タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

ここ数ヶ月の振り返り②

秋からの活動?報告の第二弾は、なんといってもアルメニアの笛修業の日々。アルメニアのことを知っている日本人はとても少ない。アルメニア音楽についても、せいぜいドゥドゥクの存在やその音色を知ってるくらいだろう。なので「アルメニアの笛BLULと音楽に取り組んでいる」と話すと、たいていは怪訝な顔をされる。

右手に持っているのがShvi、左手に持っているのが目下修業中の斜め型笛Blul
本業?という言葉も僕の場合随分前から使いにくくなってるけど(笑)、南米のケーナアイルランドの笛ももちろん基本的にはこれまで通り演奏できるものの、ここ数年は特に必要とされる舞台でしか触っていない。ともあれもう15年以上、それまで本業?としていた楽器を脇に置いて、練習中の楽器ばかりを手に人前に立ってきたので、自分名義のバンドで作曲作品を中心に手広く演奏活動をしていた頃の僕の舞台やCDを知っている人も、随分減って来たように思う。これは僕にとってとても良いことだ。自分を知らない間に絡めとっているものは、案外自分の足元にあるものだから。

京都で開かれた第一回アルメニアン・ダンス研究会では6つのダンスがとりあげられた
アルメニアの音楽の魅力は、とても一言で語れない。僕がアルメニアの笛に感じている可能性も、人にはなかなか説明しにくい。もちろん、その必要性もないかも知れない。機会があれば(未だ修業中の身なれど)、演奏会や踊りの会に是非来て欲しい。
昨年は秋以降で言うと京都修学院や大阪天六と京都今出川などでそれぞれコンサートを開き、今年のはじめの1月6日(奇しくもアルメニアのクリスマスの日)には、京都で第一回目のアルメニアン・ダンス研究会をスタートさせた。5月の島之内と10月の天六でのコンサートは、生前の母が見た僕の最後のコンサートとなった。このところ僕が何に憑りつかれているのかを一応見届けてもらったことになるが、コイツは一体どこへ向かってるんだろう??と思っただろうなぁ^^;

大阪は5月の島之内教会に続き10月には天六の小スペースでアルメニア音楽のコンサートを
ところで、あまり知らない人からすると僕は笛と呼ぶものを片っ端から手にして演奏したり集めたりしているような印象を持たれることがある。確かに子供の頃からかなり幅広い音楽を聴いてきたし、特定のジャンルで演奏活動をやってる人から見れば、比較的色んな笛を演奏しているように見えるかも知れない。でも僕は笛を集めることには元々全く興味がないし、普段から好んで聴いている音楽でも「よっぽどのこと」がない限り自分でやろうとは思わない。だから、僕が手にして演奏している笛や楽器は「よっぽどのこと」を感じたものばかりということになる。
「よっぽどのこと」を感じたら、人間は「それが何になるのか?」なんて考えないものだと思う。普段の仕事だとか日々の生活だとか、立場だとか経歴だとか…そういうのはまぁ、どうでもいいことになってしまって、つまり無計画でビジョンなど描かないまま歩み出してしまうものじゃないかなぁ、と改めて思う。40過ぎた頃からは特に「何かのため」に始めるようなこと・やることには、とことん関心を持たなくなってしまった(昔からそうだったけど)。
という訳で相変わらず、己の業に向き合うような日々が続いているんだけど、未だ自分はBlulという笛を「思うように」演奏できていない。未だ「(他の笛のように)いつも同じような音が鳴ってくれる状態」には、至っていない。というか、その日その瞬間で、息と身体と管と空間が合わさったところで、向こう側から「やって来るようなもの」に長く憑りつかれているので、そうだからこそ、やり続けているのかも知れない(すぐにそれなりの音が鳴る笛では「こうしたい・こうしよう」が先に立ちやすく、僕個人としては「最初に何かがズレる」ように感じるようになってしまった)。舞台を見ているお客さんからすると、フツーに演奏できているように思えるかも知れないが、僕の方は究極的に、自分が「来た!」と感じれる何か?音?に、出会えているか出会えていないか…みたいなことにしか意識が向いていないような気もする。笛を手にしているとそうなってしまう…と言った方がいいんだけど。「タローさんのステージは、エンターテイメント性が高いから」と、かつて(20代30代の頃)は言われてきたが…今僕はほとんどそういうことに意識を向けなくなってしまった。これまでの経験がどこかにあるから、舞台もそれなりに楽しいものにはしてしまうんだけど、それは自然にそうなってしまうだけで…自分の最大の関心は、常に他のところに「引きつけられたまま」になっている。

京都は9月の修学院に続き、11月には今出川の小スペースでも開催
そんな訳で、アルメニアをはじめとする黒海沿岸の広い範囲の地域の文化や歴史、自然や人々にこのところ僕は強烈に引っ張られ続けているんだけど、その理由は僕自身まだ見えてはいない。実はあまりそういうのを見たいとも思ってないのだろう。修業ってそれ自体がどこか完結しているし…「いそしむ」という言葉がピッタリくる。

第一回アルメニアン・ダンス研究会参加者の面々

去る3月12日、あいにくの土砂降りの中だったけど、はじめてアルメニア大使館を訪れた。大使のAreg Hovhannisian氏が活動に大変関心を持ってくださり、京都に会いにいくよというメールを頂いたのだが、さすがにそれは申し訳ないので、5日からの東京滞在を延長し、ちょうどニュージーランドでの仕事から戻ったばかりの大使を訪ねた。大使は幼い頃にバイオリンをやっていたので音楽にも造詣が深く、そして義理の息子さんはダンスの指導者でもあるという。アルメニアのダンスの普及と保存に大変な貢献をしてきたGagik氏の突然の逝去にまだショックが残っていたが、義理の息子さんはGagik氏のお弟子さんでもある。拙い英語で、あまり多くのことは話せなかった(気がする)が、大使はとても温かい方で、今後の活動のことや今進行中のプロジェクトについても少しばかりお話しさせて頂いた。書記官のDavit Sahakyan氏もとても良い方で、お二人と話しているとアルメニアでの日々をいろいろ思い出した。

実は、このコーカサス地方についての合同誌「Tomo」に寄稿している。以前、アルメニア音楽をとりあげたコンサートに来てくださった「生きてる」さんにお声がけされ、「人を出会いへと導くもの」というタイトルでアルメニア音楽との出会いを綴っている。とってもマニアックな同人誌!ご興味のある方はぜひ。


ここ数ヶ月の振り返り①

トランシルヴァニアから来日した音楽家&ダンサーと
春を迎える前に…数ヶ月を振り返る。昨年秋からは特に、音楽活動やら日々の報告などの投稿をほとんどしてない。元々FBにもWebページにも、あまり日々のことを細々アップする方ではないんだけど、歳を重ねるごとに人生が濃くなっていってて…次から次へと得難い出来事が続くし、新しい出会いも続くし、新しいこともどんどん始めちゃうものだから、投稿が追いつかないというか、報告や記録等の優先順位が自分の中で限りなく低くなっていってしまう。
 
