タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

①最初のアルバムの冒頭曲「フユノダンス」


フユノダンス / きしもとタロー(ケーナ) Winter Snow Dance/Kishimoto Taro (Quena) - composed in 1995

最初のCDの冒頭曲「フユノダンス」の物語(縮めたけど長い)

先日、闘病中の母が突拍子もなく昔のアルバムを取り出してきたら、そこには10代20代頃の僕の写真があった。それらを見て、これまで感じたことのない衝撃を覚えた。自分である実感がとんでもなく薄く(もちろん記憶が全くない訳じゃないが)、まるで自分によく似た他人の写真を見せられているような、もしくは知りもしない前世の話を聞かされたみたいな感覚がして、過去の自分と今の自分に、ある種の「連続性の無さ」を見出して愕然としてしまったのだ。昔の写真を見て、ここまで違和感や衝撃を感じたことは、これまでなかった。

さて、僕はこれまでにCDを何枚か出してはいるが、その全ては自分の作曲作品で、それ以外の既存の楽曲、南米系やアイリッシュ系、その他様々な地域の音楽…つまり最も曲数が多い、自分が学んできた音楽の数々は、これまでCD化してきていない(その理由はここでは長くなるので、触れないが)。

作曲作品の場合、湧いてくるイメージを形にしてしまったら、もう自分としてはほぼやるべきことを終えてしまったような感覚が僕にはあって、自分で演奏していても、もはや自分が作ったものなのかどうかよく分からなくなっていることが多々ある。考えてみれば、これまで色んな所で演奏してきたのに、それらの大半の記憶が飛んでて「あれ?ここって演奏に来たことがある…」というようなことが、僕の場合ホントに頻繁に起こる。これは単に、記憶力に問題があるということなのかも知れないが。

ご存知の方もおられるが、僕は音楽活動を始めて15年近くレコードやCDといった「自分の録音物」を作って来なかった。録音物って、営業資料でもあり物販商品でもあるから、僕のような音楽家には必要不可欠とも言えるものなんだけど、まともな資料になるものを作らないまま、ずっと長い間仕事を受け続けていたということだ。フツーに考えると、音源サンプルつまりパッケージ化した「持ち運びできるもの」がないと、どこかで使ってもらうとか、それによって広く知ってもらうなんてのも無理だから、仕事にならない(仕事が来ない)。極端に言うとこれは「僕の音楽を聴いてもらう・知ってもらうには、僕の演奏会に来てもらう他ない」ということなんだけど、よく知りもしない音楽家の、内容も分からない演奏会にいきなりわざわざ足を運ぶ人なんて、そういない。

だから、「それにも関わらず」僕の演奏会に「来ることになった」人たち、僕の音楽を直接「聴くことになった」人たちに対して、いつも「何でここに来ることになったんだろう?何で僕の演奏を聴くことになったんだろう?この人たちは~」なんてことを考えながら、客席を眺めている…僕の音楽活動は長い間、一言で言ってしまえば、そういうものだったような気もする。人生が墜落しなくて良かった。

そういう人たちの前で何度か演奏して、「それっきり」になっている作曲作品が、僕にはどれくらいあるだろう。まぁ数える気にもならないし、実際はっきり覚えてもいない。そんな様子を目の当たりにした様々な方々から「録音物をちゃんとそれらしく作れ」とか「もっとネームバリューのある共演陣で脇を固めろ」とか「ちゃんと皆の知ってる有名曲をやれ」とか「ターゲットを考えて見せ方も考えろ」とか「ちゃんと営業回ってしっかり宣伝しろ」とか「コネをつかめ」とか「いい加減東京へ出ろ」とか(笑)、いろんな助言を頂いてもきたんだけど、そういう助言を下さる方々と僕とでは世界観が離れ過ぎているし、そもそも僕は基本的に人の言うこと聞かないタチだから、助言をもらう度に、だいたい逆のことをやって来てしまった。たぶん、本当に心配してくれてたのに。

だから僕が「自分の作品を録音して形にしよう」と思い立ったことは、自分としては大変革だった(これが言いたかったのか)。でも、録音はしたものの、僕は自分の作品全てを著作権登録するつもりはなかったし(その辺のことも長くなるのでここでは触れない)、販路もろくに考えてなかったから、まぁ形にしたというだけなのかも知れない。今、僕の周りにいる人で、僕の作品群をちゃんと聴いたことのある人は少ない。イベントなどで耳にすることはあっても、僕の音楽作品はあまり知らない、という人との付き合いの方が、圧倒的に多い。僕はそういう音楽家なんだろう。

