タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

秋はアキ、しかしアクナキ日々

秋。コーヒーが美味い…からだに沁みる。虫たちが家の中にまで入って来て、妙なる声を響かせる。やたらに可愛いトカゲやヤモリたちがトテトテと走り回ってる。しみじみと、アレコレ想い返す日々。
この山里で暮らし始める時、「力仕事も多いし、いろんなことに時間と体力をとられる」とか「移動も大変だし街も遠い、かえって音楽がしにくくなる」と言われたことがあった。確かにやることは常に多いし、時間もかかる。外の作業で、手がだるくなっていることも多いし、草刈りなんかはキリがないから、時々気が遠くなったりもする(笑) 

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今年は草刈りの合間に忘れずに収穫…実は裏庭の草むらでニョキニョキ育っている
でも心配されていた事より、むしろ別のことがこの歳月で加速中。草刈りも料理もお喋りも、お茶飲んでボーッとしている時も昼寝の時も、経験的には音楽やっているのとほぼ同じになってしまって(比喩だとか理想、口先の哲学もどき、格好だけの芸術論なんかじゃなくて…身体的な実感)、これでどうなるかというと、当然ながらある意味「音楽的経験が足りてしまっている」訳だから、人前に出て演奏したいなんて欲求が(以前に増して)湧かなくなって来る。これは立場的に生活的にヤバい状況とも言える。 
また一方で、今まで音楽として聴いていたものが幾つも、音楽としての認識・興味対象から外れてしまった。もちろんそれらを否定している訳でもなく、人がやってる分には楽しそうだし、微笑ましく見えるんだけど…ちょうど知らない人たちが世間話をしている位にしか見えなかったり、何とも反応しようのない独り言に聴こえてしまったりもする。たぶん今の僕にとっては「ヒト以外」が発してる音の方がスゴ過ぎて、魅力的なのかも知れない。また、何気なくヒトが発している音や声の方が、音楽以上に音楽過ぎて、僕は常に足りてしまっているのだろう。これもある意味ヤバい状態と言える。 
そして、今までの活動や今まで作って来たもの…それらがほぼ前世の記憶のようになり、自分の作った曲でもリアルに「これ、誰が作ったの?」って感じで(昔からそういう傾向があったけど)、純粋に今なら「どこかの誰かが作った曲」として演奏してしまう。CDなんかも自分のものとして世の中に発信する意欲がイマイチ湧いてこない。まぁまぁ、ヤバい。これが他人の状況だったら、心を込めて厳重注意する(笑) 

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音楽好きならご存知の人も多いだろう…1991年公開の映画「めぐり逢う朝」と、その原作本。特に小説の方は、音楽に関しての示唆に富んだ対話が素敵で、お薦め。
ちなみに「ヤバい」は結構古い言葉で、厄場から来ているが、いよいよ僕も本格的に、危うい業の渦の中に身体ごと浸かってしまったのかも。思っていたよりも平和で居心地が良いから、理性の声もどんどん届きにくくなってきた。逆に言うとこの歳でここに飛び込むことが出来て、良かったのかも? 
ところで、秋の語源を「赤」からだとか、「明らか」からだとか、「飽きる」からだとか、世間では(豆知識やネットなどの軽めの情報として)幾つかの説が挙げられているけれど…更にそれらにも源がある。 
エネルギーが「みちる」状態を表す「ア」と、エネルギーが「あらわれる(顕現する)」状態を表す「カ」、それらのコンビネーションとしての古き音…「アカ・アキ・アク・アケ」たち。漢字の概念に惑わされては、音が本来表していた世界観が細分化して狭まり、本質的な理解が損なわれてしまいやすい。あきる、なんて漢字があてはめられると、現代では「もういいや・充分」的なイメージになってしまう(笑)それじゃ、そこから「あきなふ→あきない(商い)」といった言葉にもイメージが拡がりにくいだろう。 
色にせよ状態にせよ、収穫だとか暮らしに関わるあれこれにせよ、僕らの使う秋という言葉は、アキという音から生れている。言葉はまずは文字ではなく、音でとらえることが大事なんじゃないかな、と思う。今の日本人って文字的に日本語を喋ってるから、たぶん音的に喋ってた人たちと思考の構造が根本的に異なっている。ちなみに古来からオリエント諸地域ではアの音は重視されていたというから、ア音重視の渡来氏族たちは(現在の)オリエント乾燥地域が先住の地ではなかったか・もしくはその文化を継承する人々ではなかったのか、なんていう研究もある。こういうのはオモシロイね。 
さて、そっちに話が行くと長いので、話を戻すけど…Blulという笛の修行がようやく次の段階に進みそうになってきた。この歳になって完全な初心者状態となったことで、自分の身体感覚が大きく変容しつつある。最も大きな気付きは「今まで自分が、笛をちゃんと練習したことが(本当は)なかった」ってことだけど、この歳になって、気付くことじゃないだろって感じだ(笑)それもあって、この笛には運命を感じている。 

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アルメニアの斜め型笛Blulの吹き口。習得は困難な楽器だけれど、会得すれば今まで演奏してきた笛で出来ること、その大半がこれ一本で出来てしまう位のポテンシャルがある。
そもそも、一番最初に演奏するようになったQuenaという笛は、まずは竹を切って自分で作って始めたんだけど、その後、当時東京に単身赴任していた父が現地のものを入手してきてくれたことで本格的に取り組み始めた経緯がある。その父が2018年の頭に亡くなって、その後に訪れたアルメニアでこの笛に出会った。考えてみれば不思議なタイミングだった。父はQuenaを演奏する僕を知っているが、Blulを演奏する僕を知らない。
積み上げることって、探ることって、先が見えないことって、もどかしいけど、楽しいもんだなぁ。正解を見せてくれる先生が横にいないということも、僕にはピッタリ。今後どうなるのか、全く分からない。 
秋は大好きだけれど、自分の中では、あくなきものが動き続けている。