2020年12月21日冬至祭
たのしかった…今年の冬至は、知らない間に門をくぐっていたような不思議な感覚がした。で、その夜は燃え尽きて(笑)、次の日は昼近くまで布団の中にくるまっていた。冬至明けの太陽は、いつもながら気持ちがいい。冬至を境に、本当に太陽の光が変わったような気もしてくる。そして、(自分自身を含めて)世の中の人がもっと清々しく生きることが出来るようにならないかなと、いつもながら夢想する。
たのしかった…今年の冬至は、知らない間に門をくぐっていたような不思議な感覚がした。で、その夜は燃え尽きて(笑)、次の日は昼近くまで布団の中にくるまっていた。冬至明けの太陽は、いつもながら気持ちがいい。冬至を境に、本当に太陽の光が変わったような気もしてくる。そして、(自分自身を含めて)世の中の人がもっと清々しく生きることが出来るようにならないかなと、いつもながら夢想する。
毎年この冬至祭について投稿しているけれど、この祭は地域住民しか参加できない「閉じた祭」で、言うなれば地域住民だけのパーティーかデートのようなものだ。パーティーやデートに、多くの人を呼ぼうとか、多くの人に見せようとか、それによって収益を上げよう…なんて考える人はいないだろう。もはやそれはパーティーやデートじゃない。実は今この国で行われている祭は、祭のように見えて実は祭ではない。
集客を伸ばすこと・収益上げること・より広く知られること、それらを地域や暮らしの「活性」化と捉えることの危うさや、そのことが生み出している落とし穴…その本質について気付いている人は意外と少ない気がする。閉じることによって、開く知恵というものがある。しかしそういったものへの知見は、今の社会では見失われがちだ。また今の日本は「願いと祈りを混同した社会」で、それは「祈りを見失った社会」ということでもある。だからそういう意味でも、僕はこの冬至祭は本当の意味での祭になっていると思っている。
僕は音楽に目覚めた頃から文化人類学や神話学、考古学の本を愛読していたが、実は民族学・民俗学的なフィールドワークをしている多くの人間が、「自らの社会が失ったものに憧れ、それらを探して彷徨っている人間」「かつて足下にあったはずのものを失った社会に生きる人間」でもある、ということが気になっていた。だからこそ、長年民族音楽と呼ばれるもの(僕は地域的音楽というようにしている)に関わってきた人間としては、自身の知見を通して一から地域に文化を創造すること、つまり「フィールドワークされる側」になるようなことが、本当は究極的な到達点じゃないかとも思ってきた。
等など、多少ディープなことは考えていても、それをユル~くやるのがむしろ一番大切でもあって、パーティーやデートは気張ると野暮だし、肩の力が抜けていて、それでいてワクワクやドキドキがある方が素敵だ。今年もユル~く集まって、そして真剣に家々を巡り、友人たちの家のためにお祈りし、それぞれの家が聖地になるよう祭をした。それにしても、持ち寄りパーティーのクオリティの高さにはいつも驚かされる。
僕は自分が暮らしている土地や、そこに暮らす友人たちに、愛着と誇りを感じている。