◆自粛と言われて、しんどい思いをしてる人たち、まずは「自重」と言い直してみて(意味は自分で調べてね)。
◆アーティストはそもそも、夥(おびただ)しい思想的ウィルスを保有しているもの。まずは自分から生み出される「それら」と共生し得る身体的知性を自分で磨き、整えておくことが肝要じゃないかと思う。今回の騒ぎ如きで、被害者のような気持ちには陥らないで欲しい。「決してコントロールされない」側の人間であるという、誇りと気概を持ちませんか。それらを持てないでいるならば、この機にそれらを熟成させることはできないだろうか。
※この冒頭要点で、「何だこれ意味不明」と思った人は、この後を読んでもチンプンカンプンだと思うので、スルーをおススメする
今、我が家はタイムの花で一面ピンクに染まっている。そしてタイムに群がるミツバチの羽音が、地面にヴーヴーと響き渡り、アゲハやモンシロ、クマンバチたちがランデヴーのように飛びまわっている。できればずっと庭にいたくなる、いわば最高の季節だけど…草刈りや畑仕事は、待ってはくれない。起床→水浴び→修行(笛)→料理→草刈り→修行→料理→近所におでかけ→草刈り→修行→畑→料理→修行→沈没(就寝)…そんな日々。これってもしかして、ここに移り住んだ頃と何も変わってないのか?過去の投稿を見たら、やっぱり同じことが書いてある。
そうか、思い出した。僕はもう2009年頃から、自ら望んで、自重期間に入ってたんだった。自重というのは、世間と絡み過ぎないよう、人前に出ることに精を出さないよう、そこで何かを得ようとしないよう、何かを分かってるような気にならないよう、という自重。元々、音楽って自分にとっては「修養」だったなぁ~と思い出したから、修養らしく音楽をやっていこうと思ったら、暮らしが勝手にそうなってしまったというだけのことなんだけれど…。だって、人前に立ちたいと思って音楽を始めた訳ではなかったし、そもそも拍手もお金も、他者の反応も、音楽を手にした時に、自分は特に求めてもいなかったものばかりだ。
自重期間に入ってすぐに体験したのは、水木しげるの作品に描かれているような「キキキキキッ」という、朗らかな笑いが自然に生まれ出てくることだった(笑)。それから4年程かけて、墜落しない程度の仕事だけしながら、どうにも売りにくい本を書きCDを作り、その後むしろ自重期間を延長しようとするかのように、この地に引っ越してきた。
で、低空飛行というものには極めて深遠で微細なバランス感覚が必要なのだと、改めて確認した。時折ビョーンと流れに乗ってトンビの如く上空に行きたくなることや、適当なところでそっと着陸して羽を休めたくなることもあるが、生きる秘訣というか、醍醐味というものは、そういうことではないみたいだな、と分かってきた。
世間では目下「押しつけ自粛」が大流行だけど、元々自重&修養生活にあった僕は、もはや自重することがフツーになってて、自重が続いてるのか押し付け自粛を被ってるのかも、分からなくなってた。つまり、自重していることすら忘れていた。
しかし、降って湧いたような状況下で、思いもしていなかった困難や苦痛を味っている人が沢山、世の中にいることは分かっている。寂しさや、それまで避けていたはずの孤独や孤立と直面し、何かを「待っている」ような気持ちになってしまっても、仕方ないかも知れない。僕はそういう、今回のことで精神的・経済的な苦難に直面している沢山の人たちが、これまでの生活で「そこまで、世間としっかり関わってきた」ということに…「現代社会の価値観と、がっぷり四つで歩んできた」ということに、むしろ感銘を受け、そして心のどこかで深くリスペクトしている。
でも、「ものごとが分かってない連中」に、安易な言葉を押し付けられて、その言葉に心のありようまでコントロールされないよう、気を付けた方がいい。自粛なんてのは、人々を悪者にするかのような言葉だ(社会から見れば・第三者から見れば、自分の方に罪や落ち度がある…として、自分で自分に罰や制限を与えようというニュアンスを含む)。「自粛要請」なんて訳の分からない言葉を国が発してしまったら、フツーに働き稼ぎ、人と関わり人とつながりながら国民生活をすること自体が、罪だと言わんばかりになる。
罪の自覚が出来ぬ者たちには、正義を振りかざし鉄槌を与えて良い…という歪んだ単純思考の人々が、悪者探しよろしく、勘違いな愚行に及び社会を跋扈(ばっこ)してしまうのは、少し考えたら分かることじゃないかな。これは今の日本社会が、判断の場が情報発信の場が、基本的に、文化に関しても歴史に関しても無知な者たちによって占拠されているからだ。
