タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

⑤二枚目のアルバムの冒頭曲、「ホシノウエデ」

「はぁ、どこの星から来たの?」「ほんとに宇宙人なんだから」…大人になるにつれ、度々そんな風に言われるようになった僕は、確かに小学生の頃、学校や世の中に居心地の悪さを感じるあまり、よく独りで校庭のジャングルジムの上から辺りをぼんやり眺めては「なんでこんなトコに来ちゃったのかな~」と考え込んだりしていた。民族博物館の資料やラジオ等を通して、世界各地の伝承音楽を片っ端から聴いていた中高生の頃には「ここを離れる前に、出来るだけ触れて記憶しておかねば。いつかなくなってしまうから」という、奇妙な焦燥感を抱いていたことも思い出す。
誕生日を迎えた後の最初のアップは、この「ホシノウエデ」。一枚目二枚目のアルバムの収録曲はほぼ90年代の初期作品だけど、この曲だけが2005年の作品。二枚目のアルバムを録音する直前に作った曲で、10分ほどの間に思いつくままにまとめた短い旋律と、繰り返しだけのシンプルな構成、単純な和声進行と5拍子…一度も人前で演奏しないまま収録し、その後もほとんど人前で演奏しなかった、小さな曲。
この曲の解説には、こんな文章を書いていた。“手をつないで輪になって踊る…この曲はそんな輪舞の曲として作った。僕たちはどんなに親しい間柄でも、互いの事をほんの一部しか知らない。ふと目にした何でもない風景、自分だけが知っている出来事や経験、記憶のそこかしこに結晶化した、言葉にできない想いの数々。この世を去る時、自分だけが抱きかかえて持ってゆくような、そんな「時間の集積」が、僕たち一人一人を形作っている。僕たち人間は、人の形を借りた「時のかたまり」だ。人と人が手をつないで踊る時、そんな時のかたまりと時のかたまりが「人の形を通して、つながっている」ようにも見える。別々にあるかのように思える一人一人の物語は、どこかでつながっている。そのことを僕たちは知っているから、手をつないで踊るのかも知れない。「時」と「時」が手をつなぐ…この星の上で。”
昔から僕は、この「時」という言葉に強いこだわりを持っていた。トキという音そのものに、どこか神秘的なものを感じていた。世の中の多くの人は何気なく使っているかも知れないけれど、「時」は時間や時刻といった言葉とは少々イメージが異なっている。「時間」は元々時と時の間(幅)を表す言葉だし、「時刻」はその時間を一定の目盛りで刻んだ言葉。一方「時」は、長さも重さも変幻自在で伸び縮みもする。経験や想いなど様々なものごとを含みやすい言葉で、記憶や場面のような意味合いを持つこともある。
僕たちはこの「時」や、その間や幅である「時間」、それらを「味わうこと」でこの現象世界を生きているとも言える。たとえば一枚の絵にも、画家がキャンバスに向かっていた時間が封じ込められているし、その絵を描くまでの経験や記憶、その時々の想いも絵のそこかしこには封じ込められている。それが写真であっても、彫刻であっても、料理であっても、誰かが鳴らした楽器の一音であっても…形になって表れたものや、形にして表されたものは、それ自身の内に幾つもの時を封じ込めている。
野菜一つでも、収穫されるまでの時間をその内に秘めているし、太陽や土、水や風、他の植物や虫や動物たち、育てたヒトの手やそのヒトの想いなど…様々な関り合いの記憶もそこには封印されている。そんなことに想い馳せるまでもなく、ただ食えばいいじゃないかという人もいるだろうけれど、想い馳せる人々がどれくらい深くその味を味わうかは想像もつかないと思う。
絵を描いたことのある人なら自然に目の前の絵の中に、畑をやったことのある人なら自然に目の前の野菜の内に、「時や時間の所在」を感じることだろう。しかし楽器を作ったことのない人や、陶器を作ったことのない人は、それらの中にどれくらいの時や時間が凝縮されているか想像もつきにくいかも知れない。ましてやそれがモノではなく、演奏だとかアイディアのような「形がないもの」だったら、その背後にどれくらいの時や時間が連なっているのか、イメージすらできない人も多いだろう。
時や時間の所在に「敏感」な人は、必ず何らかの経験や知識を人並み以上に持っている。それはつまり、これまでの人生で、「自分の中にも」幾つもの時を生み出してきた、ということでもある。それは一言で言うと「立ち止まった回数」のようなものだ。
