2021年、年末二ヶ月のご報告
◆11月6日&7日「ツクル森」…ひらいた、まつり
今年は、この催しがイベントやフェスという範疇ではなく、ある意味新しい「ムーブメント」になりつつあることが明確に見えた年となった。職業柄これまで多くのイベントやフェスに出演してきたし助力もして来たけれど、ツクル森はそのどれとも異なった方向性を持っている。「そこをキャッチしている人々」が次々とつながり、そこをキャッチしている人々が模索し続けることで生まれつつある風景。それらに関して書きたいことや写真・動画はいっぱいあるんだけど…そういうのがあまりにもあると「何も書けねぇ~!」ってなっちゃうことが今回よくよく分かった(^-^;
夏が過ぎて…
先週、学生さんたちの回答全てに、ようやく返事を出し終えた。もう仕事的には8月頭に終了してて、成績も出し終えてから一ヶ月が過ぎてるんだけど…タイミングを見繕いながら一通一通返事を書いてたら、えらく時間がかかってしまった(笑)
「レポートに対して個別に返事や感想を書いて来てくれる授業は他になくて、有り難かった」と後から書いてきた学生さんも多かったんだけど、そうなの??考えさせられる…。
授業の補足テキストや学生さんとのやり取りは、本にしたら毎年一冊分にはなる。実際本にできる訳じゃないけど…ホントは多くの人に読んで欲しいくらい。
今年の最終課題はこんな感じ。この設問の一つ一つの意味が読み取れる社会人って、今どれ位いるんだろう。残念だけど、まだ勘違いしたり早合点してしまう人の方が多いんだろうな。かなり大きな時代の変わり目を迎えてはいるけれど、旧時代の思い込みを捨て去ることができる人が増えるには、もう少しかかりそうだと思う。
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①歌を作るつもりで、「ひとり」「ひとつ」「いきる」「いく」「めをさます」という五つの言葉を使い、詩を書いてみてください。
②あなたにとって「かけがえのないもの」とは、どういうものでしょう?もしくは「なくしたくはないもの(失いたくはないもの)」とは何でしょう?幾つでも良いので、思いつくままに書いてみてください。
③あなたがつい「機械的に反応してしまうこと」って、どんなことですか?普段の自分自身を振り返って、書いてみてください。※たとえば、誰かから頭ごなしに否定された時ムカッとするとか…パターン的なことが引き金となって、喜怒哀楽など(特定の感情)が半ば自動的に・反射的に、自分の中で引き起こされるようなこと
④「生まれたばかりのあなた」を、今のあなたが養育するとしたら…あなたは、自分自身をどのように育てたいと考えますか?空想を巡らせて、書いてみてください。
⑤あなたがもし「あなたの両親の、親だったら」…あなたは、自分の母親を父親を、どんな風に育てたいと考えますか?空想を巡らせて、書いてみてください。
⑥あなたが「今、自分がイメージできる最高の状態」にあるなら、あなたはこの社会で、どのような「はたらき」を担うと思いますか?
⑦あなたが現在「そうなれないでいる」、もしくは「今後、そうなれないような気がする」ならば、それは何故でしょう?あなたが「そうなれる」ことを阻んでいるものがあるとしたら、それは何だと思いますか?
⑧「私は常に、自分や自分のおかれた状況に、変化を起こすことが出来る。なぜならば…」という書き出しで、続きの文章を書いてみてください。
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たぶん大方の人が想像する以上に話があちこちに飛ぶ、超無節操な授業だけど(笑)今年もまた、宝石みたいな魂をいっぱい見せられた時間だった。みんな、ありがとう~こんなヘンテコ状態の世の中・カオスのような時代だけど、いろいろ考えたねー、いっぱい笑ったねー、輪になって踊れて楽しかったね…☺
みんな、いい人生をおくれますように☆彡
2021年、夏至祭
6月21日(月曜日)、京北・夏至祭…これはイベントでもフェスでもコンサートでもなくてホントに「祭」なので、休日平日に関係なく夏至の当日に行なう。この国もこの社会も…早くそのことに気付いて、そういう暮らしを取り戻すことができたらいいのにと心から思う。
※この夏至祭は、特定の宗教にだけ基づいたお祭ではありません
夏至の日のハーブを摘んで、天地の塔やしあわせの輪、ウツシダマを飾ったり、料理に使うのが毎年の行事。ある程度は整備していたけれど、雨が続いた後はやはりハーブ園がカオスになっている(笑)でも、あまりにも手の入った庭は、それはそれで管理が行き過ぎた社会のようで、寒々しくもある。自然の、人知れぬドラマが見え隠れする庭の方が、せめぎ合いとしてはバランスが良いようにも感じるし、何より分け入った時にワクワク感がある。
今年はジューンベリーが当たり年で、ヒヨドリたちの来襲も少なく(笑)今までにない量が収穫できたので、「ジューンベリーをその場で絞ってソーダやワインで割って飲む」っていう、贅沢な遊びを始めた。砂糖不使用でも、とんでもない甘さとさわやかな香り!