「まだ見えないことが多すぎるので、もう少し見えてくるまで、自重してください」「お互いに自重しませんか」と、まずは呼びかけるべきだった。自重とは何かを説明すべきだった。情報を共有し信頼関係を築こうとすべきだった。言葉や対処の端々に、信頼関係ではなく、制御し操ることで社会を築こうとしていることが、表れている。
自粛なんて言葉を押し付けられて、いま気分が落ち込んでしまっている人々は、ただ真面目にはたらいて生きていた人々や、言葉に対して直感的なものを持っている人たちだと思う。政治家やメディアだけでなく、言論者であるという顔をしている人々までが、右に倣えして「自粛」という言葉を行き交わせるものだから、これはウィルスよりも厄介なことになっている。誰も自重と言い直さないし、自制や自律という言葉も、ほぼ使おうとしていない。与えられた言葉で思考する…これは残念ながら。「コントロールされる側にいる」ということだ。
だから、この信頼関係のない、国や行政の押し付け自粛モードでしんどくなっている人たちは、せめて「自粛」という言葉ではなく、「自重」という言葉を使うようにして「自分自身の力と思考」を取り戻して欲しい。お互いを思いやったり、自分自身が安易な過ちを犯さないために、自分に出来る範囲で賢明になろうというのであれば、自重でいい。そしてそれは「させられる」ものじゃない。そしてそれらが現在の時点で、本当に必要なのか、実際どの程度必要なのか、改めて問い直せるようになれば、と思う。
しかし実際、自重には体力もいる。多少の計画性も必要だし、そして基本的な身体的知性が不可欠だ。気持ちだけでは、容易に「墜落」する。だから助け合わないと…これはある意味、全ての人がアーティストになれるための、機会でもあるんじゃないかな。助け合うためには、まずは自分の在り方を確固としたものにしようとしなくちゃ。そこから、互いの不安を取り除いて行くようにしていかないとね。
不安を軸にした判断は、大概誤っている。これはそれこそ、歴史を見れば明らかだ。
さて、僕はそもそも、思想も情報も、そして音楽も…世間でいうところのウィルスのようなものだと昔から思ってきた。それらは、ある特定の人間から生み出されたとも言えるし、そうではないとも言えるものだ。思想や情報、そして音楽も、発せられ、外を飛び回って、戻ってくる頃には、随分「なり」が変容していたりする。
たとえばある曲が、国外のどこかで流行したりカバーされたりしてるうちに、えらく様相が変わってしまった…みたいなことってあるよね。それを聴いて、その曲の作者や、その国の人たちはどういう反応をするだろう。オモシロ~イとか、愉快だね、と感じる人もいれば、不快に感じ、受け入れられなくて拒否反応を示す人もいるかも知れない。タイミングも重要だ。たとえば過度にエレクトリックに加工なんかされたのを聞かされたりしたら、こんなの「いやだ」と思うタイミングもあるかも知れないし、「へぇ、こんな風にもなるんだ。これもありかもね!」と思えるタイミングもあるかも知れない。
「元は自分のところから旅だったものが、戻ってきた時、生命は変容を促される」。思想にせよ情報にせよ、そして音楽にせよ、それは起こり得る。むしろ、それによって生命はどこかへ向かおうとしている。巨大な生命のダイナミズム、その「はたらき」から見た時、重要なのは、その仕組みを知っておくことと、そのはたらきを知っておくこと、そして「そこに自ら意味を与えるだけの、身体的な知性を身につけておくこと」だ。
身体的な知性に関しては長くなるので、今は触れない。でも、ここまで読んでピンとくる人は、頭で考えようとしなくても、もう身体のどこかで共鳴しているんだと思う。「それ」のことだ。
僕は小学生の頃から、思想的ウィルスを沢山、保有している。情報的なウィルスもかなり蓄えている方かもしれない。自分自身が、それらにやられてしまうかも、と感じたこともある。免疫のない人や、準備が整っていない人に感染しないよう、気を付けてもいる。それに加えて、世界各地の様々な音楽文化に興味を持ってきたから、いろんなものを触ってきて、たぶん全身常在菌まみれだ。ウィルス記憶もかなり蓄えられているかもしれない。それらの「せめぎ合い」を、自分の内で感じることもある。しかし、この同居や共生を感じられているとき、僕は生きている実感を味わってもいる。
という訳で、今日も草刈りと畑と修行に精を出したいと思う。