本音を言うと、そもそも自分の過ごしている日々を誰かに知らせたい欲求も、記録しておく必要性も、自分の中にあまりないからなんだけど…それにしては、親しい人の日々や経験を眺めるのは、どちらかと言うと好きな方だと思う(笑)

ボンチダ村の祭を一緒に再現した東京グループと…歌も踊りも超ステキだった
この一年は、あまりにもやりたいこと&やることが多くなり過ぎて、庭も畑もほとんど放ったらかしになってしまった。こんなことは京北に移り住んで初めてのことかも知れない。そろそろ何とかしよう…大変だけど、暮らしの維持や環境の整備の楽しさっていうのもあるから。

これが日常になったらいいのに(笑)

 

という訳で、本格的な春の到来までに一つの区切りとして、順不同でここしばらくの振り返りを始めようかなと思う。春以降はまた色んなことがスタートするから、今やらないと多分ずっとやらない(笑)
まずはこの3月頭の出来事。トランシルヴァニアの音楽家とダンサーたちが来日し、関東・関西でコンサートと生演奏によるダンス講習会を連日開催した。国内ダンサーたちとの縁と、フォークロール・レポートの増永氏のご厚意で、期間中の講習会などもほぼ張り付きで同行させていただき、4つのコンサートではステージもご一緒させてもらった。ほぼ毎日音楽とダンスに浸かっていたので、ここが日本だという感覚は限りなく消えていた(笑)

サイコーに楽しメンバーと京都での公演…トランシルヴァニアのボンチダ村のダンスやカルシャリ、そしてアルメニアの漁師の踊りや、笛一本とシャーンノス・ダンスのガチンコ一本勝負まで
振り返れば30年以上前に(日本ではアニメ「おもいでぽろぽろ」や映画「イングリッシュ・ペイシェント」等で広く知られるようになった)セバスチャン・マルタ&ムジカ―シュが初来日した際には、まさか自分がこの地域の笛ではなく(実は笛は既に演奏してたんだけど)この地域の特殊なヴィオラ「ブラーチャ」に挑戦することになるとは、微塵にも思っていなかった。昨年惜しまれながらもこの世を去ったムジカ―シュのPéter Ériも笛とブラーチャを演奏していたが…この、地味な存在のくせにやたら難易度が高い弦楽器をまさか自分でやろうと思い立つなんて。アルメニアのブルールといい、このブラーチャといい、年齢を重ねるごとに難易度の高い楽器・音楽に自分はチャレンジしてる気がする。昨年春にルーマニア随一のバイオリン名手アティッラ氏が来日し我が家でご一緒した際には、「よくこの楽器を始める気になったね…難しいよ」と言われたが、始める前に聞くべきだったかも知れない(笑)

これが日常になりますよう(笑)
ダンスも難易度が高い。地域性豊かなダンスは、知らないと&練習しないと、踊れない。少なくとも、時間を積み重ねないと気持ちよく踊れない。そこが意外に重要なとこでもあって、ただ音楽に反応して各自が体を自由に動かすダンスとは異なる、ある種の「深みのある自由」が、その動きの中に現出してくる。その人の過ごしてきた時間が、その人となりが、そこに凝縮されて表れてくる。表そうとして表されるんじゃなくて、たぶん表れて来るんだろうなぁ。だからこういったダンスの際には、動きの中で、時間と時間が出会っているような特別なエネルギーが放たれている。音楽は、常にそのうねりと共に微細な変容をしながら、エネルギーとエネルギーをつなぐ波のようなものを描き出してゆく(それが古代のドルイドたちが言ったニュイーウルのようなものじゃないかな、とも思う)。音源を流してノリノリに自由に踊るダンスもそれはそれだけど、そういう場や音にワクワクしたり自由を感じたりしたのは、僕の場合10代くらいまでだったかなと思う。

いや、もう日常にしよう(笑)
日頃から「ダンスの音楽は、ダンスと一緒に演奏されてこそ」だと思ってるんだけど…ルーマニアトランシルヴァニア地方の音楽にしろ、僕がこのところ最も熱心にとりくんでいるアルメニアの音楽にしろ、かつてよく演奏していたアイルランド音楽や南米音楽にしろ…やはりダンスと共に演奏する際は「生命の中に含まれている」ような不思議な感覚がある。音楽や踊りを、そこだけ取り出して、自己表現とか、自己~みたいな、そういう近代的で些末なことはホントに…その「生命体験」の中では消えてしまうものじゃないかなぁと思う。その体験がない人・日々体験していない人にとっては、重要に「思える」ものかも知れないけれど。

皆ラブリーな演奏家

張り付きで何時間も踊りと演奏に集中してて、放心気味の三人

終演後、フォークロール・レポートの増永氏と…何から何までお世話になりました

世代をこえてアルメニアのダンスを拡げた、Gagik氏の逝去

アルメニアのダンス(ステージ用ではなく民間伝承的なダンス)を復興・普及した先駆者であり、最も有名な舞踊団の一つでもあるKarinのリーダーGagik Ginosyanが逝去。今年の秋にアルメニアを訪れる計画があったので、その際には再会できると思っていた。それだけに突然の知らせでショックは大きい。

帰国前にひょんなことで訪れた催しでGagik氏と再会
2018年にアルメニアを初めて訪れた際、大きな目的の一つがカスケード広場で行なわれるKarinのダンスWSに参加することだった。アルメニアを代表する現代詩人の一人Armenuhi Sysyanと、僕の笛に関して入手から全てをサポートしてくれたアルメニアを代表する民族音楽楽団 Shoghaken Folk Ensemble (Շողակն)の笛演奏家Levon Tevanyanも、もちろんGagik氏とは親しく、WSに参加した際には彼らがGagik氏を紹介してくれた。
帰国予定日に台風が関西空港を直撃し、その影響で飛行機が飛ばなくなって滞在期間が数日延びたおかげで?エレバンで開催された音楽イベントに赴き、そこで再び彼に会った。その場にいる全ての人が、本当に心から彼を尊敬していることが伝わってきた。アルメニアのダンスや音楽に関わる人間にとっては、宝物みたいな人だったに違いない。
 
※葬儀の様子がアップされていた… https://fb.watch/q8hHhZTF9Z/
年末年始の余裕のなさから(前投稿参照)、しばらくここでも投稿が出来ていなかったが…奇しくもアルメニアのクリスマスである1月6日(アルメニアは初期キリスト教国なので、クリスマスが冬至近くの日に「変更」される前の風習が残っている)に、僕たちは生演奏による「日本アルメニアンダンス研究会」を京都で発足させた。この研究会でとりあげる多くのダンスも、Gagik氏がKarinでの活動を通じて広く紹介・普及してきたもの。Gagik氏の魂の平安と、彼を失ったアルメニアの人々の未来のために祈らずにはいられない。
それにしても、どうしてこの歳になって、こんなにアルメニアの音楽に惹かれるようになったのか。音楽や笛はもちろんなんだけど…実は、アルメニアの人々が老若男女で踊っている映像を見たことが、きっかけだったような気がする。
 