味わうって、「読みとる」ということにも近い。これはただパッと反応するようなことじゃなくて、立ち止まってジッと見るようなこと。今の社会はピンからキリまでの情報に溢れていて、それで思考が振り回されてしまう人も多いから、多くの人が情報や知識を「表面的には求めながらも、どこかで恐れ、避けてもいる」。また「パッと見てパッと反応するのが、感じるということ」と勘違いしたり、「考えたらダメなんだ」と思い込んでしまって、普段から思考すること自体を避けてしまっている人も少なくない。好きだとか嫌いだとか、分かるとか分からないとか…パッと反応することばかりに埋没して、立ち止まることには反射的に不安を覚えてしまう人も多いのかも知れない。
残念なことだけれど、効率主義と損得勘定が蔓延する今の世の中では、立ち止まることも、時間をかけて何かを眺めることも、一つの問いを持ち続けることも、奨励されてはいない。子供たちは次から次へとけしかけられて、やらされて、どこか追い立てられてもいる。「得たいものを得るための時間・周囲の理解や同意や評価や共感が得られるような時間」以外の時間は、まるで無駄で無意味な時間であるかのように思い込まされたら…人間はどこかに向かって忙しく通り過ぎるだけのような人生しか歩めなくなる。
「それどころじゃないからね」「食べていかなあかんから」「仕方ない」「忙しい」「みんな、そうだから」というような、長年月をかけて教え込まれた呪文を周囲の人と唱和しながら、道端や足元に咲いている花にも「気付かないように・見ないように・立ち止まらないように」して通り過ぎるようになると、誰かに出会っても「実は出会えていない」ような状態、そこにいても「実はそこにいることも出来ていない」ような状態になってしまう。これって、話しかけられていても気が付かない、どこに自分がいるかもホントは知覚・認識できていない、催眠状態のようなものだ。
それが人であっても、人の言葉や行動であっても、人が作ったものや表したもの、山や川や海や木々であっても、食べ物であっても…目の前のものを「味わう」ためには、その前で「立ち止まってみる」ことが必要で、実は立ち止まることというのは、「自分の中に時を生み出す」ということでもある。これはとても面白いことなんだけど…世界を観察することで、世界が生まれるというか、自分の中に世界が生まれるから、自分が見えてくるというか…「目の前のものの中に時や時間の所在を感じ、その時や時間のページを開こうとすることで(つまり、味わおうとしたり、読み取ろうとしたりすることで)、人間は自分の中にも、新しい時を生み出す」ということ。これはどういうことかと言うと、「味わっているものが多い人ほど、その人自身もまた味わい深い人になる」ということなんだけど、このことを知らない人は意外に多い気がする。
僕たちは本当の意味で、お互いの前で「立ち止まって」、その時にしかない「時」を生み出すことが出来ているんだろうか。誰かが何気なく口にした言葉や、何気なくした行動にも、その向こう側には幾つもの時が封印されている。目にした一瞬、耳にした一瞬に、その向こう側に長~い時間や幾つもの時の所在を「感じる」こと、それが「時の封印を解く」ということの第一歩と言える。
これは僕のイメージだけど、目の前の人の背後に、大きな部屋のような空間のような、一種の拡がりがあって(背後という位置表現は便宜上のものだけど)…そこには分厚い書物や太い巻き物が山積みになっている。その所在を感じた瞬間に、それらは「手の届かないところではなくなる」。どういうことかと言うと、感じるということは「心がそちらに動く・拡がる」ということでもあって、それは「距離を消す」というはたらきを持っているからだ。
本当の意味でその人の前に立てるなら・本当の意味でその人に出会えているなら、普段は手が届かないような向こう側の奥底の方に山積みにされた書物のページが、すぐ目の前で開き、自分の中の書物に書かれたものと相手の書物に書かれたものが、「かってに話し始める」ようなことが起こる。そこでお互いにとって、まさに新しい世界が開闢(かいびゃく)することもある。
