口の笛であるのも関わらず、楽器にもその奏法にも僕は強烈に心くすぐられていた。だからこの歳になって「やって・みよう」と思い立ったのかも知れない。

f:id:KishimotoTaro:20190204181330j:plain

帰国してすぐに製作してみたShvi(シュヴィ・D管)とTavShvi(タブシュヴィ・G管)。

ところでこの「やって・みよう」は、「その楽器を自分なりに舞台で使ってみよう」とか「その楽器を自分の曲や好きな曲で使ってみよう」という意味ではなくて、「伝承音楽の演奏家レベルになるまでとことんやってみよう」という意味。「自分なりに使ってみよう」というような感覚では、「出会っているようで、実は出会えていない」ような経験にしか成り得ないし、実際「使い切れてもいない」ような代物にしか成り得ないものだ。そしてそういう「自分なりに使ってみよう」は、「実は本気で出会う気がある訳ではない」という、潜在的意識の表れでもある。

 

僕はたぶん、楽器や音楽を通して、時空を離れた人間の内なる世界にタッチすることに一番の関心を抱いてきた。出会いに成り得ないような出会いは、あまりする気がないし、そのような出会いを出会いと呼んで「自分なりに楽器を使っている」人たちの音楽にも、(それが良いとか悪いとかではなくて)僕自身、あまり関心を抱けないでいる。僕はいろんな楽器をやっていても、基本的に伝承音楽をやれるまで取り組むし、その上でオリジナル作品を作ることもあるが、録音物には使わない楽器も多々あるし、自分の音楽に使うために何かの楽器を「やってみよう」とすることは僕の場合ない。

 

また、いろんな楽器を演奏しようとする(好奇心旺盛な)人間にとっては、ある意味戒めのようなものだけれど、「長年受け継がれてきた音楽をそのまま演奏できるレベルにならないと、結局だまくらかしの域は出ない」というのは、肝に銘じておきたいことでもある。実際この社会って、だまくらかしの方が分かりやすくって、仕事になりやすいから。落とし穴はいつだって、すぐ近くにある。

 

そんな訳で、新しいことを「やって・みる」には、いつも多大な時間とエネルギーが必要になる。それまでと異なる楽器に取り組むことは、その都度「音楽初心者」に一旦戻ることも意味するから、当然人前に立つことや舞台に立つことは後回しになっていく。しかしこれは、人生修養としては本当に意味がある。今回は、この歳になるまで「出会わないようにしていた」自分に突如出会ってしまったような、ある種の驚きの感覚があるので、本当にやればやるほど発見が多い。まぁでも、自分に関する謎が深まってしまったとも言えるけれど。

f:id:KishimotoTaro:20190204184712j:plain

アルメヌイさんの旦那さんタロンさんから、ドゥドゥクを頂いてしまった。

 夏の終わりにアルメニアを訪れた際、レヴォンを通じてブルールを手に入れ、帰国してからは少しづつ触ったりしていたが、どういう訳か昨年の秋冬は珍しく多忙な日々になったので、なかなかまとまった練習時間が取れないでいた。だから、年末の仕事納めをきっかけに一念発起して本格的な練習をスタートしたんだけど、それでも年始以降、なかなかまとまった時間をとれなくなっている。もっとやりたいのに、という欲求だけが先を走ってしまって、そんな風に感じてしまうのだろうけど。

 

さて…僕が最近、楽器として特に取り組んでいるのはアルメニアの笛とルーマニアの笛だけど、自分はつくづく雲水に憧れていた小学生位の頃からマインド自体は変わっていないんだなぁと感じている。どこか遠くの国の旋律に出会っては、それらを一生懸命なぞってみるのも、どこかの国の経典や口承神話や口承詩、呪文なんかをなぞって暗唱している感覚に近い。

 

それは、本当なら直接出会えないはずであろう人々の人生や日々の探求の足跡に、時空を超えてタッチしようとしている感覚で、様々な人間が築いてきた世界観や思想なんかを身体的に読み取ったり、自分の身体に映し出したりしながら行う、時空巡礼のようなものだ。何かを「やって・みている」期間、僕はそういった極めて個人的な欲求を満たすことに、時間とエネルギーを優先したくなっている。ある意味、危うい(社会生活的には)。

f:id:KishimotoTaro:20190204184857j:plain

ルーマニアのオルテニア・スタイルの旋律バージョンを教えてもらう。

音楽を「やって・みる」上で、人前(舞台)に立つことや人に何らかを発信することや何らかを伝えること、人から何らかを得たり人と何らかを共有することは、本当につくづく副次的なもので、本来二の次のことなのだろうな、と改めて実感する。もちろんそれらに意味がない訳でもないし、むしろ大きな意味があることは承知の上だけど…それでも、それらは小さい。その小ささを胸に音楽をやっていこうとしないと、実際音楽をやっていても、本質的には「やれてはいない」状態に在るのではないかと思う。

 

かつて「芸術は時代と共にある」と言った人や、「芸術には国境はないが国籍がある」といった人、「人前に出してこそ、芸術は芸術になる」とか「芸術は社会の中で高められていく」というようなことを言った人がいたけれど、その人たちは近代以降の発想や価値観、現代的思考に絡めとられてはいないだろうか…他の現代社会人と同じく(ゆえに、それらの言葉に同意する人々はこの社会に多いとは思うけれど)。 

f:id:KishimotoTaro:20190204185128j:plain

Shoghaken Ensembleのレヴォン&ヴァルダンと、真夜中のエレバンでお茶会。
芸術にしてもアートにしても、今は言葉として気軽に便利に使われている時代だから、本当は他の表現を使いたいなと思っている。でもあえて使うなら、芸術って「時間や空間をこえることができるもの」のことだし、芸術って「現在・現代という幻想から、飛翔しようとしているもの」のことだ。
 
時々、そういうことを思い出させてくれる音楽や楽器に出会ったりする。
素敵な人々と共に。