そこに何か言葉にできないような「引っ張られる力」を感じて、とにかくその人々の輪に入ってみたい、と思うようになった。すると今度は、コーカサスの山々の風景がそれまでとは全く違う見え方をするようになってきて…不思議なんだけど、山々自体が自分を呼んでいるような、そんな気持ちがするようになったのだ。それは結構強烈な力で、とにかく直接その空気の中に行かないといられないような不思議なエネルギーだった。
アルメニアを訪れ、今僕が修行している笛Blulの音色を目の前でLevonから聴かせてもらった時、その音色がその「引っ張っている力」と自分をつなぎ続けるものであることを直感した。それまでは、自分がその笛をやるつもりは全くなかったのに。
 
※こうして葬儀の様子を見ていると、心が打たれる
振り返ると、やはり人々であり、土地であった。それは恐らく今という瞬間の人々や土地だけではない。もっと時間を超えた、人々や土地を巡ってるエネルギーのようなもの。人々や踊りを通して、音楽を感じたんだな。
 
KarinのWSに参加した日の後、友人のArmenuhiが言った。「個々人が自己表現として魅せるダンスも、もちろん芸術として素晴らしいと思う。でも、アルメニアの踊りは、皆んなでつながるための踊りなの。エゴが消えてしまう踊り。それが私たちの文化。今の時代、それは注目されにくいものなのかも知れないけれど…私はそのことに誇りを持っている。」
 
 

母、逝去

年末29日に、長く闘病生活を続けていた母が息を引き取った。年末年始ということもあり、通夜が2日・式が3日になったものだから、僕は29日からほぼ毎日のように京北から豊中に通っていた。
何の「はからい」があったのか…息を引き取る直前に奇跡的に血縁の顔ぶれが揃い、晴れやかな陽射しの中で家族に囲まれて母は逝った。僕はその日から数日間、料理係となって大半の時間をキッチンで過ごし、手巻き寿司パーティーやおでんから始まり、通夜の夜は餃子パーティー、式の夜はお好み焼きパーティーと連日の宴と相成ったが…賑やかに美味しいものを食べて、ある意味良い供養になったのかも知れない。恐らく母が生きていてもこうしていたし、こうなっていただろう。
最期まで自宅で…という想いが強かった母の式は、自宅に神主を呼んでの神葬式だった。生死に関わる数日間の「時の流れ」はどこか特殊でもあり、後で思い返しても不思議な縁を感じさせられるようなことが次々に起こっていた。それは29日を過ぎてもしばらく続き、さすがに僕たち家族も「人智を超えた天命というものがやはりあるようだ」と改めて実感させられた。この数年、身の周りのことから食事療法・病院通いまで献身的に世話をしていた妹だけど、2人で話していて(僕も出来る限りではあったけれど)アレコレの世話もそれらはどこか楽しくもあり、このままずっと続いてもかまわないと心のどこかでは思っていたような気がするね、としみじみ振り返った。
幼い頃からものごとの捉え方も考え方も自分とは全く異なる僕に対して、母はよく「宇宙人みたいな人を生んでしまった!」「脳が普通じゃない」というようなことをよく口にしていたし(笑)ことあるごとに、多少文句も込めて「あなたは親の死に目にあえない因果な仕事を選んだ」と言われ続けて来たんだけれど…どういう訳か僕は、父の死に目にも母の死に目にもあっている。夜に爪を切ることも多かったが(笑)結局二人とも、傍で最期を看取ることになった。運命というのは、わからない…僕は笛吹きだから、もしかすると二人とも最期の息というものを間近で僕に見せてくれたのかも知れない。
散々、困惑させ、不安にさせ、絶望させた子供だったかも知れないが、母も晩年はそんな愚息の在り様を案外どこかで楽しんでいたのかも知れない。

母の信仰から式は神葬式だったが、昔ながらの自宅での祭壇と榊や塩や米、白装束での通夜までの日々は何か端々に清々しいものを感じた。

写真:母は案外餃子が好きで、亡くなる前にも食べたがった。僕は包み方を子供の頃に母から習った。考えてみたら父も餃子が好きで、晩年は街で会うと必ず餃子を食べに行きたがった(どういう訳か妹と一緒の時は餃子ではなかったようだ)。恐らくは時代的にも、若い頃は仕事が終わると街に出て仲間と餃子・ビールを楽しんでいたに違いない。働き始めた頃は神戸に住んでいたし、単身赴任時代は新橋、その後は横浜時代もあったので、その暮らしは容易に想像がつく。そして母は主婦業に専念していた頃、おそらくは20代の父兄弟が集まるごとに、こうして家で餃子を包んでいたのだろう。 通夜の日は皆がそれぞれの包み方で、餃子供養と相成った。

写真:闘病が始まってからというもの、かなりこだわって根気強く母の食事療法を続けていた妹が、「そうか、もうそんなに気をつけなくても良くなったんだ、そう考えたらラーメンとか食べたくなるなぁ」と漏らしていたので、 豚軟骨を仕込んで出汁を取り、沖縄風の豚の甘辛煮と四川・ベトナムのトッピングを揃えたラーメンを作り、みんなで食べた。 母と妹は奄美大島加計呂麻島に何度も行っていて、島の人々ともつながりが続いているし、妹は大阪の大正区に通い奄美三線の弾き歌いを長く習っていた。母も南の方の味付けや、スパイシーなものが好きだったから、これもまた良き供養になったのかも知れない。

写真:もう、ほとんど何も食べたがらなくなってから、突如麻婆豆腐が食べたいと漏らしたので、少し辛味を抑えてはあるけど、忖度のない(笑)四川麻婆豆腐をカンタンにではあるけど作った。 甜面醤と辛豆板醤は洋子さんの手作り仕込みのもので。 量は食べられないけれど、風味だけ味わえて満足といった風だった。 そういえば父も病室で、麻婆豆腐が食べたいと漏らしたことがあった。その時は病院だったので叶わなかったのだけど。

写真:神式の祭壇は、どこかかわいくて、そして清々しい感じだった。今は神式の葬式は全体の5%くらいらしい。勿体ないな、とついつい思ってしまう。 祭壇は張られた布も緑で、それは榊の色と揃っていた。偶然にも、母の遺影を入れた額も榊色で、そして祭壇に備えたお菓子も榊色。意図していなかったのに、空間が榊色で染まったようだった。

2023年夏至祭…と僕が10代の頃に描いていた物語

ふと…2020年4月にアップした投稿👇を思い出した。「二つ目の太陽」と今の時代を示唆する沢山のビジョン。この物語にはまだとりかかれていない。ちなみに写真は、今年の夏至祭(6/21)から。もちろん大事な「祭」だから夏至当日に行っているんだけど、平日でもこんな風に集まれる人たちの日々の暮らしがやっぱり素敵。