ブルーベリーも目下、鈴生り状態…子供たちがちょいちょい採りに行っては口いっぱいに頬張る。この日は太陽も人のエネルギーも何だかすごくて、まるで時代が早くも次に進んでしまったかのようだった。
毎年書いてるけど、聖なるの「聖」は「ひじり」と読み、これは元々「日を知る」の意。古来からこういう節目の日は、自分がどう生きるかを自然天然世界に向かって宣言する日でもあった。何気ないお喋りや遊びも、この日は聖なる儀式へと変容する。
夏至祭は冬至祭と同じく、地域住民しか参加できない「閉じた祭」なんだけど、僕はこの「閉じる」ことの意味について、「開く」ことと同じくらいにこだわって来た。「輪をくくる」…これは歴(れっき)とした知恵やアートだと思っている。
ちなみに、世界各地に残る夏至の祭は、古来から男性性と女性性の融合…いわば二つの極の共鳴や融合がテーマの一つだが、エントランスの「天地の塔」も、天と地を結び付けるシンボルとして、祭会場である我が家の入り口に建てられている。横軸に作られた回転する輪は、ちょうど天と地の間にある僕たちの世界を表す格好になっているが、これも搭をはじめて建てた際に、自然とそういうデザインになった。縦軸や横軸、輪や回転といった要素が、万国共通のシンボルとして、この現象世界を表していく過程を、作りながら追体験しているというわけ。
そして「ウツシダマ」は、この夏至祭の要でもある儀式。かつて日本には、罪や穢れ、邪な想いやネガティブな想いなどを祓う方法として、石を使う方法があった。小さな石を手に取り、体温と同じ温度になるまで握りしめ、そこへネガティブな思いを移行させ封じ込めると、それを川に投げ入れ、水の流れによって浄化させていたという。よく、川で拾った石を持って帰るな、と言われたものだが、そこにはそんな理由もあったという訳だ。
夏至祭の「ウツシダマ」は、そんな「浄化」のアイディアを持つ儀式。ワラの紐を丸めて結びながら、そこに上記のような想いや浄化したい記憶などを込めていく。そしてそのワラの玉を、夏至の強い光を受けたハーブや花で飾りながら、エネルギーをカワイく美しいものに「変換する」のが、このウツシダマ。こうしてできたカワイくて美しい作品を、それぞれが火に投じる。自分の創造性でもって変換したエネルギーを、火を通して地球に返すというワケ。
それにしても、持ち寄りパーティーのクオリティの高さが毎年ヤバい。みんなの創造性や日々の心持ちに、いつも感心させられる。地域に住む友人たち、そしてこの日の有り難き「し合わせ」に感謝。
※そろそろ我が家の構造的キャパを、次のレベルにアップすることを考えなければ…💦
しあわせの輪くぐりは、カップルでも家族でも、友人同士でも…相手のいない人は一人でもできる。一年に一度の「結婚式」みたいなもので、夏至祭の「女性エネルギーと男性エネルギーの共鳴と融合」を象徴する儀式。結構楽しい♫
お祭って、「時間の中の定点観測」みたいなところがあって…それぞれの、一年の間の変化や成長が見えたり、これまでの何年もの歩みを眺めたりできて、感慨深くなったりもする。
5月。田んぼでは…近所では…
2021ツクル森(11/6,7)は、もう動き始めている
https://www.tsukurumori.com/
※写真は、5月15日夜に行われたツクル森Zoomミーティング
春…大学の講義始まる
春、満喫…とはいえ朝は0~3度くらいまで落ちることもあるから、日中との温度差が大きくて、草花やクマンバチ、蝶々たちからも何となく戸惑いのようなものを感じる。世の中は相変わらずヘンテコ状態驀進中だけど、今は外で過ごすのに最高の季節…そしていつも通り、自然は人間どもを待ってはくれない。この地に移って来て最初の年は、リアルに朝から晩まで庭仕事をしていたけれど、寝る前に体重計に乗って4キロ近く減ってた時は、さすがにヤバいと思った。最近は無理しないで(笑)自分に甘く、暮らせるようになった気がする。でも案の定、草刈りも整備もなかなか追いつかない。
