タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

雨の森、霧の中を

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この写真を見て、音が聞こえてくる人はいるかなぁ… 霧の中の木立にいると、繊細で神秘的な音に包まれる。何の音、なんて言えない。葉?梢?雨?いろんなものが触れあったり擦れ合ったりしてる音が、それこそ無限に重なっている。こういう音を聞くたびに思う。ミュージシャンという、近代の思考パターンで行動しているに過ぎない人間が、自分の音楽だとか、芸術だとか、まるで誇っているかのように言うものについて。同じ人間に向かってだけ、こしらえて、発している、小さな音の羅列について。
雨の森を歩いた。やっぱり森に入るなら、雨の日に限るかも。濡れた大桂からは、芳香な香りが漂っていて、いくら写真や映像は撮れても、この香りまで持ち帰ることは出来ないということを改めて痛感した。いつか夜中にこの森に来て、真っ暗闇の中でこの香りに包まれて、息を潜めながら時を過ごしてみたい。星も、別物のように見えるだろうな…。

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一つ一つの色が、何とも言えない魅力を発していて…度々、立ち止まってしまう。もしかしたら、そういうところでずっと過ごしていてもいいのかも知れない。
10月17日朝の7時、ラジオ関西「ひょうごラジオカレッジ」という番組で、25分ほど「しあわせていますか?~しあわせと幸福は、別のもの」というタイトルで、一人語り。もう収録は終わったけれど、無計画に喋っての一発録りは、ついつい早口になっちゃったし、後ろの方はあまりまとまってもいない(いろいろ言い忘れた)。でも、ご興味のある方・早起きの方はぜひ。
 「しあわせていますか?…のタイトルは、誤植ではないですか?」と、事前にラジオ局の方が心配そうにメールを送ってきた。もちろん、誤植じゃない。世の中には、いろんな幸福論というものが溢れていて、本屋に行けば何冊も同様の本が目につくんだけれど…僕はそれらを目にする度に、ちょっと残念な気持ちになる。多くの人が「しあわせ」と「幸福」を、同じような意味で使っているけれど、ホントはそれぞれ別の意味を持っている。
ノコギリと包丁を、同じ切る道具だと思って混同して使ったら、どうなるだろう?言葉ってパワーのある音だ。多くの人は、無意識に音を発している。その音を使って自分が思考できていると思い込んでしまう。その思考を、音や記号で言い表せていると思い込んでしまう。そして音や記号で互いにやり取りができていると思い込んでしまう。まるで、音を鳴らしあっているだけで、合奏できていると思い込んでしまうみたいに、まるで楽譜が音楽をそのまま書き表せていると思い込んでしまうみたいに。

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木々のたわみが、冬の雪の重さを表している。そう思ってここに立っていると、真っ白に彩られた季節の光景が浮かび上がって来る。

森にたちこめる霧を眺めながら、久しぶりに昔(今となっては前世のようだけど)に書いた「空のささやき、鳥のうた」という本(2009年から書き始め2014年に発表、CD2枚で計16曲の作曲作品付き)のことを思い出した。そもそもこのラジオ出演、「その本について話して下さい」という依頼だったんだけど…結局それを断って、上記のことだけ話した(笑)この本はもう残り少なくなっていて、再販する予定もないから。前世みたいということは、作品作るごとに、いっぺんづつ死んでるのかも(笑)

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存在の重さを感じることって、特別なことなんだなぁと改めて思った。この日は、倒木に目が吸い寄せられてしまう。

その本に付けたCDの1曲目が「霧の中を」だったので、雨の後に霧に覆われた森は、10年ほど前に降ってきたビジョンを、鮮烈に蘇らせてくれた。
 
 「僕たちは霧の中、
木々のように立ち尽くし、だまって世界を眺めている。
ふいに風が吹き、霧の中で幻を見せていた光が、彼方を照らすと
そのとき僕たちは、知ることになる。
世界は、霧の向こうに拡がっていたことを。
僕たちを、取り囲んでいるように見えていた世界は、
僕たちの心の中で、閉じていただけだった。
僕たちは駆け出す、かすかに残る霧の中を。」
 

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まるで太古の昔の儀礼跡のような倒木。やっぱりこの日は、倒木から目が離せられない。もしかしたら、これはホントに、一種の儀礼かまじないのようなものなのかも知れない。

結局この曲、人前では作品お披露目のコンサートなんかで、二度ほどしか演奏していなかったんじゃないかな…。霧に包まれて、時折雨が降っていた森は、昼を回っても冷たい風が吹いていて、油断して薄着していた僕には少々寒かったけれど(笑)、やはり森には時々入って行かないといけないな、と思った。
 
相変わらず、世の中は霧に覆われているし、僕の中にも、霧はまだ漂っている。でも、香りや音には、昔よりもずっと敏感になっているような気がした。

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う~ん、カワイイ…一生懸命、木を登ってく山のカエル。

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足元には、夥しい数の栃の実が落ちている。当たったら痛そうだけれど、これがボトボトと落ちて来る時の音を、いつかゆっくり聞いてみたい。

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栃の木にまとわりつく、蔓。その蔓も時代を経て太くなり、苔むして謎の生命感を放っている。たまらない…

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…これは凄い。もう何が何だか分からない共生ゾーンになっていて、小宇宙感に圧倒される…

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その高さ、35メートル超。樹齢、謎。これが今回の目玉…芦生の大桂。 100年前の写真を見ても、今の姿とほぼ変わらないそうだ。どうなっている、この樹は??複雑に絡み合って伸びた幹、重力が関係ないかのようにひろがった幹のような枝。 辺りには、何とも形容しがたい「香り」が漂っている。 この樹に魅せられて(憑りつかれて)描き続けている豊島さんは「醤油みたいな…みたらし団子みたいな香り」と言っていたが、確かに。何か知っているような、懐かしいような、でも得体の知れないような、ホントに形容しがたい香り。すごいパワーが満ち溢れている!

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実はここに案内してくれた豊島さんとの縁をつないでくれたのは、宗教学者鎌田東二さんなんだけど、鎌田さんはこの大桂を見た時、「あ…ここには、いる」って言ってたそうだ。確かに…。きっと、夜や、誰もいない時に、樹の近くで息を潜めてじっとしていたら、姿を現わしてくれるような気がする。

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倒木のかけらの小宇宙。こんなのが辺りにいっぱい転がっているから、大桂のある岸辺は山の中の銀河って感じだ。

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雨の後だからかな、小さい奴らが元気そうに見える。

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芦生の小宇宙…こんな生え方するの???っていうくらい、何だか等間隔に並んだキノコたち。何なんだ、この子たちは??(笑)