👆今年のウツシ玉が集合。ウツシ玉は、一人ひとりが縄を結いながら一年にあったいろんなことを縄玉に込めて行き、それをハーブや野草で思い思いに可愛く飾ってつくる。一年に一度の、エネルギーの変換の儀式…これを、それぞれが火に投げ入れる。
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今から35年ほど前、僕は突如、あるビジョンに「憑りつかれた」。ビジョンというか…実はそれは「ある瞬間のビジョン」であって、そのシーンに至るまでは長い物語があるのだが…僕はその物語を、映画にしなくては!と思い立ち、毎日学校で(授業の間中)、ノートのあちこちに構想を描くようになった。特に高校2年生の頃、僕の頭の中はその物語の空想・妄想でいっぱいだった。それくらいに、そのビジョンは「衝撃的」だったのだ。
 
物語は、こうだ。
ある若い文化人類学者が、フィールドワークに訪れた奥地の少数民族の村で、その地域の人々の会話の中に「意味をなさない規則的な音」があることに気付く。それは一種の「まじない」のようなものとして、会話の中に挟まれていたのだが、その音について調べているうちに、それらが元は「別の文明」由来の言語だったのではないか、と彼は考えるようになった。その確証を得るべく、古い宗教施設を訪ねた彼は、村の古老からそれらの音・単語についての聞き取り調査を始めることにしたのだが、そこで思いもよらず、古老から「ある不思議な物語」を聞かされることになる。その物語は、はるか昔の出来事のようであるのに、その人類学者に対して「その時、お前は」「そして、お前は」という風に、常に「二人称で語られる」物語だったのだ。人類学者はとまどいながら、「それは誰の話ですか?」「どこの話ですか?」「なぜ私が登場するのです?」と尋ねるが、古老は一向にこたえようとしない。
 
ところが次第に物語が進むにつれて、人類学者は「まるでそれが、自分が実際に経験したことであるかのような」錯覚と共に、それがはるか昔の誰かの経験なのか、それともかつて自分が実際に経験したことなのか、更にはこれから自分が経験することなのかさえも、分からなくなってしまう。その物語は、「異なる【層】をつなぎ、意識を連れ出す」呪文でもあったのだ。
 
過去とも未来とも分からない、とある世界…大陸の中央にパータスと呼ばれる高原地域があり、多くの少数民族が各々の国を持ち、互いにせめぎ合いながら暮らしていた。それらの民族の間には、ある共通する神話、「二つ目の太陽」に関する伝説が、異なる宗教を通し、それぞれの形で語り継がれていた。「天空に二つの目の太陽が輝く時、人々はもはや光を受けず、ただ光の内に時を過ごす」。そんなパータスの小さな国に、戦乱で両親を失い、行くあてもなく軍隊に入った一人の少年がいた。彼は隣国の民族紛争の中で、敵対する地域の村に攻め入り、同盟国の上官の命令で、とある少女を捕らえることになる。彼女はアルスーヤンと呼ばれるシャーマンとして生まれた者で、アルスーヤンは祭礼や儀式・治療や呪術といったいわゆる通常のシャーマンの役割ではなく、「ある特定の技術」を受け継いでいく役割だけを担っていた。その技術は一見すると舞踊のようにも見える動き・一種の作法のようなもので、「時が到来した瞬間にのみ、その意味を表す」と言われていた。しかし日常的には人々の役に立つ訳でもないものだったので、アルスーヤンはその地域では長らく地位の低いシャーマンとされていた。しかしその役割の謎故に、将来脅威に成り得るやも知れぬとして、彼女は異国の宗教的指導者たちに捕らえられたのであった。軍人として落ちこぼれであった少年は、少女が捕らえられた僧院の見張り兵となるが、次第にそのアルスーヤンの「技術」が一体何なのか、強い関心を抱くようになる。しかし唯一の生き残りである当の少女自身が、その技術の「意味」を知らされてはいなかった。そこで少年は、彼女を脱出させ、パータス高原の果ての国にいるという「いにしえの智慧の守り手」たちに引き合わせるために、旅に出る決意をする。脱出を助けた若い一人の僧が、少年にそっと告げた。「まず最初に、お前たちの導き手となるであろう男を探せ。彼は“言い直す男”と呼ばれている。」
 
“言い直す男”は、少年の国からほど近い隣国にいると聞いた。二人は隣国に逃げ延び、“言い直す男”を探すが、戦乱の渦は次第に周辺諸国に及ぼうとしていた。その頃から高原全土には薄っすらとした靄のようなものが漂うようになり、それが太陽からの光を遮るかのようにして、各地の都市を薄暗くしていた。人々はこれらの変化・変動に不安を抱き、様々な預言者の登場も相次ぐ中で、次第に互いへの恐怖と猜疑心にさいなまれるようになっていた。アルスーヤンの少女は、「靄のように見えるのは、ヒトによって形を与えられた、エネルギーだ」と少年に告げる。そしてそのエネルギーに、ヒトの内にあるエネルギーが共鳴することによって、それぞれの内でも同様のエネルギーが形を成し、それらは次第に大きくなり、やがてはそのヒトの思考を支配し、靄は世界を覆う一つの大きな霧、太陽の光を遮る広範な煙になっていくのだ、と。「互いに恐怖を抱き、傷つけあうことは、無意味だ。本質的なエネルギーは、消えるどころか、さらに世界を覆い始め、ヒトを通して形を得ては、むしろ拡大していく。霧の中でこそ、暗躍する者がいる。霧を晴らす、風を起こせ。」
 
隣国で、戦乱を回避しようとする地下組織の人々と知り合った二人は、そのグループを率いる若い男が、不思議な交渉術で人々をまとめていくのを見た。彼こそが“言い直す男”であり、“言い直す”というのは、その地域で古くから伝わる、言葉によって「思考をひっくり返す技法」のことであった。「ヒトの存在自体が、壁のようになり、風を遮ることがある。だからヒトを、風を起こす一枚一枚の羽に、そして風を通す一本一本の管に、変えていくんだ。管には、連なって風の振動を大きくする役目がある。そういう小さな小さな【準備】が、これからやってくる【瞬間】を招くんだ。僕たちがやっていること、それは世界の響きを変えることなんだよ。」
 
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…さて、これでこの物語の前半部分なんだけど…高校生の僕にとってはあまりにも壮大な内容過ぎて、全貌を描くには、知識や経験が足りな過ぎた。高校卒業後、どこにも所属しない宙ぶらりんな生活の中で、昼夜を問わず毎日のようにその辺をウロウロしながら空想・妄想に勤しんでいた僕は、物語が自分の中で形を成すにつれて半ば途方に暮れ、それで大学に行って、民族学社会学、心理学や哲学・宗教学を勉強することにした。僕はこの物語の映画化を目論んで(笑)、大学に行ったと言っても差し支えない。
 