さて、前期だけ担当している大阪大学での授業が今年も始まった。昨年受講してくれた学生さんが数人、再履修希望なるものを出して、二度目を受けに来てくれている。僕は授業を受けに来る学生さんたちに愛着を感じているので、素直に嬉しい。授業のタイトルは昨年と同じく、「共生の技法~ヒトはなぜ、うたい踊るのか~」。
よく「どんな授業されてるんですか」と尋ねられるんだけど、一言で説明できない。社会人対象の講演会などをすると、「こういう話を学生の頃に聞いておきたかった」と仰る方が結構多い。でも実際には学生の頃に聞いても、ピンと来ない話も多いはず。でも中にはピンと来る学生さんもいるだろうから、キョトンとされたり聞き流されたりするのを覚悟で(笑)、そういう話も盛り込むようにしている。
現代日本人の多くは、一つ一つの言葉についてあまり知らないまま(知ろうとしないまま)、周りの人が使っているのを受けて「ただ使っている」。その意味や概念がどこかでおかしくなっていても…みんな同じようにして「ただ使っている」ものだから、気付く機会がまずない。これは「音が狂ったままの楽器を、みんな気付かずに鳴らし続けて、メロディを奏でてる気分・合奏している気分になっちゃってる」のに近い。社会の大部分がそうだったら、これはえらいことだ。
でも日本は既に「えらいことになってる」状態が長く続いていて、随分昔から「個々の思考は乱れやすく、感性は機能しにくい状態になっている」。もしくは、別の機能を果たす状態に「追い込まれている」…と言ってもいいかも。
言葉はみんなが日常的に使っている「音」だから、その「調律や調整」は、即効性と実用性がある。なので、そこを入り口にして、日常の中でのものの捉え方や感じ方、考え方や行動を見直していくようなことを、授業ではよくやっている。
教育が「おかしな状態」になっているのは、今に始まったことじゃない。僕が子供の頃から既にそうだったし、僕自身もその頃から気付いていた。仮に現場の教師たちがそれぞれ問題意識を持って取り組んでいたとしても、どうしても限界や制限もあるし、この国の現状がこれでは心ある教師から順に疲れ果ててしまう。就職活動で「頭がいっぱいな状態に、させられている」学生さんたちの言葉の中には、彼女ら彼らが直観的に感じているこの社会の危機が顔を覗かせる。
今年からは、授業最初のアンケートに「これまでに、死んでしまいたいと思ったことや、そんな風にして悩んだことはありますか?もしあるならば、その悩みは何によって引き起こされたのだと考えますか?」という項目が加えられた。これはただ単にそれぞれの経験について尋ねているんじゃなくて、今の時点で改めて「自己観察」して書いてもらうことに主眼を置いている。
この社会に居場所を得るために、「取り引き」をせまられるような世の中…「そこには本物の言葉も人間も、感じられないでいます」と書いてくれた学生さんたち、損得勘定して割り切ることが大人になることだとは、どうしても思えないでいる人たちに、光射す時間というか…多くのきっかけや意味のある授業がしていきたいなぁ…と、タイムの間を飛び交うミツバチの羽音を聞きながら、毎年のように思う。
⑥一枚目のアルバムの7曲め…「アカイツキ」のちょっとバカな物語
アカイツキ/きしもとタロー(ミヤコオチ) The Red Moon/Kishimoto Taro (Miyako-Ochi:New style Quena) - composed in 1997
小学校の時、「小説を書く」という授業があった。最終的には自分で表紙を付けて原稿用紙を綴じた後、冊子で提出する事になっていたが、あくまで授業なんだし、時間内で提出できるボリュームの物語を書けばいいものを、僕は書き終えるのに数ヶ月はかかるであろう壮大な一大巨編にとりかかってしまった。当然のことながら、締め切り日に提出できたのは大巨編の冒頭部分のみ。本編が始まる前のプロローグだけで既に提出分のページ数を超えていた。