ともあれ、そうして最初に作ったCDが「ハルノヒ」で、これには1993年から1997年までの作品が収められている。このところ僕は大きな分岐点を迎えているので(そういう気になってるだけかも知れないけど)、この初期収録作品を超カンタンな写真動画の形で全アップすることにした。本当は映像を作るのも好きな方なので(実は高校の時、映画製作研究会の会長もしてたww)、映像としてのイメージがある曲もあるんだけど、やりだすとキリがない性格なので、最初から自分を牽制しておくことに。

さて、このCD「ハルノヒ」の冒頭にあるのがこの曲「フユノダンス」なんだけど、これはホントに浮かぶまま五線紙にダーッと書いてしまっただけの曲で、それだけにタイトルが付けにくかった。でもこの曲を最初のアルバムの冒頭にすることは、自分の作品を録音しようと思い立った時から決めていた。

ちょうどこの曲が出来た頃…世の中は第一次「癒し」ブームに入った時代で、これはマーケティングによって作り出された人為的な「ファッション」でもあった。この社会は長~く享受主義に浸りきって来たから、必然的に「闇と病み」を抱え込みつつあった。そんな世の中の風潮や需要に「ちゃっかり乗っかって」、ちゃんと医療を学んだ訳でもなく、治療者としての修行を積んだ訳でもないインスタントな「ポッと出」の人々が、拙い演奏でも、中身がない音でも、「心地良く並べりゃ」「〇×っぽいものに仕立て上げれば」、認めてもらえる時代・商売ができる時代が到来していたという訳だ。耳心地良い音を並べるだけで、「人様を癒すことが出来る」と豪語できる人々が世間に溢れ出したんだけど、医者と違って責任ないし、薬事法違反で摘発もされないから、自説を振り回してやりたい放題という訳だ。このような状況を背景に、器楽音楽の総BGM化が加速し、流し聞き出来る音楽の方が重宝され、ガッツリ聴き込むような音楽は世の中から極端に減っていった。

僕はと言えば…80年代からシャーマニズムだとか、当時の海外における音楽療法の研究だとか、いにしえの神秘主義者たちの音の秘儀だとかにご執心だったので(笑)、この無責任で幻想的でイージーでインスタントな癒しブームにはホントに辟易していた。どんなに稚拙なものでも、修練を積まないものでも、癒しの一言を添えさえすればそれなりの需要がある。商品として、そこそこ売れてしまう。だから、内容がお粗末でも容易に胸を張れる。たぎるような情念も持たず、時の凝縮も感じさせず、発酵したような匂いも放たない、必然性の薄い「音楽のようなもの」が、あっという間に巷を席巻した。「っぽいもの」の方が「モロのやつ」よりも仕事になるのがこの日本社会だけど、まぁこの「癒しブーム」で、それに更に拍車がかかったと言えるのかも知れない。

そしてどういう訳か、インスタントな人ほど、フワっとした服着たり目を細めたりして、聖人面したがる。自分が「与える側なんだ」という顔を、何故かしたがる。実際喋ってみると、内容は薄くて、ちゃんとした知識も経験も「言う程じゃないじゃん」という人々が、瞳孔が開いたままのような取り巻きを従えて業界を闊歩してたりするので、いよいよこの国も末期症状に入ったかと、20代の僕は半ば途方に暮れていた。僕がコンサートで「癒し、癒し…おお、いやしい」という短編の載ったチラシを配って、毒に馴染んでいないお客さんたちの眉間にしわを刻んだのもこの頃である。

ところが、である。僕のように「自分で作った竹の笛を使って、作曲作品を演奏している」なんて人間を見ると、世間の人は自動的・反射的に「ああ、癒し系ですね!」と、ひとまとめにしてくるのである。イヤ!やめて!と思っても、皆さん笑顔でレッテルを貼って来るので、何とも恐ろしい世の中だ。とりわけ癒し系の人々は、時間を積まなくては人前に立てないような伝統音楽には、ほぼ取り組むことがない(そんなことよりも、早く人前に立って、現時点の自分がやりやすいことをやって、迅速に認められ愛され、拍手とお金を頂戴して自信を持ち、居場所や立ち位置を確保したいと願っている人が多い)。だから下手に「オリジナル曲のCDです」なんて言うと、あっという間にヒーリング・コーナーの棚に並べられたりする。僕は当時「抒情歌」的な音楽の復活をテーマにして、シンプルで分かりやすい旋律の音楽を探求していたから、収録曲も牧歌的な旋律の曲が多かった。それも手伝ってよけいに「そっち系」と思われてしまう訳だ。これにはまいった。