この物語には、歌やら舞いやらが多数登場する。だから、僕は10代の頃から「意識的に」世界中の音楽に触れようとしてきた。まぁそういうこともあって、結果的には音楽家みたいな活動に突入しちゃったんだけど…こういう話はキョトンとされることが多いので、あまり多くの人に語ってきてはいない。ともあれ、今の世の中の状態は、ちょうど僕が見た「ビジョン」につながる、上記の物語「シーアルの陽(ひ)」の、前半部分での出来事にすごく似ているところがある。なので、久しぶりに、10代の頃に僕を虜にしていた、この「空想・妄想」の物語を思い出していた。
 
いつか、この物語を形にする時が来るのかな。

👆今年のジューンベリー収穫。近所の友人たちに手伝ってもらって、かなりの量を収穫…今年は色着くのが早く、そして甘かった!とる暇がなかなか見つからなくて、その間にヒヨドリの来襲や(笑)ハクビシンたちの来襲により、だいぶ動物たちにもとられたけど…最終的には仲良く分けっこ出来た状態に😆

子供たちは、採った先からパクパク食べる。うまいもんな~~~(笑)

今までウツシ玉は、作った先からそれぞれ火に投げ入れていたんだけど、一つ一つがあまりに素敵なので、今年から一旦こうして机の上に並べることに。実は昨年の夏至祭が雨で、その場で火を焚いて燃やすことができず、しばらく並べておいて晴れてから燃やしたんだけど…並べて置いてるのがあまりにも綺麗だったので今年からこのスタイルに。可愛いウツシ玉を眺めながら、みんないい一年を過ごしたんだなぁ、としみじみ。

👆予想以上に梅雨入りが早く、整備が追いつかない我が家のブルーベリー・ゾーンはあっという間にジャングルと化したが(笑)何とか夏至に間に合わせて、ジャングル状態のところに突入路を作ることが出来た。ブルーベリーも今年は大粒でうまい!!近所の子供たちの贅沢な食べっぷりに爆笑。うまいよね~

今年の夏至祭会場(我が家)のエントランス、天地の塔と「しあわせの輪くぐり」の輪。まだ花やハーブで飾る前の姿。ここから、やってきた人たちが飾り付けをしていく。

今年は夕方になってみんなが集まり始め、「しあわせの輪くぐり」の輪を飾り付けていった。平和で豊かなひと時…












このところの活動をふりかえって…

グランドサロン十三でのコンサート、フィナーレでは観客も一緒にダンスを

ふと思った。音楽活動を始めた頃から、僕がやるコンサートって、内容をよく知らないまま(想像つかないまま)やってくるお客さんがほとんどだった。考えてみたら、よくこんな状態でやってこれたものだ💦お客さん呼ぶなら、分かりやすくジャンル名を掲げたり、有名曲入れたり、名が知れた人を入れたりとか(笑)するもんなのに、そういうのはどちらかというと避けて来たし…で実際コンサート当日、蓋を開けたら演奏する曲は世間で全く知られてないような音楽ばかりで、しかも毎回のように内容も変わっていく。
 
こんな状態でお客さんが常に来てくれてたということ自体、奇跡なんだろうな…奇跡の果てに今の僕がいて、奇跡の続きとして今の活動があるのかも。

トランシルヴァニアのボンチダ村のダンスでは、ついにブラーチを演奏…

ルーマニアの誇るカルシャリがついにダンス付きで!これはなかなか観れん
5月末、3年間(コロナ騒ぎに伴う会場の閉館で)延期になっていた全曲アルメニア音楽のコンサートを終え、2019年に始まった僕の趣味趣味な斜め笛(Blul)修行も、ようやくまともな第一歩を踏み出した感がある。

左からアルメニアのShvi、Blul2本、チャンゴーのFulya、モルドヴァのKaval

南丹・八木のホールでアルメニアルーマニアの音楽を半々でとりあげる公演
が…振り返ってみたら、その前日にはアルメニア音楽とルーマニア音楽を半々にとり上げるコンサートがあったし、その前には滋賀でのダンス・イベント演奏があったし、その前には浜松での講演・公演があったし、その前はジプシー演奏家とのハッピーな出会いがあったし、その前は十三でダンスと音楽のゴージャスな祝祭ステージがあった。
 
その間を縫って色んな仕事で走り回ってたし、4月からは大学での授業も始まっている。毎日毎日が濃すぎて、一つ一つの出来事の報告をfacebookやblogでする時間が、ホントに全く見つからなかった…

アッシリア時代まで遡ると言われるアルメニアのダンスTamzaraに観客も参加

島之内教会ではECでアルメニア人作曲家ハチャトゥリアンのレスギンカも演奏

アルメニア音楽を古楽器と一緒に…という発想はなかなかドンピシャだった

2003年現地で入手したウズベキスタン布を仕立て屋さんネッピーが舞台衣装に

クリミアの踊り…このところ黒海周辺の文化に触れる機会が多い…なぜだろう

なかなかないメンバーでの公演だったなぁ…ずっと楽しかった…
今年は色んな意味で、自分自身の転機になるような機会が続いている。世の中いよいよ混迷極まって来たけれど…自分の中では何故かどんどん、清々しさみたいなのが拡がり続けている。
そう言えば、少し前から眼にハチミツをさしている。むちゃくちゃシミまくって激痛レベルなんだけど、恐ろしいことに視界がクリアになってきた(笑)世界と自分を、よりクリアに見つめていきたいな…。

京都美術館で行われた児童画展での演奏

2022年の冬至祭と年末の日々

“開いた祭”である「ツクル森」が終わり、先日22日に“閉じた祭”である「冬至祭」が終わった。この冬至祭については、過去の投稿を参照して欲しい。

全員ではないけれど、今年の冬至精霊たち

振り返ってみれば、今年もよく笑った~

✨この小さなコミュニティで日々与えられている豊かさに、ただただ感謝☺

冬至の仮面と到着時の音具

冬至笛と儀礼の鳴り物

それにしてもこんなに静かで、何かに充ちているような、落ち着いた冬至を迎えるとは思ってもみなかった。世相人心いよいよ混迷極まって見えるのに、どこか不思議でもある。

招かれた家に精霊たちが集結…藁クズや木くずがいっぱい落ちる(笑)

冬至祭が終わると、そこからはポッカリと空いたような時間が訪れる。ちょうどブランコが上がりきったところ…宙空で折り返す時の、あの一瞬の無重力な感じにも似ている。その感覚が今年は特に大きいのかな。何か一年周期以上の、巨大な周期での冬至が訪れていたような感覚がする。来年は人間社会全体にGがかかるような年になるだろうな。

最終セレモニーの後は、食の儀(持ち寄りパーティー)

