タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

③最初のCDの4曲目「マナツノカゲ」の、ちょっとロックな物語

もう、お気づきだと思うけど…僕の最初のアルバムには「春夏秋冬」、それぞれの季節名をタイトルにした曲が入っていて、このところ週末ごとにそれらの動画をアップしている(今回遅れたけれど)。次に紹介するこのマナツノカゲは、その中で最も人気のなかった曲で…(笑)実は1997年に作ってから人前で演奏した記憶もあまりない曲。もしかすると意識的に避けていたのかも知れない。なにしろ僕はこの曲を聴くと、世間の潮流から大きく外れていった10~20代の頃の、小恥ずかしい出来事の数々を思い出してしまうから。
昔から僕は、年齢がずっと上の人たちと親しくなりやすかった。同学年の連中とは話も合わないし、好みも合いにくい。音楽の好みも、ずっと上の世代の人々との方が合いやすかった。昔の歌には、風情があったし、世代を選ばない普遍性があったように思う。それはまだ芸術や文芸が、本当の意味で暮らしに近いところにあった証拠じゃないかと思う。
抒情歌と呼ばれる音楽が沢山作られた時代や、フォーク(日本のフォーク)の時代には、春夏秋冬をうたった歌や、風土や郷土をうたった歌が数多くあった。愛着あるものが近くにあり、それらに対する想いを多くの人々がまだ共有していたからじゃないだろうか。
そんな抒情歌やフォークの時代もやがて過ぎ去り、「しらけ」という言葉が蔓延し始めると、抒情的な旋律も、熱を持った歌も、世の中から次第に姿を消していった。社会や政治に疑問を持つことは段々流行らなくなってきて、テレビ礼賛と市場経済の暴走に拍車がかかり、人々の関心は都市型の暮らしと、そこで回っているカネに集中した。「稼げない生き方なんて、もう流行らない」「乗っかれるところに乗っかって、得るものをバッチリ得る方が賢い」てな感じで、認知や評価・カネに代わらないようなものは、限りなく無意味であるかのように人々は言い始めた。あさましいことが小賢しいことが、利己的であることが効率主義であることが、もはやクールであるかのように置き換えられていく時代が始まった訳だ。
大学進学率が上がり、受験勉強、就職活動…それなりの人生を歩もうとするならば、選択肢は他にないと言わんばかりの画一的な価値観の蔓延で、メディアや教育の現場は、確実にどこか「おかしく」なり始めていた。田舎では過疎が進み、乱開発が繰り広げられた。都市文明と市場経済の「大はしゃぎ」と、地域社会の崩壊・自然環境の破壊という影の過程は、まさに同時進行だった。
その後、校内暴力や非行が社会現象のようになり、ツッパリがイケてる・カッコいいみたいな雰囲気が漂い始めると、テレビやラジオからは「大人は分かってくれない・教科書は何も教えてくれない」といった、学校や社会への文句、若者の嘆きと幼稚な反抗の歌が流れ出すようになっていた。もちろん、共感を呼びカネになるから、業界はこれらを商品化する訳で (当時僕はそういう歌を「泣き言ソング」と呼んでいた)、大多数の共感を呼ぶ限り、不安も不満も儲けのタネとして煽られる。不良ぶった歌や、幼稚な恋愛の歌、都会的なアヴァンチュールの歌、ノリで作ったようなアイドル・ソングが、ファッションとしてトレンドとして、ドッと世の中に溢れ出した時代だ。
音楽業界にはニューミュージックという、極めてテキトーなジャンル名が登場し(笑)、レンタルショップの服で着飾ったようなサウンドが世の中の主流になってしまった(もちろんこのジャンルに含まれる音楽を否定している訳ではない)。いよいよ時代は、個々人の利益追求とその競争を最優先させるようにして暴走を激化し、この空気感はその後バブルがはじけるまで膨張し続ける。
小学4年で学校に絶望していた僕は、その後軍国主義の名残のような雰囲気が漂う男子校に進み、極左極右の両翼の教師に囲まれながら、そんな社会への疑問をため込んでいた。何かが、狂っているんじゃないか、いやそもそも世界はずっと狂っていたのか、ではいつからこんなに狂った状態のままなんだ。
