もう7年前になるのか…短い時間でそんなに突っ込んだ話をした訳じゃないけど、たのしい対談だった。今はもう前世の記憶のように感じてもいる。
これらの地域の文化や歴史については以前から関心を寄せていた分、人よりは知ろうとしてきた気もするけれど、それでも未だ知らないことが多すぎる。
普通に生きていたら「見せられていることしか、見えてはいない」…つまり「知らされていることしか、知り得てはいない」。知り得ていることとは、単に「知らせてよいと何処かで判断され•見せられていること」に過ぎないとも言える。
だから僕たちは「何を見せられているか•なぜそれを、見せられているか」を考えなければならないし、「なぜそのように見せられているのか」を読み取ろうとしなくてはならない。でないと僕たちは簡単に、様々な思惑やコントロールに思考ごと絡め取られてしまう。
実際今見えていることは、「見せられているように」今になって始まったことではない。軍事行為はずっとあちこちで「続いていた」。しかし世界のメディアは基本的にダンマリを決め込んでいて、それらの情報はほぼ積極的に知らされることはなく、故に話題にもならず認知もされなければ大した支援も行われず、国旗を掲げて応援されることも、軍事行為の首謀者やその裏で儲けている者たちを非難することも、それらの国に経済制裁を加えることも、プラカードを掲げてその指導者を悪魔扱いすることも大してないまま、半ば放置されてきた。だから、見えはじめた時にはあらゆる情報に対して注意しなくてはならないし、こういうことに関して大勢が同じ行動をし始めた時には、とりまく状況に対して注意しなくてはならない。
見せている情報やその見せ方に、「予想通り」集団的に反応してしまう市井の人々を尻目に、裏で舌を出している者たちがいつの時代にも必ずいる。歴史を少しでも学べば、このやるせない事実に必ず直面するのだから。
とりわけ「分かったような気になってしまう」ことは、容易に僕たちを思考停止に導く。だから「分かったような気にならないでいられる人」が世の中に増えることを切に願う。
世界の分断に心痛めるなら、少なくともこの日本社会において、「分かる」という言葉がなぜ「分ける・分かつ」という言葉や文字とつながっているのか、そこに敏感になった方がいいだろう。
メディアは、分かりやすいストーリーを提供しやすい。社会は、分かりやすいストーリーにのりやすく、人々は分かりやすいストーリーを求め共有しようとする。分かりやすい感情は共有しやすく、正当化もしやすい。実際、分かったような気になった方が人間は行動がとりやすくなるし、それによって共感を得たり仲間も得たりして、人間は「得心しやすくもなる」。そうして一度周囲と共有した「分かった」は、簡単には手放せなくなってしまう。
正しく行動したい、と願う人々は多い。しかし「疑いようのない正しさ」を掲げるが故に疑うことができなくなり、集団で行動してしまうような危うさが人間にはある。正しいを掲げることは、認識世界を正しい側と間違った側に単純分断してしまう。純粋で、ある意味無垢な反応が、時としてそこに「仕込まれた分断」を助長させ、加速させてしまうことが、残念ながら世の中には往々にしてある。平和を求める人々の声や行動は、勧善懲悪の幻想に陥りやすく、それらは都合の良い対立構造に容易に絡め取られやすい。人々を、絵図通りに「絡め取っていく」技術には、実に長い歴史がある。年月と悲劇を積み重ね練り上げられて来た、冷酷で狡猾でパワフルな技術だ。
見せられているストーリーの裏で、見えにくいままにされていることもある。正しいと思えることをする事で、見えにくくなってしまうことだってある。純粋で無垢な平和を求める気持ちが、思わぬ方向に絡め取られ利用されてしまうこともある。単純ではない、極めて複雑…僕たちに必要なのは、その複雑を覗き込もうとする眼差しを養うことかも知れない。
こんな世界を、変えたい。多くの人がそう願っているはずだ。でも変化は始まってもいて、今多くの人が変化そのものになりつつあり、一人一人が自分自身や世界への眼差しを変えることでそれは近づいて来るとも思っている。
戦争は多くの人々を絡めとる巨大で暴力的なストーリーだ。それは時として、戦争と名乗ってはいない。時には平和希求や安心安全の顔もしながら、手を差し伸べ、人々を招く。ご丁寧なことに、バナーやステッカーやキャッチフレーズまで配ってくる。知らず知らずのうちにストーリーのコマにされ、避けるつもりがその思惑に加担させられてしまう。想像を超えた巨大な化け物に、命をかけた知恵比べを持ちかけられているようなものだ。
特定の国名や民族名などを挙げたくないし、お揃いのコピーやプラカードも掲げたいとは思えない…声を大にできるような正しさが、思わぬ方向に力を与え、制御できない力を野放しにしてしまうことを、僕はつい憂慮してしまう。
戦禍に巻き込まれている地域、その戦禍が及びつつある様々な地域に住む、あらゆる人々のために、一刻も早い停戦を願うばかりだし、切実に心の底から平和を求めている現地の人々のために祈りたい。せめて自分も変化の一部でありたいし、複雑を覗き込み、知恵比べを挑み続ける自分でありたいと思う。