ずらりと食事が並んだテーブルに一斉に手が伸びる光景が好き

夏至祭以来開放している大広間からの続きの部屋で謎の対談番組始まる

折りしもこのところ雪が積もり静か。待つというわけでもなく、八方目で日々を過ごす。
みなさんが、良い年末年始を過ごされていますように☺️

下から光を透かして見る葉が好き…冬の風に細かく揺れて、キラキラしていた

咄嗟に撮ったからボケているけど、野ウサギ…やっぱりかわいい

ツクル森の打ち合わせでの持ち寄り菓子…こんな打ち合わせは何度あってもいい

近所の友人宅で子供たちがチョコ・フォンデュしてた…今年一番のクリスマス気分♬






ツクル森2022(11/5,6)

投稿から遠のいたまま、随分時が経ってしまった… ので、少しだけ振り返ってご報告。去る11月5日6日に地元のイベント「ツクル森」が無事終了した。このハッピーなイベントを始めて5年になるけれど、今年は今までで最高だった、というような声を本当に沢山の方からいただいた。確かにそうだったのかも…僕たち運営スタッフは1年間かけてジワジワと準備していくんだけど、振り返ってみればその間ずっと場や空気が「それ自体によって」整えられていくのを見ているような、そんな不思議な感覚が今年はあった。ツクル森は音楽だけのイベントじゃない。けれど今年のステージは、これまでの中で特に大きな余韻が残るものになった。ガムラン楽団・ギータクンチャナさんの演目は、大きな聖獣バロンや二羽の極楽鳥ダンスが加わる超豪華版で、夕暮れの森を背景にガムランの生音(!)サウンドが響き渡り、幻想的な生き物たちが舞い踊る光景には会場中が興奮に包まれた。自然の中で行われる芸能はどこか人間離れしていて神秘的でもある。こればかりはホールなどでは体験できないものかも知れない。 そしてこのような野外イベントとしては珍しく、今年のステージは商業音楽的な要素がほとんどない伝統的な「歌だけの演目」が並んでいた。阿寒湖アイヌコタンから駆けつけてくれた旧知のお二人Kapiw&apappoによるアイヌのウポポ(歌)やトンコリ(縦型の琴)・ムックリ(口琴)、Kawoleさんによるカント・コン・カーハ(小さな太鼓だけを鳴らしてうたう南米先住民たちの歌)、里さんによるハラナ(小さな弦楽器)をかき鳴らしながら時折サパテオ(足踏み)を挟んでうたわれるメキシコ村落の祭歌…ここまでプリミティブでネイティブな伝統音楽系で埋め尽くされた野外イベントもなかなかないと思う。しかもそれらの歌い手が声を重ねる「共鳴する声」という企画では、アイヌの歌・南米先住民の歌・メキシコの祈り歌を歌い手全員で歌った後、今度はそれぞれの歌を同時に歌い重ねていくという試み。地球上のあちらこちらで、同じ時の中で発せられているヒトの声や歌、それらがどんな共鳴や振動を生命世界に現出させているのか…地球を一つの森に、そしてヒトの歌声を森のあちらこちらから響く生命の音に見立てたこのアイディアは、まるで「宇宙から地球を眺める」ような感覚で…アイヌの歌に南米の歌、そして日本のわらべうたが重なっていくステージはちょっと神がかってもいた。日頃こういった音楽文化には恐らくあまり触れることがないであろう多くの人々が、今回のようなラインナップにどんな反応をするのか予想はできなかったけれど(思惑や予想なしに為される芸能が実は最も重要なんじゃないかと個人的には思っているけど)…来てよかった・生まれて初めての体験だった・涙が止まらなかった、というような声が沢山寄せられて、それには少し驚かされた。今年のツクル森のタイトルでもあった「みなもとへかえろう」というような意識が、今世の中で広く芽生えつつあるからなのかも知れない。また、音楽イベントってミュージシャンたちがそれぞれの出演時間に合わせて会場にやって来て、それぞれの「いつものヤツ」を披露して謝礼と拍手もらって帰る…というだけのものになりやすいところがあるんだけど、今回のツクル森ではミュージシャンが二日間とも滞在し(ツクル森という催しに深くコネクトし)、ワークショップも行ない(文化を紹介し、経験や知識・技術を多くの人にシェアして)、互いにコラボレーションもしている(お互いにつながって、このツクル森でしか生まれない音楽をツクッてもらっている)。そして歌い手さんたちの間では、これをきっかけにお互いの土地を訪ねたり一緒にレコーディングしたりする計画も立てられていている。こういうことが実現したのは、今回の出演者の皆さんが音楽だけじゃなくて、日々さまざまな仕事…畑やものつくりといった営みを続けている、いわば地に足のついた人たちだったからじゃないかと思う。またそれぞれが伝統的な音楽文化に対するリスペクトが深く、長年時間をかけて取り組んできた人ばかりで、ある意味「自己表現」というようなところに留まっていない人たちでもあったからなんじゃないかな、と思っている。そしてダンスのワークショップ(アフリカン・ダンスと東欧フォーク・ダンス)は、例年よりも更に充実した内容になっていた。多くの人々の歓声や笑顔、躍動する体が原っぱにひろがると、イベントにこれ以上ない一体感が生まれる。僕は「音楽とダンスを一緒に紹介する活動」を「土から引っこ抜いてきた花をもう一度土に戻してやる」ような活動と表現しているけど、「音楽」という漢字が「オンガク」と読まれるようになるまで、「うたまい」と読み仮名がふられていたことを知る日本人は今どれくらいいるだろう。