タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

カテリーナ公演、そして楽市楽座公演へ

この前、庭で羽化したヤツだろうか…草刈りをしていると、クロアゲハがやってきて、ひとしきり周りをヒラヒラ飛んでいる。天気がいいと、一日家にいる日でも(特に外回りで)やることは多いし、掃除したり料理したりしていると、いつの間にか夜になっている。考えてみれば子供の頃は、夕暮れの時間は大抵、外で迎えていたように思う。今の季節は16時半頃から光が柔らかくなって、それから夕暮れまでは屋内に入るのがもったいないくらいの、至福の時間となる。

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庭がフェンネルの森になってゆく…

さて、もう10日も前のことだけれど、大分・杵築の山香にあるカテリーナ古楽研究所の「カテリーナの森」で行われた「Sing Bird」。僕は一日目(11日)のコンサート「祈りの夜」に参加させてもらった。中世・ルネッサンスの音楽を中心とした選曲、その中に伊福部昭によるギリヤーク族の歌や、アルメニアの歌や舞曲も盛り込まれた、ユニークな内容。野外に建てられたステージが本当に素晴らしくて、森の中というロケーションも手伝い、夕暮れ時には他では味わえない幻想的なムード漂うコンサートとなった。

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夜になると、カテリーナの森は幻想的な会場に… photo by Takanori Suzuki

僕自身は、野外で急に冷えたこともあって途中指関節が硬直し、笛の指孔が閉じられなくなるというアクシデントもあったり(これまでの演奏活動の中で初めての経験だった)、演奏上幾つかの反省点はあったけれど、想い出深い曲もあったし、何よりこのメンバーで音を重ねられたことが楽しかった。こういう音楽を公博さんともやってみたかった、という想いはあるものの(このコンサートは松本公博氏の追悼企画でもあったので)、そこに公博さんが「おられないという感じがしない」、不思議な舞台でもあった。

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二日間のイベント終了後、ステージメンバーと…photo by TKC

次の日12日は出演がなかったので、一日ブラブラとこのSing Bird というイベントを楽しませてもらったんだけれど、Sing Birdはカテリーナの皆さんが日頃暮らしている場所、そして森の中を、端から端まで使うような大きなフェスで、自らも舞台に立つカテリーナの皆さんは、主催として本当に大変だっただろうと思う。今回16回目で一つの区切りとしてのファイナルを迎えた訳だけれど、この二日間を眺めて、これを毎年やってきたのかぁ~とつくづく感動した。

 

カテリーナの未來君や舞香さんのユニット、baobabのステージも、(考えてみれば)まともに観れたのは初めてだった。僕は人のステージを見に行くことが普段あまりないから、こういう機会は実に有り難い。色んな想いを辿ってゆくようなそのコンサートは、しみじみとしてて、本当に良かった。今回「受け継がれる」ということや「種をまく」ということについて、改めて考えさせられた。カテリーナのご家族皆さんは、公博さんが長年取り組んできたチャレンジや探求を引き継ぎながら、さらにまた新たな種を撒ける人たちなんだと感じた。 

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今回初めて共演したタブラの逆瀬川さん…30年近く前から存在を知ってたのに

僕も田舎で暮らしているから、毎日が自然との「せめぎあい」でもあるんだけれど…都市に暮らす人が音楽で描く「自然」には、ある種のファンタジーを感じることが多い。それを悪いとは言わないけれど、恋愛をしたことのない人が、幻想の恋人を歌っているような…そんな奇妙な感覚を覚えることが少なくない。自然は、人間がたまに眺めて味わうためにあるものでもないし、人間が都合よく一方的に味わうためのものでもない。ましてや人間を都合よく癒してくれるもののように捉えるのは、ある意味極めて人間的な一種の暴力ではないだろうか…とさえ感じてしまう。

 

バオバブの音楽には、そういうのがない。いや、そのナチュラルな響きの中に、自然環境を眺めている感もあるし、それらに触れてる感もあるし、それらに救われている感もあるんだけれど…ずっとそこにあるものって、そんなふうに表れるもんなんだな、と感じさせられる。それは普段から「まとっているもの」だから、音楽の中に自然に現れるものなんだろう。表そうとして、現れるもんじゃない。

 

美味しい野草茶をご馳走になったような気になった。

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終演後、スタッフさんたちと。みんないい顔。…photo by TKC

 

そして先週日曜日は神戸での仕事の後、久しぶりに野外劇団「楽市楽座」さんの公演を観に、長田神社に向かった。楽市楽座さんは「水上・廻り舞台」というユニークな仕掛けの「野外」劇団で、雨の日も客席は屋根がつくものの、演者はずぶ濡れのままでやる、という気合の入った劇団。そして観劇料は投げ銭のみ、というとてもユニークな劇団だ。これまでは長山現さん・佐野キリコさん夫妻とその娘さんの萌ちゃん三人だったけれど、この前萌ちゃんが結婚したので、今回からはパートナーの佑之助君加わっての、家族四人での劇団。 