これを僕は「ヒトとヒトは、互いの中にある時を運び、出会わせている」というような言い方で表現している。人はヒトの形をしているけれど…人は「自分が」思考し行動していると思い込んでいるけれど…本当は人はヒト以上のもので、そんな「ヒト以上のもの」同士が、ヒトの形を通して、大きな想いのようなものを、この星の上で形にしていっている。まぁ、そんなことを僕はずっと想像してきた。
なので、自分で曲を作っていながらも、それは作っているのかどうかさだかではないと心のどこかでは思っているし、誰かと出会って話していても、出会って話しているだけとは限らない、と心のどこかで思っている。こういう話をしても、ピンと来ない人には意味不明かも知れないけれど。
そう言えば僕は、人間が何か別の生命体に見えていることが度々ある。なので、目の前の人を「しげしげと眺めてしまう」ことがある。単なるヤバいヤツになりかねないんだけど…たぶん僕の中に、まだ人間になり切れていない部分があるのかも知れない。僕は人間にもミュージシャンにも、成り損なった生命体なのかも知れない。
昔、人形でおままごとをやった経験のある人は分かると思うけれど、子供たちは手に持った人形の「キャラに入り込んで」やり取りをしているけれど、本当のやり取りは、背後にいる子供たち同士がしている。おままごとの間は基本的に子供たちは互いの人形に意識を向けているが、時折相手から思わぬセリフが飛び出したり、思わぬストーリー展開になったりすると、思わず人形を手にした友達の方を見てしまう。そんな経験をお持ちの方もおられるのではないだろうか。
人形があれば、おままごとに参加できる。そこでは、子供たちの暮らしや環境、経験や想いが映し出されている(おままごとのセットは、まさにウツシヨだ)。それと同時に、普段は具現化できていないことや将来の夢、それから普通なら経験し難いことまで…おままごとの中でなら「やっていい」訳だから、そんな経験し難いことまでも友達と一緒に経験できる「おままごとの空間や時間」は、子供たちの成長にとっておそらくかけがえのないものなんだろう。
僕は今の現実の社会を、普段の生活を、そんな風に見ているようなところがあるのだと思う。「時のかたまり」と言ってもいいし、見えているそのヒト以上の「何か」と言ってもいいんだけど、それは固定されて枠で囲まれたような存在じゃなくて、「生き交える無数のものたちが、ある形を成している、瞬間的な状態」っていうイメージかな。それがヒトの身体を「手に」して、時空を超えた?おままごとをしている。
数年前から、自分が住んでいる京北というところで、世界各地(東欧やコーカサスなどが多い)の「手をつないで輪になって踊るダンス」を体験できる催しや講習会を続けているが、僕自身は昔から何でも独りでやりたがる方で、群れることは基本的に苦手で、集団というものをいつも避けていた方だった(笑)なのに、どういう訳か、学生の頃から「なぜ人間が集まると輪を形成するのか・なぜその輪の形態が様々なのか・なぜ手をつなぐのか・肌と肌が触れた時に本当は何が起こっているのか」というようなことに興味があって、卒論でもそういうテーマを挙げていたし、今はこんな企画を定期的に立ててもいる。全く不思議だ。
人が集まって、輪になって踊っている時、おそらく踊っている本人たちが楽しいとか、そういうことだけじゃなくて…何か僕たち自身が認識出来ていない「それ以上のこと」が起こっている気がする。僕たちがつなげているように見えるものは、実は僕たちがつなげている訳じゃないのかも知れない。僕たちがつながっているように見えていても、本当はそれ以上のものがつながっているのかも知れない。僕たちが出会っていても、本当は僕たち以上のものが出会っているのかも知れない。そしてそれは、本当は出会いではなくて…「再会」なのかも知れない。
同じ時代に生まれ、同じ地域で暮らし、同じ学校や同じ家で暮らす者たちは、同じ時間の中にいるように見えるのに、どうして別々の肉体の中で、別々の経験と記憶を重ね、別々の想いを抱き別々の「時」を過ごしながら、「世界や時を分散させている」んだろう…僕はそれがずっと不思議だった。
このホシの上で、同じ時に居合わせたヒトとヒトが、お互いの前で本当に立ち止まって、そこで一緒に互いの中の「時」を開き合い、そこに新たな「時」を生み出せるなら、ココにやってきた理由は今よりもずっと、見えてくるような気がする。