音楽なんて原初から、言うまでもなく癒しでもあったんだから、わざわざそれを付加価値のようにして貼り付けるのは、ある意味歴史的異常事態とも言える。第一、ガンガンのロックで癒される人もいるし、無音で癒される人だっている。でも癒し系を標榜するものは大概、シンセでブワ~とか、弦でポロポロンとか、笛でポポ~とした、害のない「類型的な音作り」のものばかり。誤解のないように言うと、そういうサウンドを全て否定している訳でも全くないし、むしろ個人的には好きなものもあったりする。まぁ、多くの人には同じように聞こえるのかも知れないけれど…僕は要するに「ほら、お求めのアレ系ですよ」的な商品が放つ、「そう作ろうとして作ったもの」から滲み出す匂いが苦手なのだ。これらの音楽を「healing」と呼んではいけない。「soothing」位でいい。

とまぁ、こんな僕なのに…重い腰をあげて作ったCDが、店に行ったらヒーリング・コーナーや癒し系の所に並べられているではないか!僕の音楽を聴いて、結果的に癒された人がいるのは別にいいんだけど、そこを目指して僕が録音物作ってるなんて誤解されたら、耐えられない。「ちょっとちょっと!どこに置いてくれよるんですかっ!」と、罪のない店の兄さん姉さんたちをつかまえて何度やり合ったことだろう…まぁ僕のようなアウトローのCDは取扱自体が奇跡なので、どんなコーナーでも置いてくれるだけマシなのかも知れないが。

僕は「自然」をテーマにした曲で、フワ~ッとした害のないサウンドを聴くと、なんか窓ガラスから自然公園を眺めてるような、都市文明的な生活者の匂いを感じてしまうことが多い。自然を、人間が疲れた時に「何かを与えてくれる、都合の良いもの」であるかのように描くことに、田舎や農村をアミューズメント・パークのようにしてしまう近代人のご都合主義と同じものを感じ、違和感や危機感を覚える。自然・天然て、そういうもんじゃない。全てをなぎ倒し、流し去ってしまうような、荒々しい、そして扱いにくい音で、自然天然を描こうとする音楽が、そして自然に対する畏怖と愛着の同居や、そのせめぎ合いが滲み出るような音楽が、あまりにも少なくなった気がする。

20代前半のある時、僕は山の中で圧倒的な吹雪の光景に出くわし、その荒ぶれた容赦のないパワーに、何故か心洗われた。それから4年か5年の歳月が過ぎ、その情景と自分の中のエネルギーというか、内側の情景のようなものが重なって融けたのを感じた時、ある種の調和が訪れたような気がした。自分に叩きつけて来るものと、同じエネルギーを自分の内に感じ、その邂逅に救われたのである。

「笛のアルバムの一曲目としては、意外でした」「冒頭曲、これじゃなかった方が売れたろうに」「いやぁ、笛のイメージ崩されました」「ケーナと思って聞いたら、思ってたのと違った」「一曲目がちょっと攻撃的じゃないですか」「アルバムの冒頭は、安心感のある曲にして欲しい」「一曲目のテンポが速いのは笛のアルバムらしくない」などなど、この曲を冒頭にしたことに関して、色んな意見を頂いたんだけど…それらは予想通りの反応でもあったので、ある意味「そうだろうなぁ」と納得した。いや、むしろそう反応されることを前提にして、冒頭をこの曲にしたんだ。ちなみにこれでも録音用に(多少聴きやすいように)おとなしいテンポにはしたし、本当はもっと荒々しく、ぶっ飛ばした感じで演奏したい位なんだけど。

さて、この曲の録音日のこと。やけにその日はケーナが良く鳴ってて、「いやぁ~今日が録音日だってこと、この笛もわかってるのかなぁ」なんて呑気なことを言ってたんだけど、録音中にその笛が突然「パキャッ!」と音を立てて割れて潰れた。あわてて、ひしゃげ割れた笛をセロハンテープでつなげ、形状をかろうじて復活させて最後まで演奏したのがこの録音だ。つまりは、ギリギリの延命処置による演奏。そしてこの笛は、その録音で長い役目を終えた(画像に映っている笛は、その後に作った二代目)。

こんなことがあったので、今でも笛がやけに良く鳴る日は、「おぬしまさか…このまま逝ってしまう気じゃ…」と心配になったりもする。その楽器が持つ最上の響きと崩壊は、こんなにも近い。この絶妙のバランスの上に、求めている音があった。壊れないようにするって、強くするって、それは一体何なんだろう。死の直前の輝きというものは、確かにあるのかも知れない。

それから僕は、壊れるか壊れないか、墜落するかしないか、あちらとこちらの境の上のような、接点のような、膜の上を這うということを、模索しながら暮らしている気がする。鳴りきるかもしくは完全に消えてしまうかの瀬戸際のような音の鳴りに心惹かれ続けている。焼き物もそういうのに惹かれるし、こういうことって恐らく、根底でつながっているんだな。

改めて僕の作品は、僕自身が見つけたものの軌跡でしかないんだな、と思う。もう、自分が作った曲という意識も薄れているんだけど、こういう曲がどこかで自分の記憶や体験を、今の僕につなぎとめてもいる。