僕ははしゃぎ回る世の中にも馴染めず、下らない価値観を押し付けて来る学校にも馴染めず、テレビやラジオから流れるニューミュージックとやらにもさほど興味を持てず、誰と共有するでもない自分の世界を独り模索していた。
高校を卒業したら、まずは「宙ぶらりん」になろうと僕は決めていた。小学生の頃から雲水や修行僧に憧れていたから当然と言えば当然なんだけど…生まれてこのかた、常にどこかに所属し、帰属させられてきたから、そのおかげで帰る場所と寝る場所はあるものの、何に対しても感覚的に「身一つの状態で対峙できていない」という違和感のようなものがあって、これは当時の僕にとってかなり「気持ちの悪い」ことだった。もちろんまだ一人で生きていけるような力を持ち得ている訳でもないし、家族を不安のどん底に陥れる覚悟もある訳ではなかったけれど(とはいえ両親を随分、絶望に追い込んでしまったが)、一旦自分自身を何らかの形で「社会的思い込みの外側」に置いてみないといかんなぁと思っていた訳だ。
と言っても、やってたのは大したことではない。中高生の時に独りで山の中をほっつき歩いていたのと変わらないんだけど、まずは「先ほど地球に降り立った宇宙人のように」、人間の文明、構造物、街、そういったものを改めて「肌で」感じてみようとした(文字通り)。真夜中にパンツ一丁で外へ飛び出し(一応最悪の事態を想定してパンツだけは脱がなかった)、自転車で様々なところを訪ね回ったのも、この第一次宙ぶらりんの頃。昼間に車が行き交うアスファルトの上や、線路のレールの上で寝てみたり(何度か怖い経験をしている)、学校や施設などを訪れて(侵入し)そこらで寝てみるとか、あらゆるところを触りまくるとか、勝手にその辺で一人お茶会をするとかして、その格好のまま闇の中を放浪…みたいなことを度々繰り返しながら、高校卒業後の僕は16歳の頃に見た白昼夢(過去の投稿で紹介したビジョン)の映画化を目論んだりしていた。たぶんその時、僕を暗闇で目撃した人は、ブリーフをはいたグレイか何かだと思ったに違いない。
その後、急に思い立って大学に入ったものの、世の中はバブル時代に入りつつあり、就職も空前の売り手市場だったが、僕はそんな社会を「狂っている」と感じていたし、銀行システムは近く破綻し、法律も形骸化し、貨幣経済は遅かれ早かれ崩壊するだろう、なんて当時から言ってたくらいだから(もちろんこれは一部の友人たちから大批判を浴びた)、就職活動に精を出して内定の数を競い合ってる同学年の動向には興味すら持てず、独り異質な世界に向かっていた(つまり第二次宙ぶらりん期に突入した訳だ)。それよりも色んなアルバイトをしながら、社会の異なる層に生息している人間を色々見てみたい、等と思っていた。ちなみに最初はそんなアルバイトの一つが、音楽でもあった。
そんな訳で僕は、バブルの恩恵に与ったことがない。高校卒業時の将来は白紙だったが、大学卒業時も将来は白紙、もちろん音楽家になるなんて決めてもいなかったし、バブルの頃はとにかく世の中につながるつもりがなかったから、ひたすら日銭を稼ぐ程度のことしかせずに趣味に邁進していた。卒業後一年経った頃、同学年の連中はまだろくに働けていなかったはずなのにガッツリ給料をもらって暮らしていたにも関わらず、久しぶりに会ったら「いやぁ、入ってみたら思ってた感じと違ったから、もう会社かえよっかな~」なんて宣っているものだから、この人たちは一体どうしちゃったんだろうと思っていた。
僕はその頃、深夜の梅田東通り商店街で、笛を片手に終電逃したサラリーマンたちにキャンディ・キャンディ歌わせたり、ペルーのダンス曲でルンペンたちを踊らせたり、地元ヤクザの襲撃を交わしたり、警備員たちの追撃から逃げたりしていた。あの頃はいろんな事件があったなぁ~。後に音楽の活動を本格的に始めた頃、ホールでコンサートをしながら当時のことを思い返した時は、ちょっとめまいがした(笑)