「紅い月が輝く夜に、それまで存在すら知られていなかった世界各地の古代都市の遺跡や遺物が、海底から、そして連なる山脈の尾根や地底から、月の引力に導かれるようにして次々に姿をあらわす」…その「次々と姿をあらわす古代都市の遺跡や遺物の数々」のシーンだけで、既にテンションがマックスに上昇した僕の文章は、友人たちにも先生にも意味不明のシロモノだったらしく、発表でさわりを読み上げた際には教室が静まり返り、読み終わると先生が困惑の表情を浮かべていた。「えっと、あちこちに話が飛び過ぎてて、意味がよく分からない…これは何の話??短くできなかったの?」
え、あちこち?短く?地球規模に話を展開したら、いきなりの拒絶反応か。ダメだ!この連中には壮大な考古学ロマンが通じない。地球文明が・これまでの歴史がひっくり返るような物語なのに、今まさに月の正体が明らかになり、様々な超古代文明が実はつながっていたという、人類史を塗り替える事実が明らかになる物語なのに(注:小学生の妄想)。「それからどうなるの!?」という声や、「もっと読みたい!」という声が上がるかと思いきや、友人たちは全く無反応。授業であることも無視し、思いつくままに好きなものを書こうとした結果とは言え、虚しさが胸をよぎった。思い返すに僕は、この頃からあまり変わっていないのかも。
さて97年作曲のこのアカイツキは、そんな子供の頃の妄想のために作った、という訳ではない。この曲では南米の縦笛Quena(ケーナ)を基に僕自身が開発した竹笛ミヤコオチを使用している。子供の頃は後先考えずに何かを始めてしまうものだけど、僕はよく発作的に着想を得て、昼夜問わず色んなタイプの笛を作っては、試行錯誤を重ねてきた。家族にとっては大迷惑である。
ミヤコオチはそんな試行錯誤が生み出した笛の一つで、吹き口は昔のケーナのような四角い切込み型、表に6つ・裏に1つの指孔を持ち、左手の人差し指は指孔ではなく笛を保持し、指から歌口に向かって一定の圧力を加えた状態で演奏する。南米音楽と日本音楽とアイルランド音楽等の技術をミックスしたような奏法で演奏するので、少なくともそれらの素養がないとこんな風には吹かないだろうし、通常ケーナと呼ばれている笛を演奏する人で、こんな曲を演奏する人も演奏したがる人もいないだろう。
僕は都節という日本の旋法で幾つも曲を作ってきたが、その旋法の中の二つの音に、それぞれから落っこちた音を二つ付け加えるとハーモニック・マイナーの音階になる。この都節とハーモニック・マイナーに、何か文化的な親和性というか歴史的つながりのようなものを感じ、それら両方の旋法をベースにして作ったのがこのミヤコオチだ。何のこっちゃ、と思われるかも知れない…僕の中にある関心事や知識のおよそ8割位は、他の人にとってほぼ意味不明であろうことは、さすがに僕自身(これまでの人生で)自覚できている。
子供の頃から僕は月の光に興味津々だったけれど、それはある意味「怖いもの見たさ」のような感覚だったと思う。中でも紅い月は「極めてヤバいパワー」を放っているから、それで上記のような物語を小学生の時に思いついたのだと思う。青い月の夜は、どこか静かで澄んだような気持ちにもなるけれど、紅い月が浮かぶ夜は、自分の中の「うねり」のようなものが形を成していくような錯覚が起こる。月からの「視線」を感じてこちらも見返すと、自分の奥底にある得体の知れないものが、自分の及び知らぬところで呼応し始めるような、奇妙な感覚を覚えることがある。どこか怖くもあるけれど、そうしてついつい眺めてしまうのは、もしかしたら自分の内にある何かがそこに映し出されているから…なのかも知れない。
そう言えば僕は笛を作り始めた頃から、笛という楽器にある種の「恐いもの見たさ」を満たしてくれる力のようなものを求めていた。大きな音であるとか、キツい音というようなことではなく、もっと特殊な波長というか振動というか…人間以外のものが至近距離から声をかけてくるような、自分の中の「人間じゃないもの」を呼び起こす呪文のような音。静かで容赦のない「揺さぶり」のようなもの。たぶん僕は笛と言う楽器に、そんな「揺れ・揺さぶりのようなもの」をずっと求めている。
