タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

ここ数ヶ月の振り返り①

トランシルヴァニアから来日した音楽家&ダンサーと
春を迎える前に…数ヶ月を振り返る。昨年秋からは特に、音楽活動やら日々の報告などの投稿をほとんどしてない。元々FBにもWebページにも、あまり日々のことを細々アップする方ではないんだけど、歳を重ねるごとに人生が濃くなっていってて…次から次へと得難い出来事が続くし、新しい出会いも続くし、新しいこともどんどん始めちゃうものだから、投稿が追いつかないというか、報告や記録等の優先順位が自分の中で限りなく低くなっていってしまう。
 
本音を言うと、そもそも自分の過ごしている日々を誰かに知らせたい欲求も、記録しておく必要性も、自分の中にあまりないからなんだけど…それにしては、親しい人の日々や経験を眺めるのは、どちらかと言うと好きな方だと思う(笑)

ボンチダ村の祭を一緒に再現した東京グループと…歌も踊りも超ステキだった
この一年は、あまりにもやりたいこと&やることが多くなり過ぎて、庭も畑もほとんど放ったらかしになってしまった。こんなことは京北に移り住んで初めてのことかも知れない。そろそろ何とかしよう…大変だけど、暮らしの維持や環境の整備の楽しさっていうのもあるから。

これが日常になったらいいのに(笑)

 

という訳で、本格的な春の到来までに一つの区切りとして、順不同でここしばらくの振り返りを始めようかなと思う。春以降はまた色んなことがスタートするから、今やらないと多分ずっとやらない(笑)
まずはこの3月頭の出来事。トランシルヴァニアの音楽家とダンサーたちが来日し、関東・関西でコンサートと生演奏によるダンス講習会を連日開催した。国内ダンサーたちとの縁と、フォークロール・レポートの増永氏のご厚意で、期間中の講習会などもほぼ張り付きで同行させていただき、4つのコンサートではステージもご一緒させてもらった。ほぼ毎日音楽とダンスに浸かっていたので、ここが日本だという感覚は限りなく消えていた(笑)

サイコーに楽しメンバーと京都での公演…トランシルヴァニアのボンチダ村のダンスやカルシャリ、そしてアルメニアの漁師の踊りや、笛一本とシャーンノス・ダンスのガチンコ一本勝負まで
振り返れば30年以上前に(日本ではアニメ「おもいでぽろぽろ」や映画「イングリッシュ・ペイシェント」等で広く知られるようになった)セバスチャン・マルタ&ムジカ―シュが初来日した際には、まさか自分がこの地域の笛ではなく(実は笛は既に演奏してたんだけど)この地域の特殊なヴィオラ「ブラーチャ」に挑戦することになるとは、微塵にも思っていなかった。昨年惜しまれながらもこの世を去ったムジカ―シュのPéter Ériも笛とブラーチャを演奏していたが…この、地味な存在のくせにやたら難易度が高い弦楽器をまさか自分でやろうと思い立つなんて。アルメニアのブルールといい、このブラーチャといい、年齢を重ねるごとに難易度の高い楽器・音楽に自分はチャレンジしてる気がする。昨年春にルーマニア随一のバイオリン名手アティッラ氏が来日し我が家でご一緒した際には、「よくこの楽器を始める気になったね…難しいよ」と言われたが、始める前に聞くべきだったかも知れない(笑)

これが日常になりますよう(笑)
ダンスも難易度が高い。地域性豊かなダンスは、知らないと&練習しないと、踊れない。少なくとも、時間を積み重ねないと気持ちよく踊れない。そこが意外に重要なとこでもあって、ただ音楽に反応して各自が体を自由に動かすダンスとは異なる、ある種の「深みのある自由」が、その動きの中に現出してくる。その人の過ごしてきた時間が、その人となりが、そこに凝縮されて表れてくる。表そうとして表されるんじゃなくて、たぶん表れて来るんだろうなぁ。だからこういったダンスの際には、動きの中で、時間と時間が出会っているような特別なエネルギーが放たれている。音楽は、常にそのうねりと共に微細な変容をしながら、エネルギーとエネルギーをつなぐ波のようなものを描き出してゆく(それが古代のドルイドたちが言ったニュイーウルのようなものじゃないかな、とも思う)。音源を流してノリノリに自由に踊るダンスもそれはそれだけど、そういう場や音にワクワクしたり自由を感じたりしたのは、僕の場合10代くらいまでだったかなと思う。

いや、もう日常にしよう(笑)
日頃から「ダンスの音楽は、ダンスと一緒に演奏されてこそ」だと思ってるんだけど…ルーマニアトランシルヴァニア地方の音楽にしろ、僕がこのところ最も熱心にとりくんでいるアルメニアの音楽にしろ、かつてよく演奏していたアイルランド音楽や南米音楽にしろ…やはりダンスと共に演奏する際は「生命の中に含まれている」ような不思議な感覚がある。音楽や踊りを、そこだけ取り出して、自己表現とか、自己~みたいな、そういう近代的で些末なことはホントに…その「生命体験」の中では消えてしまうものじゃないかなぁと思う。その体験がない人・日々体験していない人にとっては、重要に「思える」ものかも知れないけれど。

皆ラブリーな演奏家

張り付きで何時間も踊りと演奏に集中してて、放心気味の三人

終演後、フォークロール・レポートの増永氏と…何から何までお世話になりました