踊りと一緒にと一口に言っても、「客席」の人々が賑やかな音楽に合わせてただ思い思いに体を動かしたり、何となくのイメージでグルグル回ったりする…という、その場限りの反応のようなものだけじゃなくて(それはそれで楽しみの第一段階だとは思うけれど)、「それぞれの文化の中で、音楽と元々一緒にあった踊り」をちゃんと紹介し体験してもらうことの重要性を近年は特に感じている。近代以降の社会って(良い悪いではなく)、様々なものを疑問なく切り離してきてしまった。自由という言葉を拡大解釈して、様々なものを都合よく扱ったり、別のものに置き換えたりしてきたとも言える。音楽に関わる人間がそういう風潮を踏襲せず、切り離されてきたものを再びつないでいくことは重要だと思うし、そうすることで初めて今の社会が取り戻していけるものもあると実感している。そういう姿勢を持つことって、文化とか、織り込まれた「時」とか、それらを紡いできた人たちや土地や風土に対しての敬意だとも思うし。実は僕は京北に移ってきてから、自分の作品や、長年やって来た得意?な音楽は、あまり人前で演奏してきてない(笑)。年齢だろうか?その代わりツクル森では、上記のフォークダンス楽団での演奏や、開会冒頭のフヤラ演奏(スロバキアの羊飼いが奏でる巨大な笛)、子供たちと一緒に歌う「みんなで歌おう、家守の木」は続けて来た。フォークダンスWSでの音楽演奏は、このポツポツ家が点在する田舎で「歩いて集まれる距離に住むご近所さん」だけで作った地元民の楽団で行なっている。これは長年、世界各地の民族音楽(と呼ばれる地域的音楽文化)に関わってきた僕としては、まさに究極の形だと思う(笑)フヤラ合奏はツクル森代表理事メンバーのうち3名でやっていて、多くの人が集まる場で最初に鳴らされる生音というのは土地に対する挨拶でもあるし、扉を開くノックみたいなもんだから、ある意味儀礼でありお祈りであり供物だと思っている。また「家守の木」は代表理事のフェイランさんが作った絵本のテーマ・ソングとして僕が作った歌だけれど、この歌を気に入って小さい頃からずっと歌ってくれている子供たちがいることは嬉しい。成長する中で失わないでいて欲しいものについての歌でもあるから。考えて見たら、これもまたセレモニーのような気持ちで続けているような気がする。そして今年のアート・スペースでは新たな試みとして、地元の美術教師・白井隆さんによるワークショップが行われた。子供や大人たちが呼応しあって、笹や茅の造形、色とりどりの点描を増殖させてゆくワークショップで、二日間通じて「誰のものでもなく、同時に参加者全員のものでもある」風景が原っぱに生まれ出た。このようなアートスペースの在り方も、ツクル森が始まって以来ずっと理想のイメージとしてはあったものの、なかなか実現できなかったことだった。それが今回、原初の「あそび」のような感覚で、多くの人々の手により自然に実現してしまったことには純粋な驚きや感動があった。そんな驚きや感動ともリンクするが…今回ツクル森での二つのトークショー(対談)のうち、初日の「ヒトは、なぜ表現するのか」でナビゲーションを務めさせてもらった。当初は僕がする予定ではなかったので、ピンチヒッターだったんだけど…ほぼその場の思いつきで進めたにも関わらず、珠玉のメンバー?のおかげでトークショーはとても興味深い内容になった。限られた時間だったし、あまり突っ込み過ぎないよう、話を膨らませ過ぎないよう、半ば自重しつつのナビゲートだったけれど(笑)、やはりアートとかアーティストというような言葉を使わずに「表現」を語ることは、案外重要なことだと改めて思った。目の前のヒトから…そして環境から世界から「表れているもの」。また、いまだ「表されていないもの」。それらにどのような「まなざしを向ける」のか。まなざしにこそ、人間の創造性が隠されているし、そこにはそれぞれの生き方が自然に表れる。登壇者たちが語る経験や時々の想いを耳にして、今まで持ち得なかった問いを抱いた人や、見えにくかった答を見出せたという人も多かったんじゃないだろうか(興味のある人は記録配信をどうぞ)。飲食ブースやクラフト・ブースの充実も、また素晴らしかった。悔やまれるのは、当日は運営側として走り回っていて、興味津々のお店の数々を味わい尽くせなかったことだけど、これだけ美味しくて安心できる店がズラッと並ぶこともなかなかない。クラフト出店もそれぞれが素敵で、あちこち回って沢山ゲットしている人たちがちょっと羨ましかった(笑)。でも何より、会場を行き来している人々の笑顔が本当に素敵で、1日のうちに同じ人たちを何度も目にするのが嬉しかった。つまり多くの人が長い時間滞在し、場と空気を満喫してくれるイベントになっていたということだ。運営側としては毎年反省点もあるし、当然ながら今後への課題も残ったけれど、そんな中で臨機応変に、その場で手を貸してくれた人々も沢山いて、とにかく友人・知人たちに助けられた。昨年に続きボランティアで参加してくれた人々のはたらきには感謝が尽きない。そういう人々が、実はこういう清々しい空気を創造してくれているんだな~としみじみ思う。それぞれの日々の探求や、お互いの日々の関わりが、合わさって奇跡を生み出していく…と実感させられた二日間でもあった。
みなさん、本当に有り難うございました。