笛を吹いている人は世の中に沢山いるし、笛の音が好きな人も沢山いるだろうけれど…この楽器に求めているものや、この楽器の音色に対して持っているイメージ・こだわっているポイント等は、当然人によって異なってはいる。しかし僕の場合は、特に異質な方かも知れない。もちろん人から注文を受けて笛を作る時や、人に笛を教える時なんかは、自分自身の好みやこだわりは脇に置いてはいるけれど(そうしないと仕事にならない)。
僕は子供の頃から、耳に入る様々な笛の音色や演奏を具現化すべく、次々に笛を試作し演奏してきたから…たいていの笛の音色や演奏スタイルは「過去に一度は通過している」。つまり多くの人が好むような音色を出したり、そういう音色に合致した技術で演奏することは、正直それほど難しくはない。でも「自分が」そういう音色や演奏に魅力を感じているかと言うと、僕は上記のような「揺さぶり」を持っていないものは物足りなく感じたり、幼いものや無害なもののように感じて、それほど関心が持てなかったり、場合によっては無反応にもなってしまったりするから…。
じゃあ、害があるようなものが好きなの?と言われると、それはもしかしたらそうなのかも知れない。やさしいけれどグサッとか、静かだけど激しいとか、柔らかいのにコワいみたいな…もともと人間が「都合よく」自然に求めているようなファンタジー的イメージ世界はあまり好きではないし、むしろそういう人間的な思惑の世界観に、横槍を入れてくるような、不意打ちをくらわしてくるような、少々ヤバい系のエネルギーというか…そういう響きや歌いまわしを持ち得ていなかったら「笛である意味」って限りなく薄くなってしまうんじゃないか、とまで思っている。そして年齢を重ねるごとに、そのような偏愛的傾向?は強まって来てる気がする。ちょっとマズいな。
そうはいってもこの曲も随分昔の曲だから、改めて聴くと自分でも幼いなぁとか若いなぁとか、拙いなぁと感じてしまったりもする。自分が求めているものが変化していくことって、本当に興味深い。
ところでこの曲、「あるところ」でBGMとして使用されていたことがある。「この曲をぜひ、使わせてください」と言われて、「ドウゾ~♫」と言ったっきりなんだけど…曲がかかってる現場には、結局一度も行けなかった。ナマで見ておきたかったな~。
プロレスの選手が、リングに上がる時のBGMだった(笑)
⑤二枚目のアルバムの冒頭曲、「ホシノウエデ」
④最初のCDの5曲目「アキニナレバ」の、ちょっと不思議な物語
アキニナレバ / きしもとタロー(ケーナ) When Autumn Comes / Kishimoto Taro (Quena) - composed in 1994
精神的に苦しかった時に作った曲が、何故かその後リクエストが多くて演奏回数を重ねていく…なんてことが不思議とある。もちろん曲を作る(何かしらのエネルギーと向き合って形にする)ことで、僕自身はもう次の状態になっているから、演奏する度に苦しかったことを思い出す…なんてことはないし、むしろその逆で、回数を重ねるたびに自分の中では何かが形になり、堆積し沈殿し、落ち着いていくのを感じていたりもする。 そんな作品の中で、これまで最もリクエストが多かったのがこの「アキニナレバ」。1994年の作品で、解説文にはこんなことを書いていた。
“木々の葉が色づく。その時僕たちは「何に」美しさを感じているのだろう。変化はこの世界の在りようそのもので、「変化そのものになっているからこそ」、生命は輝くのかも知れない。 しかし人間は、時として変化を恐れる。この変化の世界に在りながら、僕たちはしばしばこの世界を、時の流れを、変化を、在るままに受け止められずにいる。自分でありながら自分の在りようを受け入れられないかのように。”
僕は子供の頃、兵庫県のとある田舎に住んでいた。付近には茅葺もまだチラホラ残っていたし、ぐるり視界には田んぼが広がり、学校の隣にある広い敷地では筆筒の竹をカラカラと転がしながら乾かしていて、その音が小学校の校庭に響いて聞こえていた。通学路は時折あぜ道に外れ、学校までは子供の足で一時間位、途中すぐに川へ降りて行ける箇所が幾つもあって、登下校中はそこらへんを野犬が歩いていた。友達の中には、冷蔵庫がない家や、吊り橋を渡って行くような集落に住んでる子もいたし、着物を着たお婆さんがいつもその辺を歩いていた。