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楽市楽座は、家族全員が楽器を演奏し、歌う

ところで、もう長い間「投げ銭コンサート」なるものが巷に溢れているけれど、その大半は、「嘘の投げ銭」。つまり、投げもしないのに、投げ銭と言っている。要は「チケットなしにすると、客集めが容易になる」という安直な思惑のもので、カフェにしてもホールにしても、「敷居を低くする・門戸を広げる・機会を増やす」と言えば聞こえはいいけれど…実質的には主催側の「リスク回避」でもあり、もっと言うとそれは、場を持つ者の「責任放棄」でもあったりする。

 

「やらせたるけど、金集まらなかったらそれはそれで、自己責任ね」という訳である。道理で、人を育てる場というのも、人を育てることの出来る人間というのも、世間では少なくなっている訳だ。一言で言うと、「損はしたくない連中の言い訳」として「投げ銭」式がある。「リスクあったら、お店も続かないしね~やる側も、気軽にやれていいでしょ~」という訳である。昨今は「場を持つ者の、気概がなくなった」のかも知れない。

 

もし「敷居を低くしたい・門戸を広げたい」ということなら、カンパなりドネーションなりお気持ち代なり、表現も方式も幾らでも工夫できる。要は「他でもやってるアレで、うちもやろうや」ってな感覚で、やってしまっているのである。最低保証を主催側がきちんと準備して企画する…くらいの覚悟や姿勢が持てないなら、そもそも客寄せの如くの企画を持ち出して、人を使って客層拡げよう・活性化しよう的な都合のいい行為は慎んでもらいたいものだ。僕は、そういった投げ銭企画を安易に持ち出してくる人とは、何もやらないことにしてきた。

 

ある意味「投げ銭」と言うのは、「屋内を路上化する」ようなもので、お店やホールにとってもデメリットもあるし、演者の方も一歩間違えれば「キャッチーなもの」「わかりやすいもの・パッと受けるもの」に走りやすくなり、一方で「わかりにくいもの」や「芸術的なもの」をするような人間はどんどん減ってしまう。そして、無料でもいい訳だから、それほど責任もない…とばかりに、浅い芸・内容で、気軽に人前に立とうとする人間も増えかねない。国をあげて文化度を下げたいなら、言い訳を言いつつ、そういった安直に走るもいいだろうけれど。

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見よ、この投げ銭!この日はキリコさんのロック魂が炸裂していた

その点、楽市楽座さんは、モロ野外!そして本当の投げ銭!ホントに投げる!

投げ銭チャーンス♪」タイムもあるし、「投げ銭のうた」もある!なんと清々しいことだろう…これをおいて、他で「投げ銭」の文言は一切使ってほしくない。

 

「うちは演劇だけど、ゲテモノだからね」…楽市楽座の源さんがニヤリと笑いながら言った。なるほど!この確信犯的発言は、これまた清々しい。下手物とは、上手物に対する言葉。大衆演劇が上手物を目指したら、それは「ブレ」でしかない。ロックが上手物を志向したら、それはもうロックではない。より多くの人にメッセージを発しようとするものが上手物を気取っているなら、それは偽善だ。

 

第一、楽市楽座さんの投げ銭タイムはかなり楽しい。金を投げるのって、こんなに楽しいものなのか。そして「さぁ今だ、銭投げろ!」ってなこと出来るミュージシャン、今いるだろうか。拝金主義に過度に頭やられちゃってるからこそ、実は内心お金を崇めちゃってるからこそ、お金を投げるなんて・お金を投げられるなんて、みたいなマインドになっちゃってるんじゃないだろうか。

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廻り舞台は結構まわる(笑)アイロンちゃんと蚊取り線香君もなかなかいい

まぁ、そういったことに大いに気付かせてくれる舞台芸能であり、そして様々な想いやメッセージを「キュートに」放り込んでくる辺りが、この楽市楽座さんの魅力なんだけれど…今回の演目「かもしれない物語」は源さんをはじめ、楽市楽座家族の「世界へのまなざし」が、より見える作品だった。あたたかい物語、そして身近なファンタジー、四匹のカエルたちが、生まれ変わって、また戻ってくる「かもしれない」この世界への愛を、うたう。

 

絶望するのも、嘆くのも、簡単なことだ。声高に何かを主張するのも、情報を横から横へ流すのも、簡単なこと。表現者のやることじゃない。

表現者が希望を描かなくなったら、世界は暗がりになる。
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