タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

母、逝去

年末29日に、長く闘病生活を続けていた母が息を引き取った。年末年始ということもあり、通夜が2日・式が3日になったものだから、僕は29日からほぼ毎日のように京北から豊中に通っていた。
何の「はからい」があったのか…息を引き取る直前に奇跡的に血縁の顔ぶれが揃い、晴れやかな陽射しの中で家族に囲まれて母は逝った。僕はその日から数日間、料理係となって大半の時間をキッチンで過ごし、手巻き寿司パーティーやおでんから始まり、通夜の夜は餃子パーティー、式の夜はお好み焼きパーティーと連日の宴と相成ったが…賑やかに美味しいものを食べて、ある意味良い供養になったのかも知れない。恐らく母が生きていてもこうしていたし、こうなっていただろう。
最期まで自宅で…という想いが強かった母の式は、自宅に神主を呼んでの神葬式だった。生死に関わる数日間の「時の流れ」はどこか特殊でもあり、後で思い返しても不思議な縁を感じさせられるようなことが次々に起こっていた。それは29日を過ぎてもしばらく続き、さすがに僕たち家族も「人智を超えた天命というものがやはりあるようだ」と改めて実感させられた。この数年、身の周りのことから食事療法・病院通いまで献身的に世話をしていた妹だけど、2人で話していて(僕も出来る限りではあったけれど)アレコレの世話もそれらはどこか楽しくもあり、このままずっと続いてもかまわないと心のどこかでは思っていたような気がするね、としみじみ振り返った。
幼い頃からものごとの捉え方も考え方も自分とは全く異なる僕に対して、母はよく「宇宙人みたいな人を生んでしまった!」「脳が普通じゃない」というようなことをよく口にしていたし(笑)ことあるごとに、多少文句も込めて「あなたは親の死に目にあえない因果な仕事を選んだ」と言われ続けて来たんだけれど…どういう訳か僕は、父の死に目にも母の死に目にもあっている。夜に爪を切ることも多かったが(笑)結局二人とも、傍で最期を看取ることになった。運命というのは、わからない…僕は笛吹きだから、もしかすると二人とも最期の息というものを間近で僕に見せてくれたのかも知れない。
散々、困惑させ、不安にさせ、絶望させた子供だったかも知れないが、母も晩年はそんな愚息の在り様を案外どこかで楽しんでいたのかも知れない。

母の信仰から式は神葬式だったが、昔ながらの自宅での祭壇と榊や塩や米、白装束での通夜までの日々は何か端々に清々しいものを感じた。

写真:母は案外餃子が好きで、亡くなる前にも食べたがった。僕は包み方を子供の頃に母から習った。考えてみたら父も餃子が好きで、晩年は街で会うと必ず餃子を食べに行きたがった(どういう訳か妹と一緒の時は餃子ではなかったようだ)。恐らくは時代的にも、若い頃は仕事が終わると街に出て仲間と餃子・ビールを楽しんでいたに違いない。働き始めた頃は神戸に住んでいたし、単身赴任時代は新橋、その後は横浜時代もあったので、その暮らしは容易に想像がつく。そして母は主婦業に専念していた頃、おそらくは20代の父兄弟が集まるごとに、こうして家で餃子を包んでいたのだろう。 通夜の日は皆がそれぞれの包み方で、餃子供養と相成った。

写真:闘病が始まってからというもの、かなりこだわって根気強く母の食事療法を続けていた妹が、「そうか、もうそんなに気をつけなくても良くなったんだ、そう考えたらラーメンとか食べたくなるなぁ」と漏らしていたので、 豚軟骨を仕込んで出汁を取り、沖縄風の豚の甘辛煮と四川・ベトナムのトッピングを揃えたラーメンを作り、みんなで食べた。 母と妹は奄美大島加計呂麻島に何度も行っていて、島の人々ともつながりが続いているし、妹は大阪の大正区に通い奄美三線の弾き歌いを長く習っていた。母も南の方の味付けや、スパイシーなものが好きだったから、これもまた良き供養になったのかも知れない。

写真:もう、ほとんど何も食べたがらなくなってから、突如麻婆豆腐が食べたいと漏らしたので、少し辛味を抑えてはあるけど、忖度のない(笑)四川麻婆豆腐をカンタンにではあるけど作った。 甜面醤と辛豆板醤は洋子さんの手作り仕込みのもので。 量は食べられないけれど、風味だけ味わえて満足といった風だった。 そういえば父も病室で、麻婆豆腐が食べたいと漏らしたことがあった。その時は病院だったので叶わなかったのだけど。

写真:神式の祭壇は、どこかかわいくて、そして清々しい感じだった。今は神式の葬式は全体の5%くらいらしい。勿体ないな、とついつい思ってしまう。 祭壇は張られた布も緑で、それは榊の色と揃っていた。偶然にも、母の遺影を入れた額も榊色で、そして祭壇に備えたお菓子も榊色。意図していなかったのに、空間が榊色で染まったようだった。