こう書くと、牧歌的で平和なイメージを持たれるかも知れないが、多くの人々はどこか保守的で、外から移り住んだ人はまだ少なく、あちこちに軋轢が生じていた。その中に被差別部落と呼ばれた地域があったり、朝鮮出身の人々が暮らしている地域があったり、孤児院があったりして、幼いながらも社会の理不尽、そういったものに対する憤りややるせなさを感じるには充分の環境だった。
ともあれそんな訳で、僕の音楽には原風景として山村や農村がある。ちょっと怖いけど心安らぐ森や林、そして今では危ないと敬遠される暗闇、そしてそこに暮らす人々が抱え持つ影の部分が、僕の音楽のイメージには潜んでいるような気がする。子供の頃の僕はアウトドア派でもなかったけれど、それでも季節の移り変わりや野山の様相、田舎に住む人々の心の様相は、多くの影響を僕にもたらした。
そしてその頃、僕はいつも自分の周囲に自分以外の「何者か」の存在を感じていた。その何者かは最初「目」に近くて、部屋にいても外にいても、常に何かの視線を感じる。どこから自分を見てるんだろうと、僕は部屋の壁や天井、家の隅々や周囲の木々や建造物など、あらゆるところを探し回った。その視線を確かめるために、「この辺かな」というところに目玉のシールを貼って、それを改めて眺めてみて、確認したりもしていた。
その目は僕を見てるだけで、特に何もしてくれない。どんなにしんどい時でも、「ただ」見ている。もちろん、見られててイヤな時もあるんだけれど、次第に慣れてきて、それはもう僕たちのような「反応や評価や判断」といったものをしない(そしてそのかわり、助けもしてくれない)、よくわからない者の目なんだと理解するようになった。そして「目」の次は「手」だ。手と言っても、物理的な感じの手ではなくて、形のない手というのかな。
その手は、意外な瞬間に「はたらきかけてくる」。そしてどうもこちらの準備というか、あちらとの信頼関係というのか、何かの条件が揃った時なのかも知れないが、こうしたいというような想いも特にない時、力が抜けて思惑が消えている時なんかに、自分の力や想いだけでは起こり得なかったようなことが、そして自分で望んでいた訳でもないけれど振り返ってみれば求めていたかもしれないようなことが、身のまわりや自分の身に、起こる。「そう運ばれる・そう導かれる」という感じのやつだ。
先だって久しぶりに学生さんと会って、「他力」について話していた。今の社会は、明治以降の近代的な思考パターンに則って物事を捉えている人が多いから、自力は「他人を頼らない・自分以外の助けをあてにしないこと」で、他力は「他人を頼ること・自分以外の助けをあてにすること」みたいな、単純な思い込みを持っている人が多い。実際に、他力とは何を指しているのか、本願って何のことなのか、法然や親鸞はどういう時代にあって、どのような思想転換を起こそうとしていたのか、知っている人は少ない。また、自力本願などという言葉が本来仏教にはなかったことを知らない人も多い。知らずに、周りの人たちが使うようにして使っている。
自分だとか、自力だとか、自立だとか、自信だとか…こういった言葉を「近代西洋的な概念の借用」によって使っているうちに、物事を単純な線引きで捉えようとしてしまい、思考パターンが単純化してしまっている人は多いように思う。
たとえば一つの現象は、様々な「はたらき」が合わさることで生じている。自分が変化することは、変化しようとする「自ら(みずから)の」はたらきと、変化へ導く幾つもの「自ずから(おのずから)の」はたらきが合わさって、自分が変化「することになった」というわけ。では、そのような「はたらき」の邂逅は、どんな風にして起こっているのか。これは昔から、僕の大きな関心事だ。
