タローさんちの、えんがわ

「音楽をする」って、 「音楽的に生きる」ってこと

④最初のCDの5曲目「アキニナレバ」の、ちょっと不思議な物語


アキニナレバ / きしもとタロー(ケーナ) When Autumn Comes / Kishimoto Taro (Quena) - composed in 1994

精神的に苦しかった時に作った曲が、何故かその後リクエストが多くて演奏回数を重ねていく…なんてことが不思議とある。もちろん曲を作る(何かしらのエネルギーと向き合って形にする)ことで、僕自身はもう次の状態になっているから、演奏する度に苦しかったことを思い出す…なんてことはないし、むしろその逆で、回数を重ねるたびに自分の中では何かが形になり、堆積し沈殿し、落ち着いていくのを感じていたりもする。 そんな作品の中で、これまで最もリクエストが多かったのがこの「アキニナレバ」。1994年の作品で、解説文にはこんなことを書いていた。
“木々の葉が色づく。その時僕たちは「何に」美しさを感じているのだろう。変化はこの世界の在りようそのもので、「変化そのものになっているからこそ」、生命は輝くのかも知れない。 しかし人間は、時として変化を恐れる。この変化の世界に在りながら、僕たちはしばしばこの世界を、時の流れを、変化を、在るままに受け止められずにいる。自分でありながら自分の在りようを受け入れられないかのように。”
僕は子供の頃、兵庫県のとある田舎に住んでいた。付近には茅葺もまだチラホラ残っていたし、ぐるり視界には田んぼが広がり、学校の隣にある広い敷地では筆筒の竹をカラカラと転がしながら乾かしていて、その音が小学校の校庭に響いて聞こえていた。通学路は時折あぜ道に外れ、学校までは子供の足で一時間位、途中すぐに川へ降りて行ける箇所が幾つもあって、登下校中はそこらへんを野犬が歩いていた。友達の中には、冷蔵庫がない家や、吊り橋を渡って行くような集落に住んでる子もいたし、着物を着たお婆さんがいつもその辺を歩いていた。
こう書くと、牧歌的で平和なイメージを持たれるかも知れないが、多くの人々はどこか保守的で、外から移り住んだ人はまだ少なく、あちこちに軋轢が生じていた。その中に被差別部落と呼ばれた地域があったり、朝鮮出身の人々が暮らしている地域があったり、孤児院があったりして、幼いながらも社会の理不尽、そういったものに対する憤りややるせなさを感じるには充分の環境だった。
ともあれそんな訳で、僕の音楽には原風景として山村や農村がある。ちょっと怖いけど心安らぐ森や林、そして今では危ないと敬遠される暗闇、そしてそこに暮らす人々が抱え持つ影の部分が、僕の音楽のイメージには潜んでいるような気がする。子供の頃の僕はアウトドア派でもなかったけれど、それでも季節の移り変わりや野山の様相、田舎に住む人々の心の様相は、多くの影響を僕にもたらした。
そしてその頃、僕はいつも自分の周囲に自分以外の「何者か」の存在を感じていた。その何者かは最初「目」に近くて、部屋にいても外にいても、常に何かの視線を感じる。どこから自分を見てるんだろうと、僕は部屋の壁や天井、家の隅々や周囲の木々や建造物など、あらゆるところを探し回った。その視線を確かめるために、「この辺かな」というところに目玉のシールを貼って、それを改めて眺めてみて、確認したりもしていた。
その目は僕を見てるだけで、特に何もしてくれない。どんなにしんどい時でも、「ただ」見ている。もちろん、見られててイヤな時もあるんだけれど、次第に慣れてきて、それはもう僕たちのような「反応や評価や判断」といったものをしない(そしてそのかわり、助けもしてくれない)、よくわからない者の目なんだと理解するようになった。そして「目」の次は「手」だ。手と言っても、物理的な感じの手ではなくて、形のない手というのかな。
その手は、意外な瞬間に「はたらきかけてくる」。そしてどうもこちらの準備というか、あちらとの信頼関係というのか、何かの条件が揃った時なのかも知れないが、こうしたいというような想いも特にない時、力が抜けて思惑が消えている時なんかに、自分の力や想いだけでは起こり得なかったようなことが、そして自分で望んでいた訳でもないけれど振り返ってみれば求めていたかもしれないようなことが、身のまわりや自分の身に、起こる。「そう運ばれる・そう導かれる」という感じのやつだ。
先だって久しぶりに学生さんと会って、「他力」について話していた。今の社会は、明治以降の近代的な思考パターンに則って物事を捉えている人が多いから、自力は「他人を頼らない・自分以外の助けをあてにしないこと」で、他力は「他人を頼ること・自分以外の助けをあてにすること」みたいな、単純な思い込みを持っている人が多い。実際に、他力とは何を指しているのか、本願って何のことなのか、法然親鸞はどういう時代にあって、どのような思想転換を起こそうとしていたのか、知っている人は少ない。また、自力本願などという言葉が本来仏教にはなかったことを知らない人も多い。知らずに、周りの人たちが使うようにして使っている。