絡めとられないこと

もう7年前になるのか…短い時間でそんなに突っ込んだ話をした訳じゃないけど、たのしい対談だった。今はもう前世の記憶のように感じてもいる。
 
この取材の3年後、2018年頭にアルメニアの詩人と出会いアルメニアの音楽を演奏した。その年の秋にアルメニアを訪れたけれど、次の年にアルメニアは戦禍に巻き込まれてしまった。2019年頭にはロシアとウクライナの詩人に出会い両国の音楽を演奏した。それ以来ロシア辺境やウクライナなどの音楽文化を追いかけていたけれど、今はこんなことになってしまっている。
これらの地域の文化や歴史については以前から関心を寄せていた分、人よりは知ろうとしてきた気もするけれど、それでも未だ知らないことが多すぎる。
普通に生きていたら「見せられていることしか、見えてはいない」…つまり「知らされていることしか、知り得てはいない」。知り得ていることとは、単に「知らせてよいと何処かで判断され•見せられていること」に過ぎないとも言える。
だから僕たちは「何を見せられているか•なぜそれを、見せられているか」を考えなければならないし、「なぜそのように見せられているのか」を読み取ろうとしなくてはならない。でないと僕たちは簡単に、様々な思惑やコントロールに思考ごと絡め取られてしまう。
実際今見えていることは、「見せられているように」今になって始まったことではない。軍事行為はずっとあちこちで「続いていた」。しかし世界のメディアは基本的にダンマリを決め込んでいて、それらの情報はほぼ積極的に知らされることはなく、故に話題にもならず認知もされなければ大した支援も行われず、国旗を掲げて応援されることも、軍事行為の首謀者やその裏で儲けている者たちを非難することも、それらの国に経済制裁を加えることも、プラカードを掲げてその指導者を悪魔扱いすることも大してないまま、半ば放置されてきた。だから、見えはじめた時にはあらゆる情報に対して注意しなくてはならないし、こういうことに関して大勢が同じ行動をし始めた時には、とりまく状況に対して注意しなくてはならない。
見せている情報やその見せ方に、「予想通り」集団的に反応してしまう市井の人々を尻目に、裏で舌を出している者たちがいつの時代にも必ずいる。歴史を少しでも学べば、このやるせない事実に必ず直面するのだから。
見せられているものだけでついつい全貌を知ったような気になり、情報を共有している集団で画一的な反応をしてしまうことや、集団で行動してしまうことはとても危険なことだし、それはこれまでの歴史で多くの人が学んできたことだと思う(ちなみに僕が大学一回生の時に最も関心を寄せていたのは、グループダイナミクスにおける集団脳炎と呼ばれる現象だった)。
とりわけ「分かったような気になってしまう」ことは、容易に僕たちを思考停止に導く。だから「分かったような気にならないでいられる人」が世の中に増えることを切に願う。
世界の分断に心痛めるなら、少なくともこの日本社会において、「分かる」という言葉がなぜ「分ける・分かつ」という言葉や文字とつながっているのか、そこに敏感になった方がいいだろう。
メディアは、分かりやすいストーリーを提供しやすい。社会は、分かりやすいストーリーにのりやすく、人々は分かりやすいストーリーを求め共有しようとする。分かりやすい感情は共有しやすく、正当化もしやすい。実際、分かったような気になった方が人間は行動がとりやすくなるし、それによって共感を得たり仲間も得たりして、人間は「得心しやすくもなる」。そうして一度周囲と共有した「分かった」は、簡単には手放せなくなってしまう。
正しく行動したい、と願う人々は多い。しかし「疑いようのない正しさ」を掲げるが故に疑うことができなくなり、集団で行動してしまうような危うさが人間にはある。正しいを掲げることは、認識世界を正しい側と間違った側に単純分断してしまう。純粋で、ある意味無垢な反応が、時としてそこに「仕込まれた分断」を助長させ、加速させてしまうことが、残念ながら世の中には往々にしてある。平和を求める人々の声や行動は、勧善懲悪の幻想に陥りやすく、それらは都合の良い対立構造に容易に絡め取られやすい。人々を、絵図通りに「絡め取っていく」技術には、実に長い歴史がある。年月と悲劇を積み重ね練り上げられて来た、冷酷で狡猾でパワフルな技術だ。
見せられているストーリーの裏で、見えにくいままにされていることもある。正しいと思えることをする事で、見えにくくなってしまうことだってある。純粋で無垢な平和を求める気持ちが、思わぬ方向に絡め取られ利用されてしまうこともある。単純ではない、極めて複雑…僕たちに必要なのは、その複雑を覗き込もうとする眼差しを養うことかも知れない。
こんな世界を、変えたい。多くの人がそう願っているはずだ。でも変化は始まってもいて、今多くの人が変化そのものになりつつあり、一人一人が自分自身や世界への眼差しを変えることでそれは近づいて来るとも思っている。
戦争は多くの人々を絡めとる巨大で暴力的なストーリーだ。それは時として、戦争と名乗ってはいない。時には平和希求や安心安全の顔もしながら、手を差し伸べ、人々を招く。ご丁寧なことに、バナーやステッカーやキャッチフレーズまで配ってくる。知らず知らずのうちにストーリーのコマにされ、避けるつもりがその思惑に加担させられてしまう。想像を超えた巨大な化け物に、命をかけた知恵比べを持ちかけられているようなものだ。
特定の国名や民族名などを挙げたくないし、お揃いのコピーやプラカードも掲げたいとは思えない…声を大にできるような正しさが、思わぬ方向に力を与え、制御できない力を野放しにしてしまうことを、僕はつい憂慮してしまう。
戦禍に巻き込まれている地域、その戦禍が及びつつある様々な地域に住む、あらゆる人々のために、一刻も早い停戦を願うばかりだし、切実に心の底から平和を求めている現地の人々のために祈りたい。せめて自分も変化の一部でありたいし、複雑を覗き込み、知恵比べを挑み続ける自分でありたいと思う。

父の命日

脊髄小脳変性症という、指定難病18に分類される病?がある。僕がそうで、父と祖母もそうだった。つまり脊髄小脳変性症の中でも遺伝型のタイプ。一度発症し進行し始めると、その進行を緩めるしか方法はない(現段階では治療ができない)ので、父は長い闘病生活の中で様々なリハビリに取り組んでいた。特効薬のようなものの登場を心待ちにしている人々も多いが…父はこの症例に関して薬に頼ることはナンセンスと考え続けていた。今日はそんな父の命日だ。

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アルメニアのBlul。この笛の修行も今年で4年目に入った。

ところでそんな厄介な病の発症を遅らせ進行を緩める極めて有効な方法の一つに、何と「新しい楽器にチャレンジし続ける」というのがあるそうだ。新しい楽器にチャレンジすることは、脳に極めて多彩な刺激を与え活動領域を拡げる。道理で…昔から、常に新しい楽器や音楽をやってみたくなる訳だ(笑)
南米音楽を舞台でやり始めた頃、歴史的な探求から植民地時代の音楽や中世ルネサンス期の音楽などもやってみたくなった。後にそこからつながってケルト文化圏、特にアイルランド音楽や西洋各地の辺境音楽をやってみたくなった。同時に10代の頃から聞き馴染んでいたアジア諸地域の音楽や、東欧やバルカン諸地域の音楽にも手を出してきた。無節操と見られても仕方ないレベルだ。
その時々で、いろんな人たちから「仕事的にはそういうの絶対やめておいたほうがいい」と注意された(笑)。理由は簡単で…日本人は仲間意識が強く、違う音楽に手を出した瞬間「裏切った・浮気症・自分たちほどにはこの音楽を大事に思ってなかったんだ」とレッテルを張られ、マニアやオタクな客が特に離れていくという。そして「広く浅く」という言葉がある通り、一つのことをやってる人の方が優れていると思い込んでる人がこの国には多いため、色々やってるだけで軽く見られたり客が付きにくくなったりするという。そして色々やってる人は基本的に一言で説明しにくいので一般的には分かりにくい…肩書的に分かりにくい人は扱いにくいので、仕事をゲットしにくくなるという。そしてもしも万が一、広く深くやったりしてそれぞれが優れたレベルに達しでもしたら、それはそれで疎まれたり付き合いにくい人として枠外に置かれたりするような憂き目にあうという。
なるほど、すごいな。本当に心配してこのような助言をしてくれたんだろうと思う。でもそうだとすれば、むしろ心惹かれるままに色んなことやり「わかりにくい人」でいた方が、この人生で本当に出会うべき人々に出会い、本当は必要性が薄い付き合いや、面倒くさい付き合い、そして思い込みや誤解とのたたかいに時間を奪われることもなく、向き合うべきものに向き合える人生になるのかも知れない。食い扶持的なデメリットを除けば(笑)それこそが、この上ない人生と言えるんじゃないかな。
でも時間が経ってみて、僕がいろんな音楽や楽器をやってきたのにはもう一つの理由があったことを知った。導かれている…というようなことが確かにある。「好奇心」や「興味」だけでは説明がつかない「何か」に引っ張られているような感覚は常にあったけれど…父が逝った年の秋はじめてアルメニアを訪れ、このBlulという笛を見てその場で「やってみよう」と思い立ったことは、今思い返しても不思議だった。以前ここにも書いたけど、今まで斜め型の笛は「やり始めてもおかしくない状況でも、やろうとして来なかった」んだから。
Blulを演奏する僕を、父は知らない。しかし、発音から運指から初めて尽くしのこの笛へのチャレンジは僕が予想していた以上に脳や身体への負荷が大きく(笑)、これはもしかしたら父に仕組まれたのかも知れない…と思うようにもなった。仕事柄、僕がそういった遺伝を引き継いでいること、そしてそれが発症してしまうことを父はずっと心配していたが、ここにきて最強の処方をブチかまされてるのかも知れない。
修業は、あそびでもあり、供養でもあり、祈りでもあるのかもなぁ。