僕たちは秋の黄葉・紅葉を眺めて「きれいだな~」って感じるけれど、あれってなんでそう感じるんだろう。単純に黄色や赤の色?それともいっせいに色が変化するという現象に対して?夏の緑だって綺麗なのに、秋の黄葉・紅葉の時期は多くの人にとって、どこか特別だ。 ちなみに、物体は光の中のある部分は吸収し、ある部分は反射する。その反射した部分の光…つまり跳ね返された光を人間は「その物体の色」として認識してるから、つまり葉っぱそのものは(緑色を吸収しないで跳ね返すから)緑色に見えているけど、ホントは?緑色じゃないとも言える。緑色が人間に与えている恩恵は計り知れないけれど、そういった関係は、どっちのはたらきで成り立ってきたのだろう。どっちのはたらきかけから生じていったのだろう。という風に、「どっち」とか考えているうちは、恐らく浅慮な答しか出て来ないだろう。
そして秋になって葉っぱが色を変えるのは、単に「段々枯れていってる」からだけじゃない。実は冬に向かって太陽光線が弱くなり、気温が下がり、これから水分を節約しないといけない状況を迎えると、木は葉から枝にクロロフィルを分解し移行させ、光エネルギーが過剰にならないよう、つまり光合成を効率よく維持するために色を変え、最終的には葉へのエネルギーを止めて足元に落とす。「そうなってきたから、こうしようかな」とかじゃない。「こうしてるんだから、そうなってよ」とかでもない(意味、伝わるかな)。
時が訪れた際に、躊躇なく変化を迎えられるのは、実は既に、「常に変化してきているから」だ。変化していないように見える時でも、変化し続けている。そしてその変化を自ら感じ、その変化を自ずから知らされているからこその、ある種の「信頼関係」のようなものがこの現象世界にはあって、だからこそ「待っている訳ではなく、待っている」んじゃないかなと思う。ここに自力や他力の線はない。そこに人間が線を引くとしたら、恐らく浅慮な思い込みしか、生み出されないだろう。
というようなことを考えながら、なかなか変化できないでいる自分に対して暗澹たる想いを抱き、そして暗澹たる想いに沈む自分に対して何故?と自問を繰り返していた時に作ったのが、この旋律。
そう言えば昔から、どういう訳か「悩み事あまりなさそう」「いつも自信ありげ」「楽観的で元気」「裕福で生活に困ってなさそう」等と、周囲の人から思われやすかった。何故だろう、顔か雰囲気か、はたまた言動か??それは分からないけれど、人って基本的には勝手なものだし、事実を知ろうとするより、手元の少ない情報で勝手な物語を作ってしまうものだ。そしてそれを、ついつい(無責任にも)共有したがるもの。基本的には、他人からの誤解や曲解、思い込みも「悪意はない」として放っておくしかない(場合によっては、悪意も少しはあるかも知れないけどww)
でも、そもそも僕の事実を「知らなくていい人たち」は、僕が「近しい関係」を築く必要が、本当はない人たちがほとんど。そして「近しい関係」になったら、誤解や曲解は「自ずと」、生じにくくはなる。誤解とか不理解、そして認識されないことや評価されないことって、人間が一番苦しむこと…って言ってる人もいたけれど、人知れず咲いては散っていく花だってあるし(本当は大半がそう)、誤解されている動物や植物だってこの世にはいっぱいある。
とは言え、「いる」だけでそこに「清々しく、いられる」…というような境地には、なかなか届かない、人間としての自分もある。でも、そういうところに向き合っていたいという想いがあるから、こうして常に「問いかけ」が、どこからかともなく、もたらされるとも言えるんだろう。
ところで蛇足ながら「秋」という言葉は、ついつい収穫のイメージから「飽くほどに」の飽きが語源、と思ってる人も多いけれど、日本語全てを農耕と結びつけるのは無理があるし(近代の悪い癖)、飽くにも更に元の語源がある。赤、明、開などの文字が当てられていることでもわかるように、「ア+カ行」の言葉には元々「エネルギーが満ちている」というような共通のイメージがあったらしい(アはエネルギーや根源的な力のイメージで、カ行の音は顕現を表す音だったという説がある)。そう思って秋を眺めてみると、人生における秋は、なかなか良いものだということがわかる。