さて、冒頭で書いたようにある時代以降、この国では春夏秋冬をうたう曲が急速に減り、サクラやらクリスマスやら、ステレオタイプな季節ネタの商品だけが、しかるべきタイミングに生産され店頭に並ぶ状態になってしまったが、僕のアルバムにある春夏秋冬タイトルの曲は(フユノダンスやハルノヒの物語で説明したように)、それぞれの季節を絵的に描こうとした訳ではない。季節って、人生における様々なタイミングの象徴でもあって、僕にとってのマナツは10代から20代にかけての、想いだけ前のめりだった時期のような気がする。
社会はギラギラした欲求を渦巻かせて熱中症のようにどんどんおかしくなっていたし、時代が落とす影はどんどん濃くなっていたし、僕自身は「こんな社会には最低限しか付き合えない」「学校には、下らない思い込みを押し付けられて、自分の時間を浪費させられた」と感じつつ、自分の時間を取り戻そうとしていた。でも実際には、身体的にはエネルギーが満ち溢れているのに、どうしようもない位に世間知らずで、知識もさほどなく、バカバカしいことで更に時間を浪費しながら、ただたださまよっていただけなのかも知れない。
この曲を聴いて「東南アジア・ロックって感じ」と言った人がいる。確かに音階的には東南アジア的な要素もある。アイリッシュ的な旋律が日本の陰音階に変化し、それが東南アジア的な音階に変化する…といったヘンテコな曲だけど、どういう訳か日本の音階をキャッチする人は少ないみたい。
それにしてもロックか…エレキ使ってたらロックとか、ドラムセットで8ビート系鳴らしてたらロックとか、それくらいの「何となく」なイメージでしかロックを捉えてない人が多いのが最近のこの国だけど、そもそもロックとポップスって大きく隔たったものだって認識している人は、今どれくらいいるんだろう。ちなみに僕は10代の頃、パンクやハードやプログレも随分聴いていた。怪しげなレコード屋に通っては、インディーズ系も漁って聴いていたし。ただ、パキスタンスーフィズム系音楽やガムラン音楽なんかと同じ感覚でロックも聞いてたから、他の人とは聴き方が違うかも知れないけれど。
個人的には、ただ「大人に対する若者の叫び」のようなものは、ロックと思って聞くことが出来ない。もしそれがロックならば、ロックは子供の音楽ということになってしまう。プロテストソングでもなく、風刺も怒りも哀しみもない、ただの8ビートの、ホレたハレたの歌は10代ターゲットのポップスと言った方がいい(でもホントはカーペンターズ位のクオリティじゃないとポップスとは呼びたくない)。
よく分からんこと言ってるな、と思われるかも知れないけれど、基本的な段階から電気の力を借りて(〇電様から電気を送って頂いて)、指でつまみを回して音色作って音量上げただけなのに、爆音ライブとか言って盛り上がってるのを見てしまうと、ロックどころか、いきがった先進国の現代っ子って自己紹介してるみたいやんか、と思ってしまう。僕は中学高校、軍隊式トレーニングと体罰で部員が次々に泣きながら逃げ出す暴力ブラスバンドにいて「校庭の向こうの体育館の窓ガラスを、最大音量で割れ!割るまで戻って来るな!」というような、意味不明の理不尽が吹き荒れる中で生音・爆音を追求してたから(笑)つまみ回してインスタントに大音量で浸ってる連中を見ると、ちょっと待てや、ロックなん?そのマインドは?と少々心萎えてしまったりする。
僕にとってのロックのイメージは、もしかしたら徒手空拳ということなのかも?ならば、生音勝負の路上で爆音出すために息圧と腹筋鍛えてたあの頃の僕は、それなりにロックだったのかも知れない(僕は路上演奏で電気引っ張ってやってる連中は、そもそもまともなミュージシャンと認める事が出来ないww 肉声で人の足止めてた、昔の路上歌うたいのトンガリとパッションを拝ませてやりたい)。そしてバブリーな世の中の旨味も吸わずに、灼熱の砂浜で鉄材かついで死にかけたり、ヤクザのシマで投げ銭稼いでたあの頃の僕は、確かに(ちょっとは)心のどこかでロックを目指していたのかも知れない。
まぁ僕の「夏の想い出」回顧…みたいな曲なのかも知れないな。やっぱり恥ずかしくて人前であんまり演奏しなかったのかも。