雨の森を歩いた。やっぱり森に入るなら、雨の日に限るかも。濡れた大桂からは、芳香な香りが漂っていて、いくら写真や映像は撮れても、この香りまで持ち帰ることは出来ないということを改めて痛感した。いつか夜中にこの森に来て、真っ暗闇の中でこの香りに包まれて、息を潜めながら時を過ごしてみたい。星も、別物のように見えるだろうな…。
10月17日朝の7時、ラジオ関西「ひょうごラジオカレッジ」という番組で、25分ほど「しあわせていますか?~しあわせと幸福は、別のもの」というタイトルで、一人語り。もう収録は終わったけれど、無計画に喋っての一発録りは、ついつい早口になっちゃったし、後ろの方はあまりまとまってもいない(いろいろ言い忘れた)。でも、ご興味のある方・早起きの方はぜひ。
「しあわせていますか?…のタイトルは、誤植ではないですか?」と、事前にラジオ局の方が心配そうにメールを送ってきた。もちろん、誤植じゃない。世の中には、いろんな幸福論というものが溢れていて、本屋に行けば何冊も同様の本が目につくんだけれど…僕はそれらを目にする度に、ちょっと残念な気持ちになる。多くの人が「しあわせ」と「幸福」を、同じような意味で使っているけれど、ホントはそれぞれ別の意味を持っている。
ノコギリと包丁を、同じ切る道具だと思って混同して使ったら、どうなるだろう?言葉ってパワーのある音だ。多くの人は、無意識に音を発している。その音を使って自分が思考できていると思い込んでしまう。その思考を、音や記号で言い表せていると思い込んでしまう。そして音や記号で互いにやり取りができていると思い込んでしまう。まるで、音を鳴らしあっているだけで、合奏できていると思い込んでしまうみたいに、まるで楽譜が音楽をそのまま書き表せていると思い込んでしまうみたいに。
森にたちこめる霧を眺めながら、久しぶりに昔(今となっては前世のようだけど)に書いた「空のささやき、鳥のうた」という本(2009年から書き始め2014年に発表、CD2枚で計16曲の作曲作品付き)のことを思い出した。そもそもこのラジオ出演、「その本について話して下さい」という依頼だったんだけど…結局それを断って、上記のことだけ話した(笑)この本はもう残り少なくなっていて、再販する予定もないから。前世みたいということは、作品作るごとに、いっぺんづつ死んでるのかも(笑)
その本に付けたCDの1曲目が「霧の中を」だったので、雨の後に霧に覆われた森は、10年ほど前に降ってきたビジョンを、鮮烈に蘇らせてくれた。
「僕たちは霧の中、
木々のように立ち尽くし、だまって世界を眺めている。
ふいに風が吹き、霧の中で幻を見せていた光が、彼方を照らすと
そのとき僕たちは、知ることになる。
世界は、霧の向こうに拡がっていたことを。
僕たちを、取り囲んでいるように見えていた世界は、
僕たちの心の中で、閉じていただけだった。
僕たちは駆け出す、かすかに残る霧の中を。」
結局この曲、人前では作品お披露目のコンサートなんかで、二度ほどしか演奏していなかったんじゃないかな…。霧に包まれて、時折雨が降っていた森は、昼を回っても冷たい風が吹いていて、油断して薄着していた僕には少々寒かったけれど(笑)、やはり森には時々入って行かないといけないな、と思った。
相変わらず、世の中は霧に覆われているし、僕の中にも、霧はまだ漂っている。でも、香りや音には、昔よりもずっと敏感になっているような気がした。