自分だとか、自力だとか、自立だとか、自信だとか…こういった言葉を「近代西洋的な概念の借用」によって使っているうちに、物事を単純な線引きで捉えようとしてしまい、思考パターンが単純化してしまっている人は多いように思う。
たとえば一つの現象は、様々な「はたらき」が合わさることで生じている。自分が変化することは、変化しようとする「自ら(みずから)の」はたらきと、変化へ導く幾つもの「自ずから(おのずから)の」はたらきが合わさって、自分が変化「することになった」というわけ。では、そのような「はたらき」の邂逅は、どんな風にして起こっているのか。これは昔から、僕の大きな関心事だ。
僕たちは秋の黄葉・紅葉を眺めて「きれいだな~」って感じるけれど、あれってなんでそう感じるんだろう。単純に黄色や赤の色?それともいっせいに色が変化するという現象に対して?夏の緑だって綺麗なのに、秋の黄葉・紅葉の時期は多くの人にとって、どこか特別だ。 ちなみに、物体は光の中のある部分は吸収し、ある部分は反射する。その反射した部分の光…つまり跳ね返された光を人間は「その物体の色」として認識してるから、つまり葉っぱそのものは(緑色を吸収しないで跳ね返すから)緑色に見えているけど、ホントは?緑色じゃないとも言える。緑色が人間に与えている恩恵は計り知れないけれど、そういった関係は、どっちのはたらきで成り立ってきたのだろう。どっちのはたらきかけから生じていったのだろう。という風に、「どっち」とか考えているうちは、恐らく浅慮な答しか出て来ないだろう。
そして秋になって葉っぱが色を変えるのは、単に「段々枯れていってる」からだけじゃない。実は冬に向かって太陽光線が弱くなり、気温が下がり、これから水分を節約しないといけない状況を迎えると、木は葉から枝にクロロフィルを分解し移行させ、光エネルギーが過剰にならないよう、つまり光合成を効率よく維持するために色を変え、最終的には葉へのエネルギーを止めて足元に落とす。「そうなってきたから、こうしようかな」とかじゃない。「こうしてるんだから、そうなってよ」とかでもない(意味、伝わるかな)。
時が訪れた際に、躊躇なく変化を迎えられるのは、実は既に、「常に変化してきているから」だ。変化していないように見える時でも、変化し続けている。そしてその変化を自ら感じ、その変化を自ずから知らされているからこその、ある種の「信頼関係」のようなものがこの現象世界にはあって、だからこそ「待っている訳ではなく、待っている」んじゃないかなと思う。ここに自力や他力の線はない。そこに人間が線を引くとしたら、恐らく浅慮な思い込みしか、生み出されないだろう。
というようなことを考えながら、なかなか変化できないでいる自分に対して暗澹たる想いを抱き、そして暗澹たる想いに沈む自分に対して何故?と自問を繰り返していた時に作ったのが、この旋律。
そう言えば昔から、どういう訳か「悩み事あまりなさそう」「いつも自信ありげ」「楽観的で元気」「裕福で生活に困ってなさそう」等と、周囲の人から思われやすかった。何故だろう、顔か雰囲気か、はたまた言動か??それは分からないけれど、人って基本的には勝手なものだし、事実を知ろうとするより、手元の少ない情報で勝手な物語を作ってしまうものだ。そしてそれを、ついつい(無責任にも)共有したがるもの。基本的には、他人からの誤解や曲解、思い込みも「悪意はない」として放っておくしかない(場合によっては、悪意も少しはあるかも知れないけどww)
でも、そもそも僕の事実を「知らなくていい人たち」は、僕が「近しい関係」を築く必要が、本当はない人たちがほとんど。そして「近しい関係」になったら、誤解や曲解は「自ずと」、生じにくくはなる。誤解とか不理解、そして認識されないことや評価されないことって、人間が一番苦しむこと…って言ってる人もいたけれど、人知れず咲いては散っていく花だってあるし(本当は大半がそう)、誤解されている動物や植物だってこの世にはいっぱいある。
とは言え、「いる」だけでそこに「清々しく、いられる」…というような境地には、なかなか届かない、人間としての自分もある。でも、そういうところに向き合っていたいという想いがあるから、こうして常に「問いかけ」が、どこからかともなく、もたらされるとも言えるんだろう。
ところで蛇足ながら「秋」という言葉は、ついつい収穫のイメージから「飽くほどに」の飽きが語源、と思ってる人も多いけれど、日本語全てを農耕と結びつけるのは無理があるし(近代の悪い癖)、飽くにも更に元の語源がある。赤、明、開などの文字が当てられていることでもわかるように、「ア+カ行」の言葉には元々「エネルギーが満ちている」というような共通のイメージがあったらしい(アはエネルギーや根源的な力のイメージで、カ行の音は顕現を表す音だったという説がある)。そう思って秋を眺めてみると、人生における秋は、なかなか良いものだということがわかる。