タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

⑥一枚目のアルバムの7曲め…「アカイツキ」のちょっとバカな物語


アカイツキ/きしもとタロー(ミヤコオチ) The Red Moon/Kishimoto Taro (Miyako-Ochi:New style Quena) - composed in 1997

 

小学校の時、「小説を書く」という授業があった。最終的には自分で表紙を付けて原稿用紙を綴じた後、冊子で提出する事になっていたが、あくまで授業なんだし、時間内で提出できるボリュームの物語を書けばいいものを、僕は書き終えるのに数ヶ月はかかるであろう壮大な一大巨編にとりかかってしまった。当然のことながら、締め切り日に提出できたのは大巨編の冒頭部分のみ。本編が始まる前のプロローグだけで既に提出分のページ数を超えていた。

「紅い月が輝く夜に、それまで存在すら知られていなかった世界各地の古代都市の遺跡や遺物が、海底から、そして連なる山脈の尾根や地底から、月の引力に導かれるようにして次々に姿をあらわす」…その「次々と姿をあらわす古代都市の遺跡や遺物の数々」のシーンだけで、既にテンションがマックスに上昇した僕の文章は、友人たちにも先生にも意味不明のシロモノだったらしく、発表でさわりを読み上げた際には教室が静まり返り、読み終わると先生が困惑の表情を浮かべていた。「えっと、あちこちに話が飛び過ぎてて、意味がよく分からない…これは何の話??短くできなかったの?」

え、あちこち?短く?地球規模に話を展開したら、いきなりの拒絶反応か。ダメだ!この連中には壮大な考古学ロマンが通じない。地球文明が・これまでの歴史がひっくり返るような物語なのに、今まさに月の正体が明らかになり、様々な超古代文明が実はつながっていたという、人類史を塗り替える事実が明らかになる物語なのに(注:小学生の妄想)。「それからどうなるの!?」という声や、「もっと読みたい!」という声が上がるかと思いきや、友人たちは全く無反応。授業であることも無視し、思いつくままに好きなものを書こうとした結果とは言え、虚しさが胸をよぎった。思い返すに僕は、この頃からあまり変わっていないのかも。

さて97年作曲のこのアカイツキは、そんな子供の頃の妄想のために作った、という訳ではない。この曲では南米の縦笛Quena(ケーナ)を基に僕自身が開発した竹笛ミヤコオチを使用している。子供の頃は後先考えずに何かを始めてしまうものだけど、僕はよく発作的に着想を得て、昼夜問わず色んなタイプの笛を作っては、試行錯誤を重ねてきた。家族にとっては大迷惑である。

ミヤコオチはそんな試行錯誤が生み出した笛の一つで、吹き口は昔のケーナのような四角い切込み型、表に6つ・裏に1つの指孔を持ち、左手の人差し指は指孔ではなく笛を保持し、指から歌口に向かって一定の圧力を加えた状態で演奏する。南米音楽と日本音楽とアイルランド音楽等の技術をミックスしたような奏法で演奏するので、少なくともそれらの素養がないとこんな風には吹かないだろうし、通常ケーナと呼ばれている笛を演奏する人で、こんな曲を演奏する人も演奏したがる人もいないだろう。

僕は都節という日本の旋法で幾つも曲を作ってきたが、その旋法の中の二つの音に、それぞれから落っこちた音を二つ付け加えるとハーモニック・マイナーの音階になる。この都節とハーモニック・マイナーに、何か文化的な親和性というか歴史的つながりのようなものを感じ、それら両方の旋法をベースにして作ったのがこのミヤコオチだ。何のこっちゃ、と思われるかも知れない…僕の中にある関心事や知識のおよそ8割位は、他の人にとってほぼ意味不明であろうことは、さすがに僕自身(これまでの人生で)自覚できている。

子供の頃から僕は月の光に興味津々だったけれど、それはある意味「怖いもの見たさ」のような感覚だったと思う。中でも紅い月は「極めてヤバいパワー」を放っているから、それで上記のような物語を小学生の時に思いついたのだと思う。青い月の夜は、どこか静かで澄んだような気持ちにもなるけれど、紅い月が浮かぶ夜は、自分の中の「うねり」のようなものが形を成していくような錯覚が起こる。月からの「視線」を感じてこちらも見返すと、自分の奥底にある得体の知れないものが、自分の及び知らぬところで呼応し始めるような、奇妙な感覚を覚えることがある。どこか怖くもあるけれど、そうしてついつい眺めてしまうのは、もしかしたら自分の内にある何かがそこに映し出されているから…なのかも知れない。

そう言えば僕は笛を作り始めた頃から、笛という楽器にある種の「恐いもの見たさ」を満たしてくれる力のようなものを求めていた。大きな音であるとか、キツい音というようなことではなく、もっと特殊な波長というか振動というか…人間以外のものが至近距離から声をかけてくるような、自分の中の「人間じゃないもの」を呼び起こす呪文のような音。静かで容赦のない「揺さぶり」のようなもの。たぶん僕は笛と言う楽器に、そんな「揺れ・揺さぶりのようなもの」をずっと求めている。

笛を吹いている人は世の中に沢山いるし、笛の音が好きな人も沢山いるだろうけれど…この楽器に求めているものや、この楽器の音色に対して持っているイメージ・こだわっているポイント等は、当然人によって異なってはいる。しかし僕の場合は、特に異質な方かも知れない。もちろん人から注文を受けて笛を作る時や、人に笛を教える時なんかは、自分自身の好みやこだわりは脇に置いてはいるけれど(そうしないと仕事にならない)。

僕は子供の頃から、耳に入る様々な笛の音色や演奏を具現化すべく、次々に笛を試作し演奏してきたから…たいていの笛の音色や演奏スタイルは「過去に一度は通過している」。つまり多くの人が好むような音色を出したり、そういう音色に合致した技術で演奏することは、正直それほど難しくはない。でも「自分が」そういう音色や演奏に魅力を感じているかと言うと、僕は上記のような「揺さぶり」を持っていないものは物足りなく感じたり、幼いものや無害なもののように感じて、それほど関心が持てなかったり、場合によっては無反応にもなってしまったりするから…。

じゃあ、害があるようなものが好きなの?と言われると、それはもしかしたらそうなのかも知れない。やさしいけれどグサッとか、静かだけど激しいとか、柔らかいのにコワいみたいな…もともと人間が「都合よく」自然に求めているようなファンタジー的イメージ世界はあまり好きではないし、むしろそういう人間的な思惑の世界観に、横槍を入れてくるような、不意打ちをくらわしてくるような、少々ヤバい系のエネルギーというか…そういう響きや歌いまわしを持ち得ていなかったら「笛である意味」って限りなく薄くなってしまうんじゃないか、とまで思っている。そして年齢を重ねるごとに、そのような偏愛的傾向?は強まって来てる気がする。ちょっとマズいな。

そうはいってもこの曲も随分昔の曲だから、改めて聴くと自分でも幼いなぁとか若いなぁとか、拙いなぁと感じてしまったりもする。自分が求めているものが変化していくことって、本当に興味深い。

ところでこの曲、「あるところ」でBGMとして使用されていたことがある。「この曲をぜひ、使わせてください」と言われて、「ドウゾ~♫」と言ったっきりなんだけど…曲がかかってる現場には、結局一度も行けなかった。ナマで見ておきたかったな~。

 

プロレスの選手が、リングに上がる時のBGMだった(笑)